부산(釜山) BIFF(Busan International Film Festival)広場
BIFFのメイン会場は、海曇台に移ったとはいえBIFF広場の賑やかさは健在です。
1997年 부산 국제 영화제(釜山国際映画祭)の ビートたけし のサインと手形があります。
1998年9月29日 第3回 부산 국제 영화제(釜山国際映画祭) 今村昌平監督の手形とサインです。
若松孝二監督の手形とサインです。
부산(釜山) BIFF(Busan International Film Festival)広場
BIFFのメイン会場は、海曇台に移ったとはいえBIFF広場の賑やかさは健在です。
1997年 부산 국제 영화제(釜山国際映画祭)の ビートたけし のサインと手形があります。
1998年9月29日 第3回 부산 국제 영화제(釜山国際映画祭) 今村昌平監督の手形とサインです。
若松孝二監督の手形とサインです。
홍콩반점 0410 PLUS+
釜山・南浦洞の香港飯店(홍콩반점)0410 PLUS+ 南浦1号店です。
マカオ チャジャンミョン 4,000ウォンを注文です。
元気のでる美味しい料理「焼き肉」
焼き肉はすき焼きやビフテキよりも安上がりです。
戦後の焼肉店のメニュー構成からすれば、客となる相手は日本人というよりも在日の韓国・朝鮮人を意識したものであった。
何よりも料理をつくる人が在日の人であったから、家庭料理の延長線上のものであったと言っても過言ではない。
利用者も在日が中心であった。焼肉にキムチ、ナムル、クッパ、ピビンパが中心メニュー、冷麺を出せるところはランクが上であった。
有名人達の「隠れた」利用も多かったと聞きます。
プロレスで有名な力道山は大阪千日前の食道園の先代の経営者とは、同じ北朝鮮出身ということで、意気投合して飲み明かすこともしばしばであったようです。
歌手の美空ひばりの大劇公演のときには、食道園は指定店となり、コムタンスープ、ナムル料理を出前するのが日課になっていたといいます。
美空ひばりのお父さんが朝鮮人であったと、在日の人の間では事実だと信じられていたようです。
プロ野球ロッテの監督もされたピッチャーの金田正一は国鉄スワローズの時代、尼崎の焼肉店をよく利用したようだ。
店では一人で部屋を貸しきりで、閉め切ってキムチと焼肉を何人前も平らげ、好物は豚足だったという話を、店の経営者が話していたようだ。
焼肉が日本の食生活に容易に受け入れられ、またたく間に普及したのは、ひとつは日本人の栄養状態と無関係ではない。
食料が不十分な上に健康に必要な良質のタンパク質が思うようにとれなかった。
一度に肉をとる量としては、焼肉料理はすき焼きやビーフステーキよりも安上がりであること、一緒に食べる野菜類、特にキムチとの相乗効果が、疲労回復、体力向上に大いに益することが実感できたと言うことであります。
부산 중앙동(釜山 中央洞)の 「けんちゃん カレー」
ラーメンやトンカツ、お寿司など日本食を出す食堂は釜山にもたくさんある。
その中で日本人が経営する店もいくつかある。
中央洞にある 「けんちゃんカレー」 もその一つ。
京都出身の日本人ご夫妻が、ご主人の停年退職後 「第2の人生」 を大好きな釜山で過ごしたいと、2006年にオープンしたカレーライス専門店だ。
お店は、地下鉄1号線中央洞駅から徒歩5分ほどのところに位置しています。
大通りに面しているわけではないので、少しわかりにくいとは思いますが、駅からは一つの角を曲がるだけのシンプルな行き方なので、地図を片手に探して見てください。
入り口には、日本人が経営しているのでもちろん、日本語で屋号の「けんちゃんカレー」と大きく書かれています。
お店は2006年の8月上旬にオープンということで、とっても清潔感があり、シンプルなインテリアになっています。
お店自体は、カウンター席が数席と4人掛けテーブル席が2つのそう大きくないですが、ご主人一人で切り盛るするにはちょうど良い広さなんだとか。
お店の屋号はご主人のお名前からとってつけられたんだとか・・・・・・
韓国では、変な?日本語の看板をよく見かけます。
韓国の街の看板には、けっこう日本語があります。
日本人観光客のためでしょうが、それにしてもヘンテコなのがずいぶんあります。
例えば「をまビール」です。
なぜ「な」が「を」になるのか分かりません。
それを見た日本人がこの店に入り、「を」と「な」の違いを説明したりする。
まあそのままというわけにもいかない人は、そこで一杯飲んだりするでしょう。
ひょっとしてこれは、日本人客を釣るために、わざと間違えているんじゃないかと思ったりしています。
ビールも横書きをそのままタテにした「ビ|ル」なんてのがあったりする。
「はん二」ってのもあります。何か分かりますか?
