韓国政府は「日帝三十六年の歴史」と主張しています。
しかし日韓併合は1910年8月29日から1946年9月9日までですから、正味三十五年と十一日です。
もしかしたら韓国政府は恨みを増やすために「かぞえ年」を採用しているのかもしれませんが、わずか十一日を一年にどうかと思います。
ただ不思議なことに、朝日新聞などは「三十六年」説を採用しています。
そのお陰で三十六年と思い込んでいました。
決して、朝日新聞が悪いのではありません朝日新聞などを信用していた自分が悪いのです。
韓国政府は「日帝三十六年の歴史」と主張しています。
しかし日韓併合は1910年8月29日から1946年9月9日までですから、正味三十五年と十一日です。
もしかしたら韓国政府は恨みを増やすために「かぞえ年」を採用しているのかもしれませんが、わずか十一日を一年にどうかと思います。
ただ不思議なことに、朝日新聞などは「三十六年」説を採用しています。
そのお陰で三十六年と思い込んでいました。
決して、朝日新聞が悪いのではありません朝日新聞などを信用していた自分が悪いのです。
ある学者によると輸出入には、サービスもあります。
たとえとして日本人が韓国に観光旅行に行き、お金を使った時、それは「韓国のサービス輸出」になるのだそうです。
つまり「お金を払ったほうが観光サービスを輸入した」「お金を受取ったほうが観光サービスを輸出した」ことになるわけです。
実にわかりやすいですね。
1970年代から80年代にかけて、悪名高き「農協のキーセン観光」というのは流行ってました。
キーセンとは妓生 (기생)と書き、日本の芸者のような女性ですが、この観光団、なにも彼女達の芸を楽しみに行ったのではありません。
宴会が終わった後の、つまりあの「オモテナシ」のためでした。
これ、文字どおりの「サービス輸出」です。
しかもそれはいくら輸出しても減るものではありません(笑)。
その結果、大変なお金が韓国に落ちたと思います。
それは、ああいう仕事ですから悪徳業者のピンハネのようなこともあったかもしれません。
しかし結局は、韓国のお金となり韓国で流通したのです。
相当な経済効果を上げたと思います。
1965年、朴正煕大統領は日本との国交を回復し「日本の援助」により「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展をとげました。
この農協による「スケベマネー」は、それに優るとも劣らぬものであったと思います。
この農協キーセン観光は、婦人団体などの猛抗議により、まるで終わった後のチンポコのようにしぼんでしまいましたが、同じような団体が次々と渡韓したのは間違いありません。
漢江と同じく「妓生 (기생)の奇跡」と呼んでもいいと思います。
なお現在では、このサービスを日本をはじめ、世界各国に出かけて輸出しているらしい・・・・・。
アメリカなどでは名前を「ハルコ」とか「アケミ」のような日本風にして。
やめてほしいな、も~~。
韓国ドラマを見ていると、カラフルで派手、ちょっときわどいミニのスーツに身をまとい、颯爽とソウルのオフィス街を歩くビジネスウーマンが登場するが、あくまでこれはドラマの中だけの世界。
韓国の企業で働く女性たちの身だしなみについては、むしろ日本よりも控えめなほうが好まれる。
実際はやはり落ち着いたシックな色のスーツ、スカート丈もほどほどなのが定番となっている。
またメイクやイヤリングなどのアクセサリーも、やはり控えめだ。
ヘアスタイルもロングの場合は後ろでまとめ上げるなど、清楚なイメージが好まれる。
そもそも韓国では品格や格式が、日本以上に重んじられている。
またこれに加えて、セクシャルなイメージに対してはしたないと感じる意識も根強い。
派手なメイクや露出の多いファッションでセックスアピールを強調する女性は、一昔前まで「夜の女性」だと後ろ指を指されるほどだった。
K‐POPでは肌を見せて色っぽい衣装の女性グループもいるが、実は日本人向けにはより露出を高くしつつ、韓国国内では活動するときは控えめの服装にするなど、使い分けている場合もあるのだという。
