狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

ドル切り替え、泡銭550万円!歴史は勝者によって書かれる

2022-05-19 13:57:04 | ●●沖縄の黒歴史

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歴史とはなにか。

「歴史は勝者によって書かれる」と言われる。

幕末維新史も例外ではない。

幕末維新の動乱期に、幕府高官として卓越した政治手腕を発揮した小栗上野介という人物は、敗軍幕府側の責任者だったばかりに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」式の明治政府史観に基づき、敗者への公正さに欠ける歴史的扱いを受けている。

小栗上野介忠順(1827-68)は万延元年の使節団員として渡米し、勘定奉行や外国奉行を歴任、崩壊しつつある幕政を中枢で支えた人物だが、後世の評価は二分した。一方に、横須賀造船所を建設し、最初の株式会社「兵庫商社」を構想した合理主義者で、近代化の立役者という評価があり、もう一方に、薩長との主戦論を唱え無用な戦争に固執したという見方がある。その主戦論が原因で罷免され現在の群馬県に隠棲したが、謀反の容疑をかけられ新政府軍により斬首。以来、逆賊の謗りを受けてきた。

冒頭からいきなり「歴史とは何ぞや」と大上段に振り被ったが、「歴史は勝者によって書かれる」というどなたかの名言を引用したかったからだ。

引用文の意味は「歴史は勝者によって作られる」と言いたいのだろうが、筆者は「(歴史は)…書かれる」という点に注目したい。

つまり歴史とは紙や木簡などに文字で書かれて(記録されて)初めて歴史となる。 文字による記録が無ければ、過去に重要な出来事が起きても想像の世界であり、歴史とは認められない。

 

■新聞が歴史を作る

フェイクニュース報道で悪名高い新聞が連日、数多くの記事を乱発している。

新聞のフェイクニュースでも、是正する記事が無いまま時代を経ると、新聞の報道が歴史になる場合がある。

 

ドル切り替えで550万円の濡れ手に泡、「通貨確認」力業で突破 2021-10-09

上記ブログでドル切り替えを巡り、新聞が報道しなかった「通貨確認」の盲点をついて「550万円を濡れ手に泡」で入した手口を紹介しよう。「通貨確認の盲点」を敢て記録するのは、このままでは歴史から消え去るからだ。

つまり「新聞が書かなかった」事実でも、誰も記録しなかったら(書かなかったら)ドル切り替えの歴史から消えてしまう。

筆者は㌦切り替え当時会社を経営しており、ドル切り替えの慌ただしさを身を持って体験した。

その結果、「通貨確認」の盲点を体験し、「濡れ手に泡の550万円」を手に入れた。

ことの発端は、「預担」と呼ばれる定期預金担保の借り入れで、友人の顔を立てたことに始まる。

■慌しかったドル切り替え実施

沖縄の国会に相当する立法院で通貨確認の根拠となる「通貨及び通貨性資産の確認に関する緊急臨時措置法」が成立したのは、通貨切り替え実施日の前日だった。
 
通貨確認の流れはこうだ。10月9日、金融機関に人々の手持ちのドルを持参してもらい額を確認して検印。預貯金は債務を差し引いた純資産額をチェックし、日本復帰後の通貨交換の際、日本政府が1ドル360円の交換率を保証した。
 
関連法案の成立がドル切り替え日の前日という慌ただしさのため、上記の「預貯金は債務を差し引いた純資産額をチェック」の作業が、個人の場合は殆ど見逃された
 
その結果、個人で預金担保で借入した人の担保相当の負債額は無視された。
 
従って預金担保による借り入れを、連鎖的に続けて預金を増やしていけば預金のみを対象に政府が差損を補償した。(1ドルにつき55円)
 
仮に1万ドルの定期預金を担保に1万ドルを借り入れた人は、1万ドルにつき55万円の政府を保証を受取った。負債額はまったく無視された。
 
筆者の場合、当時友人が銀行の支店長をしており、支店長への協力の意味で他行から引き下ろした1万ドルを定期預金して、それを担保の1万ドルを元の銀行に返済することを友達付き合いの通常業務と見做していた。
 
その結果筆者は中身の無い1万ドルの為替差損補償金を55万円を労せず入手したことになる。まさに濡れ手に泡である
 
だが、この濡れ手に泡の保証金は55万円に止まらず、最終的に550万円のあぶく銭を手に入れた。 
 
そう、1万ドルを元金に預担による借り入れを連鎖的に続け、最終的に11万ドルの定期預金をした。(負債10万ドルを差し引きと実際は1万ドルの元金だけ)
 
