田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

命拾いした昔話・猪突猛進男万歳(2012/5/31)

2012-05-31 23:36:45 | 忘れがたい釣りや山
 このごろ、高齢者の山での遭難のニュースをよく耳にする。
私も、あわや遭難して凍死しかねないことになった経験がある。

21歳、大学3年目の春のゴールデンウィークに仲の良かった5人で気楽に東北旅行に出かけ、ついでだと会津磐梯山に登ったのがその危ない経験。昭和45年、今から42年前。
私は四国愛媛の出身で、高校生の頃、3月の春休み、1800メートルくらいの山に登ったことがあり、雪も無く、道もしっかりしていてただ美しい自然が一杯という登山。それより一月後だから、似たようなもんだろうと、磐梯山に登ろうとなったもの。5人とも、キャラバンシューズとリュックに雨具は用意したが、山は素人に近い。麓のユースホステルで一泊、雪が減り営業の終ったスキーのゲレンデをスタートに地図を見ながら登山開始。

歩き始めて1時間ほどしてから様子がおかしくなった。雪が深く積もり、道がところどころ見えない。何とか頂上について、記念撮影をして裏磐梯に下りることに。道は所により2メートルはあろうかという積雪。おまけに深い霧。どこにいるのかさっぱり分からない。先頭をあるいていた私が立ち止まって、地図や磁石でオロオロしているが、引き返しても進んでもうまくいくとは思えない。だれかベテランの登山家が来ないかと思うも人の気配がない。5分ほど立ち往生していると、自衛官の息子だという角田氏がよし、行こうとさっさと雪に覆われ道なき道をどんどん歩き始めた。成り行きで残りの4人もただ角田氏の後に付いて歩くこと30分、どうにでもなれと思いながら角田氏のどんどん進む後をついていくと、突然霧が晴れ、今どこにいるか分かる。裏磐梯に下りる鞍部の近く、正しい道を歩いてきたのだ。

そこで先頭を替り、鞍部まで歩き、やはり休業中のスキーゲレンデの雪の原を尻スキーで1キロ近く一挙に滑り下り裏磐梯の麓まで。スキーロッジで一休みして、留守番のお婆さんが、「あんたらどこから来たの」と尋ねるので、あの磐梯山を越してきたと指さして答えると、なんとバカな事をと絶句の表情が今も鮮明。

 その後、S氏とN氏は銀行員になり、F氏は官庁勤めのあと、立命館大学の先生になり、私は田舎生活を不良爺さんたちと楽しみで63歳の今まで愉快な人生を送っている。俺に続けと雪と霧の磐梯山を先導した角田氏とは音信不通。しかしその時の仲間と会って話すのは、生き延びてここにいるのは角田氏のおかげと。

 角田氏除く4人は、常識の人で平和な時なら、やっていける。しかし、磐梯登山のような非常時には、角田氏のような猪突猛進タイプがいないと生き残れないと痛感。今の時代、豊かさと平和が続いて、角田氏のような猪突猛進タイプの人は、やりにくい。丸っこい常識人の型に押し込んで、抵抗したら、アスペルガー症候群だ、自閉症だとレッテルを貼って気取ったり、得意顔。せめて、猪突猛進型と呼び名を変えて、心ある人はこのタイプの猪突猛進の人は世の宝と大事にすべきと思う。

 磐梯山遭難直前の日の私の日記。
「(昭和45年4月28日 takeda21歳。) 磐梯山登山。霧が濃く、しかも残雪深し。登山路はほとんど見分けのつかぬ所もあり。とても寒い。それでも、角田の好リードのおかげで無事頂上を極め、裏磐梯に着く。五色沼は雪解けの増水のため五色ではなかった。この日は裏磐梯ユースホステルに泊まる。」

冒頭の写真は明日はあの山に登るぞ列車の窓からとパチリ。
登山前、私がエラソウに地図でルート確認。

ちょっとヤバそうとtakeda不安の山登り。

磐梯山にたどり着き、記念写真。角田氏がいなければ、軽装無謀・親不孝登山のバカモノとお笑いの最後の写真になるところ。

角田氏のおかけで下山口の鞍部に到着、有名な爆裂火口を背景にパチリ。

コメント
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