女性の社会進出が近年急速に進むにつれて、性に対する考え方も猛スピードで変わりつつあるが、格式、格調、そして清楚さを重んじる韓国の価値観は、そう簡単には変わらなさそうです。
日韓併合当時、朝鮮の山々にはほとんど木が生えていませんでした。
朝鮮人には植林という意識がなく、建築や燃料のために木を伐った後はそのまま放置していたので、山は保水力がなく、大雨になれば洪水を引き起こし、多くの土壌が流出しました。
日本は朝鮮の禿山を見て、美しくないと思ったのか、はたまた日本的でないと思ったのか(あるいは洪水を防ぐためか)、朝鮮人の意向も聞かずに「緑化運動」と称して勝手に植林事業を始めました。
赤茶けた地肌剥き出しの朝鮮半島の独特の景色が、緑豊かな日本風に変えられてしまいました。
日本は他国の風景を作りかえてしまったのです。
緑化運動は簡単ではなかったようです。
せっかく植えた木が大きく育つ前に、朝鮮人たちが盗伐するからです。
もしかしたら朝鮮人たちは自分たちの伝統である禿山を守ろうとしたのかもしれません。
また朝鮮半島の山々が禿山だった理由の一つに「火田民」の存在がありました。火田民は焼畑農業をする民です。
山を焼くと、木々の灰が肥料になり、農作物がよくできます。
しかし三年も経つと土地が痩せて、農作物もできなくなります。
すると火田民たちは、その土地を捨て、別の山へと移動します。
捨てられた山にはもはや木も生えず、禿山として残るというわけです。
総督府は火田民に農業用地を与え、定住させて、伝統的な焼畑農業を禁止しました。
そうした苦労をかけて、総督府は朝鮮の山々に、なんと総数五億九千万本の木を植え、禿山を緑が茂る山に変えてしまいました。
少し前のニュースによると、韓国の太白山に生えていた五十万本のカラ松が伐採されるといいます。
理由は、併合時代に日本が植えた日本特産の木であるということです。
民族の霊山である太白山に日本産のカラ松は似合わないという。
その気持ちは大いに理解できます。
2017年から21年に四十億ウォンをかけて伐採する予定とのことです。
不動産取引では、土地を借りて、そこに木を植えたりした場合、土地を返すときは原状復帰が基本です。
今からでも遅くありません。
今すぐにでも、併合時代に植林した六億本の木の伐り倒しを農林水産省などが率先して行うべきかもしれません。
併せて当時に建設された建物、橋なども撤去すべきかもしれません。
京城駅
日本は美しい朝鮮半島の至る所に醜い鉄道網を敷きまくりました。
併合前はわずか100キロしかなかった鉄道を総延長距離6000キロにまで増やしたのです。
想像してください。
朝鮮半島ののどかな自然に囲まれた田園風景をぶち壊すように、無粋な鉄のかたまりである機関車がもうもうと煙を吐きながら、けたたましく騒音をたてて走る様を。
これによって美しい朝鮮半島は醜い線路によって鞭で打たれた傷のようにずたずたにされました。
それを見た多くの朝鮮人たちが怒りに震えたとしても仕方がなかったと思います。
また驚くのは、国鉄が朝鮮半島に走らせた鉄道は「広軌」でした。
朝鮮人からしてみれば、日本国内で走らせていなかった広軌鉄道を敷き詰めたということは、「日本は朝鮮半島で鉄道実験をした!」と受取られてもしかたがないでしょう。
日本は、よりよい技術を導入したのだからと言って、開き直ることはできません。
ちなみに国鉄が広軌を採用したのは、1964年の東海道新幹線が初めてです。
また朝鮮において、電化による鉄道(電車)を走らせたのは、1938年ですが、北海道で初めて電車が走ったのは、その30年後の1968年です。
いかに日本が最新技術を朝鮮半島で前もって実験していたのかがうかがえます。
1925年に完成した京城駅の駅舎は、その規模は別にして当時の東京駅よりもはるかに豪華でした。
日本よりも朝鮮半島に最新技術を勝手に導入して、鉄道を敷いてしまったことは朝鮮の人々にとっては迷惑だったかも知れません。
過去を水に流す発想のない韓国
もし日本の首相が、韓国の国民の前で、地べたに額ずいて謝罪したとしたら、次には間違いなく天皇陛下に対して土下座の謝罪を要求するでしょう。
