서대문형무소역사관(西大門刑務所歴史館)
日本植民地時代に独立運動家らを収監し、第二次大戦後は韓国政府が使った獄舎などを保存公開している西大門刑務所歴史館。
ソウル市中心部の北西に位置する西大門独立公園内にあり、植民地時代の監獄や死刑場、独立運動の取り調べの様子を史料や人形で再現しています。
建物は、朝鮮半島で初めての近代的な監獄として日本政府が1908年に建築。
終戦までに2階建て煉瓦造りの獄舎など10数棟や死刑場、死刑囚の獄舎群が造られ、日本植民地時代に朝鮮半島に設けられた刑務所の中で最大規模でした。
1987年に刑務所としての機能は移転、閉所した後、歴史館として1998年に開館し、現在は約10棟の建物が建っています。
2010年の改修後は凄惨な拷問描写は減らして、戦後の韓国の民主化運動の展示を取り入れています。
観覧案内 大人3,000ウォンです。 入場券売り場は入口内側にあります。
서대문형무소역사관(西大門刑務所歴史館)とハングルで書かれています。
入口を入った左側に観覧券売り場があります。
パンフレットです。
西大門刑務所歴史館 案内図です。
안중근 의사(安重根義士)(1909)
展示館・・・、重りのついた鎖、手錠などが展示されています。
柳寛順 烈士
朝鮮の独立運動家。忠清南道天安郡の生れ。梨花学堂在学中,1919年三・一独立運動に参加,帰郷して示威運動を計画。4月1日並川の定期市日に集まった群衆に太極旗を配り,独立宣言文を朗読,示威行進を組織した。彼女はデモの先頭に立ち指揮をとったが,憲兵の発砲により自分の両親を含む30余人の死者を出した。寛順は負傷逮捕され,首謀者として懲役3年を宣告されたが,日本に裁く権利はないと獄中闘争を展開した。上告審では法廷侮辱罪を加算されて懲役7年となったが,最後まで節をまげなかった。
メモリアルホールと名付けられ、独立運動に努めた愛国の志士を称えるために約5000人分の受刑記録票の複製が壁3面に張りつめてあります。
記録票は終戦時に日本が刑務所を引き渡した際に処分されなかったもので、通算収容者のおよそ8分の1にすぎないと言います。
獄舎(オクサ)
現在保存されているのは、第9.10.11.12.13獄舎、中央舎、ハンセン病舎。
建物の配置は中央から全体を見張れるように「T字型」になっています。
ここは、昼間でも日が当たらず薄暗く、特に第13獄舎は強制労働の場所でした。
12獄舎 墨部屋
独房は真っ暗で「墨部屋(モッパン)」と呼ばれていました。
日本が韓国を植民地化する際に建てられた刑務所をテーマにした同館。
日本人にとっては気軽なテーマではありませんが、日韓の近代史を考える意味では有意義な現場見学になるでしょう。
ハンセン病舎がほぼそのまま現存しています。
死刑場
木造平屋で内部に死刑囚や執行立会人が座る席などが設けられています。
建物の周りは高さ約5メートルの壁で囲まれており、入口わきに、中に連れて行かれる死刑囚がすがりついて泣いたとされる「慟哭のポプラ」と呼ばれる木が立っています。
屍躯門(シグムン)
遺体を刑務所の外にある共同墓地に捨てるための秘密の通路がありました。
解放後、日本政府による事実隠蔽のため一時封鎖されましたが、1992年、独立公園を造成する際に入口から40mが復元されました。
獄舎の敷地と赤レンガ
ここは本来獄舎があった場所で、1987年に撤去された。
撤去された獄舎からでた赤レンガでもともとの場所を表示しておいた。
レンガは京城刑務所で製作されたことを表示する’京’字が刻まれている。
隔壁場
受刑者が運動する際、互いに話をすることを防止し、受刑者に対する監視を容易にするために複数の隔壁を作り、各区画に受刑者を別々に収容して運動させた運動施設。
1920年代に建てられたが、解放後に撤去されたものを2011年に元の場所から20m移動して復元した。
女子獄舎
柳寛順(ユ・グァンスン)地下監獄
第二次大戦後に発掘、復元されました。
女性の独立運動家を収監、取り調べるために1916年に造られた地下の監房。
一畳ほどの広さの独房4室があり、三・一独立運動の象徴的人物で同刑務所において死亡した柳寛順らが拷問されたといいます。
塀・望楼
塀は高さ4.5メートルで、刑務所を囲んでいた長さ約1200メートルのうち刑務所の前後の2カ所に計約280メートル残っています。
望楼は高さ10メートルで、元は塀の6カ所にありましたが、現在は前部と後部に1カ所ずつ残っています。
入口です。
서대문형무소역사관(西大門刑務所歴史館)がある西大門独立公園は、地下鉄3号線独立門駅に隣接しているうえ、韓国の恒久的な独立を願って建てられた独立門などの文化財や緑もあり、市民の憩いの場にもなっています。