そうです「はんこ」です。
以下は、釜山・チャガルチホルモン通りの変な?日本語の看板です。
ちょっと変な?日本語になってますが????
もづやぎ × ⇒もつやき 〇
キャバグラ・ゴンバニオン × ⇒ キャバクラ・コンパニオン ◯
うーどん × ⇒うどん ◯
労働を忌み嫌い見下す李朝朝鮮と、働く職人を尊ぶ日本と、どちらの方が居心地がいいでしょうか?
昔の韓国は、「日本の文化は朝鮮がすべて兄として教えてやったのだ」と主張していたのですが・・・・・
豊臣氏の天下にとってかわった徳川家康が開いた江戸幕府は軍事政権です。
朝鮮との関係でいえば、戦国の動乱で絶えていた通信使の往来を再開します。
最初は朝鮮出兵の戦後処理、たとえば捕虜交換のようなかたちではじまりました。
このときに多くの朝鮮人職人が日本に連れてこられ、有田焼などの文化が栄えます。
このことを昔の韓国は、「日本の文化は朝鮮がすべて兄として教えてやったのだ」と主張していたのですが、いつの間にか最近では「強制連行」「拉致」というふうになりました。
表現は勝手ですが、戦時捕虜のことを平時の犯罪と同列にされては困ります。
また、本質論ですが、なぜ多くの朝鮮人職人は本国に帰りたがらず、日本に住み着いてしまったのでしょうか。
労働を忌み嫌う文班が職人を見下す李氏朝鮮と、汗水流して働く職人を貴ぶモノづくり国家の日本と、どちらのほうが居心地がいいでしょうか。
日本に決まっています。
ちなみに、このときに住み着いた子孫の一人が、日米開戦時と終戦時外相だった東郷茂徳です。
大日本帝国に朝鮮人差別がまったくない訳ではありませんが、四百年も日本人として生きてきた人の子孫を「在日だ」と差別するような話はありません。
「괜찮아요(ケンチャナヨ)」 韓国人は何でもこれで済ましちゃいます・・・・
韓国人がよく使う言葉に「괜찮아요(ケンチャナヨ)」という言葉があります。
「괜찮아요(ケンチャナヨ)」・・・「大丈夫」っていう意味ですが、もう本当に一日韓国にいれば何十回も出てきます。
何でもこれで済ましちゃいますから。
韓国人の洋服屋さんに服を作らせた日本人の女性が、ボタンがずれていたので作り直させたんです。
そしたら後で、その韓国人の女性が泣いて怒ってきたそうです。
あの日本人はたった一センチボタンがずれたくらいでやり直しをさせた、ひどいと言って。
日本人からしたら一センチもですよね・・。
一ミリでもダメなんだから。
それを、日本のいじめだと彼女たちは言うんです。
しかも無料でさせるなんて、なんてひどい人達だって、がなりたてたようです。
でも韓国では「たった一センチ」は괜찮아요(ケンチャナヨ)で通っちゃうんです。
でも最近はそうでもなくなってきたみたいなようです。
ユニクロなど、日本企業が厳しく品質を求めるようになったと。
それで細かいのとアバウトなのとどっちがいいかっていったらやっぱり日本の方がいいってことがだんだんわかってきたんだと思います。
ただ、韓国人の仕事には無理がきくというメリットもある。
何日までにやってくれと言えば、何とかやってくれますから。
突貫工事が得意なんですネ。メガネをオーダーしても三十分でできます。
日本だったら一日くらい平気で架かるでしょう。
ですからなかなかやらないくせに、やれば早いというわけです。
で、また相手にそれを求める。
「パルリパルリ(빨리 빨리)」という言葉がよくつかわれます。
こうなると、せっかちなのかのんびりなのかよくわからなくなりますが、とにかく極端な人達だと思っておけば間違いないでしょう。
せっかちだから長い期間コツコツ頑張るのがイヤ見たいです。
で、早くできるんだけどそれが手抜きだったりする。
少し古い話ですが、漢江に架かる聖水大橋っていう橋が落ちちゃいました。
旧日本軍が造った漢江大橋がびくともしていないのに・・・。
それから三豊百貨店も人の重みだけで崩れてしまいました。
地震でもないのに。
あれも原因は「괜찮아요(ケンチャナヨ)」だと思います。
「アニムニダ」「オプスムニダ」「モルムニダ」は、日本語にすれば「違います」「ありません」「知りません」ですが、これ、なんと韓国の店員が客に向かって発する言葉なのです。
日本だったら「それはちょっと違うのではないかと思われますが」「すみません、ただいま切らしております」「おそれいります。
私ではその件について分かりかねますが」でしょう。
いい方もぶっきらぼうですし、愛想などまったくない(まあ、最近は少し変わってきたかもしれませんが)。
なぜかというと、昔から韓国ではモノの売買においては、買う人より売る人の方が上と思われていたのです。
これも儒教の影響ですね・・・。
今、何かと話題の롯데(ロッテ)ですが・・・、
これはイカンというので日本式を取り入れたのが、実は在日韓国人一世である辛 格浩・신격호(重光武雄氏)が日本で創業した롯데(ロッテ)でした。
ソウルの롯데 백화점(ロッテ百貨店)開店とともに、日本式社員教育を徹底させたのです。
それまで韓国にはなかった「いらっしゃいませ」という言葉を「어서 오십시오・オソオシプシオ」にして広めたのも롯데(ロッテ)です。
韓国人は知りませんけど?(笑)。
韓国人はなぜ自転車に乗らないのか?
