探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

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農民から旗本へ-川崎出身の名士田中休愚-

2015-11-01 00:02:43 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
歴史好きな方は大抵、生まれ育った郷土の歴史に興味を持つものかと思います。
最近、私は福島県二本松市に関わる記事をよく投稿していますが、二本松は両親の出身地であり、私自身は神奈川県川崎市で生まれ育ちました。
川崎は近代になり京浜工業地帯が栄え発展した町であり、やはり歴史的に見ると、私としては室町時代以来続く城下町である二本松の方に強い関心が向いてしまいます。
しかしながら、現在ではあまり歴史的な風情を感じなくなった川崎にも様々な歴史があり、それぞれの時代に名士を生んでいます。

小学生の頃に社会科の授業で郷土の歴史を学んだり、もしくは夏休みの自由研究で郷土史を調べたりした方も多いかと思いますが、川崎では郷土の名士として必ず登場するのが、二ヶ領用水の開発者小泉次大夫、池上新田の開拓者池上幸豊、そして今回取り上げる田中休愚です。

田中休愚(丘隅・諱は喜古)(寛文2年3月15日(1662・5・3)~享保14年12月22日(1730・2・9日))は武蔵国多摩郡平沢村の農民窪島家の生まれで、東海道川崎宿本陣の田中兵庫の養子となり、川崎宿の繁栄に尽力し、後に大岡越前守忠相に見いだされ、8代将軍徳川吉宗に幕臣として登用され、多摩川の治水、二ヶ領用水、六郷用水の改修工事の他、荒川の水防工事、酒匂川補修などを任させ、この功績が認められ、代官となり武蔵国多摩郡・埼玉郡のうち3万石の支配を任されました。
『寛政重修諸家譜』第20巻によると休愚の後、喜乗-喜道-喜和-正純と旗本として家が続いています。

休愚の墓は川崎市幸区小向町の妙光寺にあります。





これは平成23年4月に調査したした際の写真です。

休愚の法名は深心院速成日解居士。
休愚の墓は実家の菩提寺である、あきるの市の広済寺にもあるとの事ですがこちらは未調査です。

また、二ヶ領用水の開発者小泉次大夫の墓所がある川崎区宮前町の妙遠寺には次大夫と休愚を顕彰して明治22年(1889)に建立された「泉田二君功徳碑」があり、篆額は内閣総理大臣黒田清隆によるものです。
また、左下の部分は損傷して現在、文字を読み取ることが出来ませんが、『郷土神奈川36』「川崎市妙遠寺の泉田二君功徳碑」によると、戦前の写真から「元老院議官従四位勲四等金井之恭書」と刻まれていたようです。



このように農民から1代で幕臣に取り立てられた人物は他に二宮尊徳が挙げられます。尊徳も荒村の復興の功績が認められ、幕臣となりました。身分制度が厳しかったと思われがちな江戸時代ですが、能力があれば認められ、出世した人物は数多くいます。特に幕末に活躍した幕臣の中には農民や各藩の下級武士の出身の人物が見られます。

みなさんの地元にもこのような1代で出世した名士がいるかと思います。彼らの出世物語を見る事で、従来の固定化した江戸時代観も変わるかも知れません。

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