では、それで解決となるかと言ったら、決してそうはなりません。
なぜなら、韓国には過去を水に流すという考えがないからです。
韓国に今も根強くあるのは、先祖に深刻な危害を加えた者を、子孫は決して許してはならない、どこまでも恨み続け、その罪をどこまでも問い続けていかなくてはならない。
それが人間なのだという、韓国特有な儒教的倫理観です。
この倫理観は当然、慰安婦問題でもいくらかでもお金を出しましょうということになれば、「いやお金の問題ではない」という言い方をすることになります。
ですから、いくら払えばいいですかと聞いても、金額を提示しようとしません。
どんな形で払えばいいですかと聞いても、そちらで考えるべきでしょう、と言うばかりです。
それではどういう形で謝罪すればいいかとなると、誠意ある態度を見せて欲しいと、韓国側が言うのはそれだけです。
これまで、「日本には一切責任を負うことはしない」と公言した韓国大統領は二人います。盧泰愚(在任1988年2月~1993年2月)と金大中(在任1998年2月~2003年2月)です。
しかし、いずれも2,3年で、その公言を反故にしています。
儒教的な倫理観が国民心情を侵しています。
ですから、公言を貫き通すことが出来なくなるんです。
貫き通そうとすれば、政権は間違いなく崩壊するからです。
きっぱりと誠意を込めて謝罪すれば、相手はそれを受け入れて、過去のいきさつを水に流してくれる。
日本人はみなそう思うでしょう。
これで終わりにしてくれると思う。
韓国側も、それで終わりにすると何度か言ってきたわけです。
きちんと謝罪してくれればすべて終わりにすると言う。
そこで謝罪すると、それでは誠意が見えない、謝罪になっていないと言います。
そうなると、地面に跪き、地べたに頭をこすりつけて謝罪すればいいのか、ということになってきます。
そこにある韓国側の願望は、「日本を韓国に従わせ、永遠に韓国に奉仕する国にしたい」ということなんです。韓国が千年の恨みを晴らすとはそういうことなんです。
朝鮮半島からは、文物だけでなく人間も多く渡っている。
渡来人と呼ばれる彼らは弥生時代から移住し始め、従来の縄文人と混血しながら現在の日本人を形成していった。
現在の日本語には、朝鮮半島がルーツとされる単語が数多く見られる。
よく知られるのは「奈良」だろう。
これはズバリ「クニ」を意味する韓国語「ナラ(나라)」がルーツとされる。
日本語で「ハナっから」という時の「ハナ」も、「一つ」を意味する韓国語「ハナ」が語源とされる。
韓国では「一つ、二つ、三つ、四つ」を「ハナ、トゥル、セッ、ネ」と数えるが、この「セッ、ネ」が日本語の「せ~の」になったとする説もある。
「わっしょい」も「来た」を意味する韓国語「ワッソ」が語源とする説がある。
独身者を指す「チョンガー」が韓国語そのもの。
未婚男性の伝統的な髪型「総角(チョンガク)」からきた言葉だ。
一昔前の不良少年がタバコを指して呼んだ「タンベ」もそのまま韓国語。
男性用下着のパッチも、伝統衣装の下衣やズボンを意味する「パジ」が由来だとか。
釜山차이나타운(チャイナタウン)(釜山市 東区 草梁洞)
부산역전(釜山駅前)の草梁(チョリャン)には「上海通り」と呼ばれる通りを中心にした차이나타운(チャイナタウン)があります。
1884年中国・上海から姉妹校流を結んだことによりこの草梁地域に領事館や華僑の学校などが設けられ中国人が多く居住するエリアになりました。
大通りに面しては釜山市と上海市が共同で設置した中華風デザインの「上海門」があり、周辺には美味しい中華料理の店が多くあります。
カンヌ映画祭でグランプリを受賞した韓国映画「オールドボーイ」には餃子が重要なアイテムとして登場しますが、主人公が餃子を食べ歩くシーンはここで撮影されました。
横浜中華街のような大きさではありません。
横浜中華街と比べると、とてもチッチャイ、차이나타운(チャイナタウン)です。
차이나타운(チャイナタウン)隣は、テキサス通りともいわれていた外人バー街でしたが、韓ロ国交正常化以降はロシア語の看板が目立ちます。
양반(両班)の残飯をピビンしたらピビンパに!!
