探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

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興国寺墓地の調査(鹿児島市)

2010-08-20 19:05:43 | 会員の調査報告
 久保でございます。
 よろしくお願いします。

 2009年9月に鹿児島市の興国寺墓地に調査に参りました。

 ここには、高崎崩れでお馴染みの高崎五郎右衛門の墓と、
 幕末の薩摩藩家老新納駿河の墓があります。

 鹿児島市は、廃仏毀釈に関連して巨大墓地が多いです。
 管理事務所があるところもあるのですが、ないところも多く、
 後者の場合、自力で探すのはちょっと大変です。

 事前に、鹿児島市に住む友人に、墓地の下調べをお願いしました。
 その結果、「墓地は存在し、墓石群が見えるが入口がどこにあるのか
 わからない」との事。
 まぁ、実際に行けばなんとかなるだろう、と当日へ。

 さて当日。友人の車にて、墓地のそばへ。
 すると、高台にある墓地が見えました。

 「あ、墓地だ。あそこか」と思うも、車が入る道はもちろん
 人が入る道も見当たらない。

 交通量もそこそこあったので、車を止めることもできず。
 一度通過して、ぐるっと回って再度同じところへ。

 もしかして、墓地の上に入口があるのかな・・・しかし、
 この上に出るのも、どうやっていいのか・・・と心配しながら
 車中から目をこらしていると、車1台がようやく通ることができる
 道を発見。狭いけど、入ってしまえ!!!と勢いよく入ると、
 無事、墓地の入口下の階段にたどり着きました。

 ここから階段を上ります。



 身分の高い人の墓は上の方にある、と地元の方に教えていただき、
 ひたすら登りました。



高崎五郎右衛門の墓です。

高崎正風が建てました。


新納駿河の墓は、まだ上にありました。



新納の墓は、草むらの中にあり、墓碑にたどりつく
道がありません。草を押しわけたどりつきました。

ネット上では、彼らの墓はここにあると記述されていますが
画像はどこにもありませんでした。無事に墓碑が確認できて
良かったです。


長々と駄文を失礼いたしました。
今後とも、ご指導いただきますようお願いいたします。


 

 

 

 
 
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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お待ちしてました (カワチ)
2010-08-20 22:57:02
久保さん、お待ちしてました
貴重な鹿児島掃苔情報をありがとうございます
いやー、すごいですね~ この墓地 
読んでいてワクワクしました
鹿児島は難易度の高い墓地が多いですが、これからのご活躍を期待してます
返信する
よろしくお願いします! (久保)
2010-08-21 22:45:14
カワチ様

よろしくお願いします。

墓地の写真は、高崎五郎右衛門の墓所から
撮影したものです。
案内板ももちろんありません。

ちなみに、この墓地に行く前には
大河「篤姫」でお馴染み幾島の墓に、
この墓地の後には、福昌寺墓地に
行って参りました。


これらの墓について、今少し勉強してから、アップしたいと思っております。
返信する
青山墓地にお参りをしてきました。 (志布志ジャンボ餅)
2015-11-14 20:56:01
初めに心当たりの六名様は情報が姓氏家系に在りませんでした。母方に長女静子が曽山に嫁ぎ長男正風ー元彦36歳ー正光ー正人まで解かっている方。次女琴子は伊地知家に嫁いでー三女徳子が大野に嫁いでおります。何れも天保、嘉永年間の系図ですが、大戦や西南の役等でもう一つ昔ですと鳥羽伏見の墓参りは出来てましたが、興国墓地は山口正兵衛の墓探しで高崎家を教えて頂く事が出来ました。お参りに出かけてまいります。有難うございました。
返信する
山口正兵衛について (山口淳)
2016-06-07 10:31:30
志布志ジャンボ餅様

私の家の言い伝えによると、先祖に鹿児島市の樋之口、新屋敷あたりに住んでいて山口正兵衛といい、八田知紀の弟子で高崎正風と同門でよく江戸に参勤交代で出ていた人がいる、との話があります。安政年間に吉野村庄屋役となり移住し慶応4年亡くなりましたが子孫は吉野帯迫に住み、墓は大正期に南林寺より吉野に移しました。
山口正兵衛についてご存知でしたらぜひお教えください。
返信する
豊州家久宝の二男久直が黒岡を継いでおります (志布志ジャンボ)
2016-07-23 20:03:29
その次男にあたります九十朗の墓が青山にありますので、養子先の正兵衛の吉野の墓地を探しに行きたいと思います。九十朗の兄は黒岡帯刀で、この孫にあたりますおじも亡くなっております。山口の孫も同じです。ちなみに豊州家久芳の次男久雄の娘ミワが九十朗の初室となりまして正典が記録にあります。久雄の弟季嘉の娘が私の母方祖母となります。叔父たちも母も皆おりません。明日も興国墓地へ雨靴履いて鎌持って蚊取り線香に火をつけて17日に新聞に在りましたので一人此処に墓参り上がれました。と印を置いてまいりたいです。
返信する
興国寺墓地の出自 (有川)
2017-02-15 12:04:11
現在家系の関する書物を検索している中で、「興国寺墓地」に関する記事が目にとまり、一筆書かせていただきます。
この墓地は、南林寺墓地(島津家)の改葬に伴い、大正8年に造成された、墓地です。
当初は、700坪の墓地でした。
当家は、その突き当たりに14坪の墓地を所有しております。
墓石の大きさは、人の丈以上のものも珍しくはありません。
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