千葉県船橋から市原にかけて、戊辰戦争時の幕府軍兵士の墓が残っている。
市原姉ヶ崎の妙経寺と端安寺にいく。妙経寺には「義軍墓」と
会津藩士の墓、端安寺には「徳川義軍之墓」がある。
(妙経寺の義軍墓は山門の右手、鐘楼の手前を右に入り2つめ)
この義軍は、江戸城開城に不服の旧幕臣の撤兵頭福田八郎左衛門が
率いる撤兵隊((さんぺいたい)が上総八幡、姉崎を経て木更津・泉著寺の
本陣を真里谷真如寺に移し「上総国木更津本営 徳川義軍」(上総義軍)
と名乗った。この時の第一大隊長は、麻布学園創立者の江原素六です。
撤兵隊はフランス式伝習の洋式銃隊砲隊で、慶應三年創設、隊員は
天領内の農家壮丁から歩兵隊に組織されていた。
義軍は、妙経寺の北に陣地を築いて大砲を据え,迎撃したと言われている。
この端安寺には義軍死者をかなり埋葬したと伝えられている。
現在では寺は改築され,区画整理も行われたため,当時の面影はないが、
古い木柱に史跡「慶應四年閏四月七日、徳川義軍十六名此処に眠る」とあり、
義軍墓の台座に慶應四年閏四月七日 戊辰義士戦死者 撤兵隊、
その下に名前が十三名(?)刻まれていた。
今ある供養墓は、大正六年五月、追福の為亡父渡辺柳吉(司?)の長女
別府徳子氏により改葬されている。別府氏の店は今も続いている。
この義軍墓の横に「細川外記之墓」が並んで在った。
宮本栄一郎氏の「或る郷土史」によれば「姉ヶ崎駅の西方に
1つの墓がある。細川外記之墓、右脇に会津若松士族とある」
この会津藩士は名札を持っていたらしい。
妙経寺の墓は、大正十三年七月に、旧会津藩士荒井政行により建てられ、
昭和六十三年八月に古川志の により再建立されている。
この会津藩士は撤兵隊とどのような関わりがあったのか不明ですが、
ここにも忘れられた会津藩士がいた。
市原姉ヶ崎の妙経寺と端安寺にいく。妙経寺には「義軍墓」と
会津藩士の墓、端安寺には「徳川義軍之墓」がある。
(妙経寺の義軍墓は山門の右手、鐘楼の手前を右に入り2つめ)
この義軍は、江戸城開城に不服の旧幕臣の撤兵頭福田八郎左衛門が
率いる撤兵隊((さんぺいたい)が上総八幡、姉崎を経て木更津・泉著寺の
本陣を真里谷真如寺に移し「上総国木更津本営 徳川義軍」(上総義軍)
と名乗った。この時の第一大隊長は、麻布学園創立者の江原素六です。
撤兵隊はフランス式伝習の洋式銃隊砲隊で、慶應三年創設、隊員は
天領内の農家壮丁から歩兵隊に組織されていた。
義軍は、妙経寺の北に陣地を築いて大砲を据え,迎撃したと言われている。
この端安寺には義軍死者をかなり埋葬したと伝えられている。
現在では寺は改築され,区画整理も行われたため,当時の面影はないが、
古い木柱に史跡「慶應四年閏四月七日、徳川義軍十六名此処に眠る」とあり、
義軍墓の台座に慶應四年閏四月七日 戊辰義士戦死者 撤兵隊、
その下に名前が十三名(?)刻まれていた。
今ある供養墓は、大正六年五月、追福の為亡父渡辺柳吉(司?)の長女
別府徳子氏により改葬されている。別府氏の店は今も続いている。
この義軍墓の横に「細川外記之墓」が並んで在った。
宮本栄一郎氏の「或る郷土史」によれば「姉ヶ崎駅の西方に
1つの墓がある。細川外記之墓、右脇に会津若松士族とある」
この会津藩士は名札を持っていたらしい。
妙経寺の墓は、大正十三年七月に、旧会津藩士荒井政行により建てられ、
昭和六十三年八月に古川志の により再建立されている。
この会津藩士は撤兵隊とどのような関わりがあったのか不明ですが、
ここにも忘れられた会津藩士がいた。
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