会員のカネコです。
先日も書いたのですが、まとまった調査時間が取れないので、合間を縫って地元川崎市幸区の寺院を訪れています。
先日は自宅から最も近い名墓と思われる軽部五兵衛の墓へ10数年振りに行きました。
軽部五兵衛は地元では赤穂浪士の支援者として知られている人物です。
現在の川崎市幸区下平間にあたる橘樹郡平間村の豪農で村年寄役を務めており、赤穂藩浅野家の江戸屋敷に出入りをしていました。まぐさを納めたり、屋敷内から出た下肥を引き取ったりり、掃除を担当していました。浅野家の家臣とも親しく赤穂藩改易後、赤穂藩士石富森助右衛門が討ち入り前に同居していたため、大高源吾・堀部弥兵衛・堀部安兵衛らも五兵衛の屋敷に潜伏していました。元禄15年10月26日(1702・12・14)には、大石内蔵助も五兵衛の屋敷に到着し、10日間滞在の後、江戸に向かいました。
五兵衛の墓は川崎市幸区南加瀬の夢見ヶ崎動物公園のある加瀬山山頂にある日蓮宗了源寺にあります。
この加瀬山には古墳群があったり、太田道灌の築城伝説などがあったりと歴史がある山です。小学生の頃に社会の授業等でこれらのことを学びました。
了源寺の門前にある墓地入口に軽部家の墓が6基並んでおり、その中の左端の墓碑が五兵衛の墓です。
正面に[妙法 圓照院宗春 霊 享保十二申天 二月廿三日]と刻まれています。
10数年振りにこの墓所を訪れて、改めて五兵衛のような人物がいたからこそ、赤穂浪士の討ち入りが成功したのだと思いました。
先日も書いたのですが、まとまった調査時間が取れないので、合間を縫って地元川崎市幸区の寺院を訪れています。
先日は自宅から最も近い名墓と思われる軽部五兵衛の墓へ10数年振りに行きました。
軽部五兵衛は地元では赤穂浪士の支援者として知られている人物です。
現在の川崎市幸区下平間にあたる橘樹郡平間村の豪農で村年寄役を務めており、赤穂藩浅野家の江戸屋敷に出入りをしていました。まぐさを納めたり、屋敷内から出た下肥を引き取ったりり、掃除を担当していました。浅野家の家臣とも親しく赤穂藩改易後、赤穂藩士石富森助右衛門が討ち入り前に同居していたため、大高源吾・堀部弥兵衛・堀部安兵衛らも五兵衛の屋敷に潜伏していました。元禄15年10月26日(1702・12・14)には、大石内蔵助も五兵衛の屋敷に到着し、10日間滞在の後、江戸に向かいました。
五兵衛の墓は川崎市幸区南加瀬の夢見ヶ崎動物公園のある加瀬山山頂にある日蓮宗了源寺にあります。
この加瀬山には古墳群があったり、太田道灌の築城伝説などがあったりと歴史がある山です。小学生の頃に社会の授業等でこれらのことを学びました。
了源寺の門前にある墓地入口に軽部家の墓が6基並んでおり、その中の左端の墓碑が五兵衛の墓です。
正面に[妙法 圓照院宗春 霊 享保十二申天 二月廿三日]と刻まれています。
10数年振りにこの墓所を訪れて、改めて五兵衛のような人物がいたからこそ、赤穂浪士の討ち入りが成功したのだと思いました。
さて、その帰りに近くにある「松泉寺」に立ち寄って、織田信長の弟・信包の子、信則と信則の子、信勝の宝篋印塔のお墓を掃苔してきました。このお寺には他にも静岡県士族(幕臣)・蜷川敬之のお墓もありました。