韓国人にとって「配慮」とは「私が他人に」ではなく、「他人が私に」するもの
「社会をよくするためには配慮が必要だ」としていた人たちが、なぜその逆である「嫌悪」という言葉を流行らせているのでしょうか。
その答えは簡単で、「私が他人に配慮する」ではなく、「他人が私に配慮する」ことだけを求めているからです。
これが韓国人の持つ、「道徳」全般の方向性です。
「相手(個人だろうと社会だろうと)が私にサービスするのは当然で、私は相手にサービスしない」という流れになります。
「私は道にゴミを捨てるけど、社会は私に清潔な環境をサービスするべきだ」と書くと、惨めですが分かりやすいと思います。
そんなもの、配慮ではなく、下の者たちが上に捧げる、「献上の品」でしかありません。
「韓国人は道徳を重要とし、日本人は法律を重要とする」とか、「韓国人は正義を大事にし、日本人は契約を大事にする」などという主張を目にすることがあります。
たしかに道徳や正義は、法律に比べると強制力もないし、どことなく曖昧なイメージがあります。
社会に道徳があるとしても、都合は人それぞれ違うし、その適用には自分なりの「どうすべきか」の判断が必要になります。
だからその判断の可否で人同士の対立もありえるし、それらを調整するためにあるのが法律だと思います。
道徳と法律の役目を完全に同じだと主張するつもりはありませんが、結局は同じゴールに向いている価値観として、両立できる、できるかぎり両立していくべきものではないでしょうか。
国家間の条約を一方的に傷つけた国を、道徳や正義を名分にして擁護する考え方そのものが、極めて不愉快にさせてくれます。