日本では駅前の放置自転車がたびたび問題になっているが、韓国ではありえないことだ。
といっても、なにも日本人のモラルを言うつもりはない。
韓国には自転車じたいが少ないのだから、放置自転車問題がおこりようもないだけなのだ。
韓国を訪れた日本人はだれもが実感するのは、ぱっと見たところ日本の街の風景がかなり似ているということだ。
よくあるコンビニのセブンイレブンやファーストフードのマークも同じだし、走っている車も姿も似通っている。
しかし、よく見ると、自転車があまり走っていないということに気づくだろう。
お隣の中国では群れをなして走る自転車の洪水でおなじみ。
日本と中国の間にある韓国だけに自転車が普及していないのはなぜだろう?
その理由の一つとして日本では、公共交通の料金の異常な高さだ。
バスに一回乗るだけで2百円。
地下鉄でも160円もする。
頻繁にバスや地下鉄を使っていたら、交通費だけで大変な金額になってしまう。
また、地下鉄のネットワークがあちこちに伸びていて便利であるが、駅から住宅地までの距離が遠い場合が多い。
タクシーは便利だが、頻繁に利用するには高すぎる。
こういった経済的な理由が庶民の「自転車文化」を発展させた側面がある。
一方、韓国では他の物価に比べて公共交通の料金が低く抑えられている。
地下鉄駅と住宅地が離れているところでも、小回りが効く「マウルバス」(町バス)が発達しているので通勤通学に不便はない。
だから、公共交通機関の穴を埋めるために自転車に乗る必要はあまり感じないようだ。
また、自転車はブルーカラーの労働者の乗り物、あるいは荷物を運ぶものだとして特別視されていたという事情もある。
また、日本の都会では、自転車といえば「ママチャリ」というぐらい、自転車に乗っている女性は多い。
ただでさえ自転車が少ない韓国だが、自転車に乗っている女性を見かけるのは、さらに稀なことである。
釜山(부산)、40階段
実はこの階段、もともとは1910年前後に日本人が山を削り作った階段だといわれています。
現在の階段は1953年に起きた火災の際に少し南へ移動したものです。
階段を登っていくと40階段の歴史をよく説明している文化館もあるので、こちらとセットで観光するのもオススメです。
階段の途中にはアコーディオンをひく銅像もあります。
大きな建物に挟まれている階段の存在感はあまりありません。
ここに来て朝鮮戦争当時の難民で溢れた釜山の街角を想像することも良いかもしれません。
40階段は、1950年の朝鮮戦争の避難当時に交通・行政の中心であった釜山市中区に、多くの避難民が仮の住まいを建て密集生活を行い、目の前に位置する港から入ってくる救護物資を売っていた場所。
また避難中に離れ離れになった家族と出会う場所として、避難生活の哀歓を象徴した場所であり、1951年に歌手パク・ジェホンが歌った「慶尚道お嬢さん」という歌のモチーフにもなりました。
当時の栄州洞裏山、東光洞、寶水洞一帯で散り散りになって暮らしていた10万人を越える避難民たちにとって一番親しみのある場所です。
40階段の前・・・・
米を熱で破裂させて作るポン菓子の製造風景も当時の釜山でよく見られたのでしょう。
耳を押さえながらも興味いっぱいの子供が見とれている姿が像になっています。
裸足であることも当時をうかがうことができます。
40階段前には、懐かしそうな映画のポスターが貼られています。