日本人の多くは韓国料理と言えば「ピビンパ」を思い浮かべるでしょう。
丼のご飯の上にナムル、肉、卵などの具をのせ、コチュジャンやゴマ油などをかけてグチャグチャにかきまぜてたべる、あの料理です。
韓国人も「ピビンパは世界に通用する食文化だ」と胸を張ります。
でも、その由来についてはすっかり忘れてしまっている。
かって양반(両班)のすぐ下に中人がいて、これはごく少数で、天文学者のような儒教以外の学問をやる人だったらしい。
その下に常人がいましたが、彼らは非常に多く、農民や漁民でした。
この人達が양반(両班)のゼータクな暮らしを支えていたのです。
さらにその下にがいましたが、彼らは人間扱いされませんでした。
つまりは両班の持ち物で양반(両班)の持田畑を耕す、いってみれば農奴だったのです。
そして彼らの食事は両班の残飯でした。
양반(両班)の食べ残したモノを自分たちの雑穀飯の上にのせ、それをかきまぜて食べていたのです。
ピビンとはかきまぜるの意味で、それがピビンパの始まりなのです。
ところで今、韓国はこのピビンパを日本の寿司のように世界中に広めようとしているらしい。
先日テレビを見ていたら、女性料理研究家が「ピビンパは李王朝の宮廷料理だ」といっていました。
真ん中のタマゴは太陽であり、その周りをさまざまな具が飾って宇宙全体を表しているとー。
あまりのことに思わずビックリぽんです!!
それにしても驚きました。
韓国人はこんなところにまでウソをつくのかとー。
あんなグチャグチャまぜた汚い(見た目に)ものが、宮廷料理のわけがないでしょうに??
まあお好きなようにですが、見た目も味も、ピビンパが世界で日本の寿司に勝てるとはとても思いません。
ちなみに韓国の寿司は不味い~~。
ひょっとして日本をおとしめようとしているのではと思うくらいです。
「お飲み物は何にしましょう?」「う~ん、とりあえずビール」というやり取りが今夜も日本中の居酒屋などで交わされている。
日本では1955年頃からビールが大衆化し、サラリーマンたちの酒になって冒頭のようなやり取りが始まった。
そこには日本人特有の「横並び」の意識もうかがえる。
せっかちで自己主張が強い彼らは「とりあえず」などとまどろっこしいことは言わず、いきなり焼酎から始める。
1970年代から韓国に行っているが、最初はビールばかり飲んでいた。
そのうち、安い焼酎とかマッコリの味を覚えて、今ではその時の気分次第でビールを飲んだり、焼酎を飲んだり、マッコリを飲んだりしている…。
しかも韓国焼酎の正しい飲み方はストレートに限る。
日本では一般的なサワーなんて、韓国ではあまりない。
しかし、1990年代頃からは若年層に焼酎離れが表われ始めた。
当時の焼酎はアルコール度は25度で、味などはどうでもよく、酔うためだけのものだった。
そんな中、焼酎最大手の眞露(JINRO)が度数を23度に下げたチャミスルを発売し、これが大ヒット。
たちまち韓国焼酎は注目され、現在の19度に落ち着いたようだ。