探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

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1月4日、1月17日 静岡市① 臨済寺 蓮永寺

2010-01-27 20:01:22 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

静岡の実家に帰省した際に幕臣の墓をいくつか詣でましたのでここに紹介致します。

まずは臨済寺。宗派は臨済宗妙心寺派、山号は天龍山。今川義元の実兄氏輝の法号をとったこの寺は、幼きころ徳川家康が人質となっていた場所であり、現在も臨済宗妙心寺派の修業道場となっています。

本堂左手に位置する墓域には、今川氏輝の五輪塔墓のほか中世では一時駿河国主となった中村一氏の五輪塔墓が墓域の最も高い場所にあります。そこから静岡市街が一望でき見応えがあります。

近代では、墓域中央に柵に囲まれた初代静岡県知事 関口隆吉の墓があります。

氏輝や一氏まで高い位置ではありませんが、本堂裏手の茶室を遠望できる場所に旧幕臣、宮崎県知事 永峰弥吉の墓があります。箱館戦争に旧幕府軍として参戦、実妹が同戦争に参加した川村録四郎に嫁いでいます。



この墓碑は高さが2メートルはあり、なんとも貴重なのは、題字が榎本武揚(=写真)、撰文が勝海舟、撰文書が大鳥圭介であることです。
(葵区大岩7-1)

徳川家康の側室お万の方(法号養珠院、紀州初代藩主頼宣・水戸初代藩主頼房の母)が建立した蓮永寺には、同供養塔のほか、勝海舟の母信子・同妹順子(佐久間象山室)の墓、感臨丸で渡米した小杉雅之進の実兄直吉、彰義隊伴門五郎など、人口に膾炙していると否とにかかわらず幕臣の墓が目白押しです。宗派は日蓮宗、山号は貞松山。

境内は静岡育ちの筆者がボーイスカウトの集会で使った懐かしい場所でもあります。

本堂裏手の墓域を山側へ向かってやや登っていくと中心にお万の方供養塔、右手に山を背後にして勝信子・順子母子の墓があります。

しかし勝家の墓をよく見ると、墓碑正面には信子・順子の戒名のほか「英徳院殿夢酔日正居士」、左面には「先考(亡き父)諱惟寅」から始まる事績が刻まれています。

墓の建立が明治4年(1871)、海舟の父小吉の逝去は嘉永3年(1850)ですから、当然埋葬墓とは言い難いものの、これは海舟の父勝小吉の供養墓ではないかと思います。

当初は、牛込赤城下(現在の新宿区赤城元町)清隆寺に葬られ、のちに港区の青山墓地に改葬されたとされています。

現地案内版には「勝信子・順子の墓」と紹介しているに過ぎません。いま一度このお墓の意味するところを考えてみるべきかもしれません。

なお、小杉直吉と伴門五郎の墓はいずれも本堂裏手の墓域から手すりのあるゆるやかな階段を愛宕山方面へ登った墓域にあります。
(葵区沓谷2-7-1)
-つづく-