探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

12月13日、1月9日 宗源寺・宗参寺・浄輪寺・緑雲寺

2010-01-20 00:32:40 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。旧年中は拙い文をお読みくださり、誠に感謝申し上げます。本年も随時アップしていきたいと思いますので、引き続きご愛顧よろしくお願い致します。

年末から年始にかけて、寒空と日照時間の短さをものともせず探墓にいそしんで参りました。

まずは幕府最後の海軍総裁、矢田堀景蔵の墓がある宗源寺。宗派は浄土宗、山号は十劫山。

場所は早稲田通りから細い道を北に入ったところにあります。向かい側に塀に囲まれた墓域があり、西側の塀を背中にして矢田堀夫妻の墓は建っています。

正面に本人の戒名「函陵院殿航誉孟軫居士」が右側に、左側には妻の法号「霽月院殿韜誉自覚大姉」が刻まれています。右面には「明治二十年(1887)十二月十八日俗称矢田堀鴻」、左面には「嘉永五年歳次壬子正月二十七日(1852.2.16)矢田堀氏」とあることから、婿であることが判ります。

実をいえば、矢田堀は幕臣荒井家の出身で父は荒井精兵衛道貞、兄二人のうち上が荒井郁之助の実父顕道。次兄がやはり養子に行った成瀬善四郎正典です。

縁筋に松本良順、田辺太一、安藤太郎がいます。(新宿区早稲田町82)

再び早稲田通りに戻り南側に面しているのが(入口は外苑東通り側)宗参寺。宗派は曹洞宗、山号は雲居山。ここに埋もれたる有名なる人物は兵学家 山鹿素行。墓域の中心に石を積んでやや高くなった場所に一族と思しき人たちに囲まれて眠っています。

会津出身で、播州赤穂藩主浅野内匠頭のブレインとして、また創始せる山鹿流兵学はかの吉田松陰が9歳のとき君主毛利侯松平大膳大夫に講義したるもの。そのような時代にまたがる活躍をした山鹿素行は戒名を「月海院殿瑚光浄珊居士」といい、貞享2年9月26日(1685.10.23)に没しました。

同寺には、この近辺の地名となっている牛込氏の墓もあり、江戸時代初期のものを復元したものとなっています。
位置は山鹿家墓域の南側のさらに高くなったところです。(新宿区弁天町1)

外苑東通りを牛込柳町方面ヘ行き、以前紹介しました浄輪寺の和算家 関孝和の墓を再び訪れました。法号は「法行院殿宗達日心居士」、墓碑正面にはこのほかに「宝永五年戊子十月二十四日卒」(1708.12.5)などとあります。宗派は日蓮宗、山号は常栄山。(新宿区弁天町95)

同じ外苑東通りの西側に緑雲寺があります。宗派は真宗大谷派、山号は瞻光山。外苑東通りに面して石柱が建っており、入口は道を1本入ったところですが、そこまでの間が塀に囲まれた墓域となっています。

ここには、当会会長釣洋一先生が最近ふとしたことから見つけられた幕臣久須美祐利の墓があります。墓域に入って中央の通路のやや奥寄りの右手に横長の墓碑があり「久須美一家之墓」と刻まれているのがそうです。(=写真)



久須美は幕末には講武所奉行支配、歩兵差図役頭取などを経て、明治には陸軍少尉、陸軍省へ出仕。最後の箱館奉行杉浦梅譚の親戚でもあります。(新宿区原町1-30)