結果的にではあったが、「通貨確認」の盲点を突いて労せずして「550万円」を手にしたのである。
 
勿論、一連の預担による「預金」「借入」の過程に法令違反はなく、「通貨確認」の盲点にも法令違反はない。
 
では、その「550万円」はその後どうなったか。
 
悪銭身に付かずとはよく言ったものである。
 
【おまけ】

72年当時の沖縄では、どれぐらいのドルが流通していたかというと、日銀は1億ドル程度と試算した。

当時のレートは固定相場で1ドル=360円だったので約360億円と推計された。これに前年の日銀那覇支店の設置費用や保険金、そして万一の際の予備分を含めて必要金額は542億円と算出され、その金額が自衛隊艦船により隠密裏に東京から沖縄に輸送された。542億円は現在の価値でおよそ1540億円になる。(総務省統計局「消費者物価指数」を基に算出)。

 
 
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❸『鉄の暴風』もう一人の執筆者、牧港篤三の告白

2022-05-19 08:39:51 | ●●沖縄の黒歴史

 

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これは、米国政治のキャスティング・ヴォートを握る黒人たちに突きつけられた「保守」からの革命の書だ!
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黒人女性の記念碑的処女作
日本の若き女性国士にして、最も勇気あるジャーナリスト・我那覇真子(がなはまさこ)を翻訳者に迎え、ついに運命の邂逅(かいこう)。
本書を読まずして、今後の日米関係は一切語れない。

敗戦直後の昭和24年。

交通手段も通信設備もすべて潰滅した沖縄で出版された『鉄の暴風』には数々の謎をはらんでいる。


 先ず、素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責を委ねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来たのか。
  当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられないことである。

 昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。

 住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。

 太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。

 その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。

 太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。

 「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
  三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も米軍の協力を考えれば、納得できる話である。

 余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国際通りに面した映画館「国映館」の近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。 
 その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。

 
 このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
  『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。

 ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。

 『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。

なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい

 米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

 実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。

 彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。

 ところが、当時GHQに勤務していたアメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。

 その一方、米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。

沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。

≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)

『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。

著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。

昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。

だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。

沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。

これは歴史の皮肉である。

【ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」の内容】

日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。

以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合や満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。

実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛であるとする。

 

アメリカ人が書いた「残虐な米兵」の本、続・『鉄の暴風』と米軍の呪縛

2021-05-31 14:45:49 | ★改定版集団自決

 

『鉄の暴風』と米軍の呪縛2008-08-26 

 

昭和24年、沖縄タイムスの太田良博記者は『鉄の暴風』の取材のため、山城安次郎氏(当時の座間味村助役)に取材している。

 太田記者の執筆手法には証言や史料の収集を基本とする新聞記者の姿勢はない。

 渡嘉敷島や座間味島での現地取材をしていないことは勿論、取材といえば専ら「米軍」が集めた人々の話が主で、それも発言者の名前を記したメモの類もないという。

 新聞記者の太田良博氏が、ドキュメンタリー作品の基本ともいえる当事者への取材もないずさんな記述で『鉄の暴風』を書き上げたのに対して、それを批判する立場で『ある神話の背景』を書いた作家・曽野綾子氏のルポルタージュ的記述手法は極めて対照的であった。 

曽野氏は伝聞に頼る太田氏のずさんさんな取材手法を同書の中で次のように指摘している。

  <太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった>

  この部分に関して太田氏は、後に沖縄タイムス紙上の曽野氏との論争で宮平、山城の両氏は辛うじて那覇で《捕えた》証言者ではなく、「(両氏が)沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は『赤松事件』を知った」と反論し、「(両氏は)証言者ではなく情報提供者」とも述べている。

  太田氏が宮平、山城の両氏とどのように接触したかはともかく、そのとき山城氏は渡嘉敷島の伝聞情報である「赤松大尉の暴状」について語り、「そのことを戦記に載せてくれ」と頼んでおきながら、何ゆえ自分が体験した座間味島のことを語らなかったのか。それが大きな問題なのである。

  戦時中、南方に居たという宮平栄治氏のことは論外としても、山城安次郎氏は太田記者が言う情報提供者の枠を超えた実体験者であり、座間味島の集団自決を証言できる証言者のはずである。      

 事件を追う事件記者が、飛び込んできた事件の当事者を目前にして、他の事件の情報提供だけを受けて、実体験の事件に関しては何の取材もしなかった。 

 これは記者としてはいかにも不自然である。 

 太田氏の言うように、その時、何のメモも取らなかったということも、にわかには信じがたいことである。

■大田良博と沖縄タイムスの関係

  このように新聞記者としては不適格にも思える太田氏が何ゆえ沖縄タイムスが社を上げて企画をした『鉄の暴風』の執筆を委ねられたのか。

 その謎を解く鍵は太田氏の沖縄タイムス入社直前の職にあった。

  太田良博記者の略歴を見ると、『鉄の暴風』の監修者の豊平良顕氏や共著者の牧港篤三氏のような戦前からの新聞記者ではない。 

 そもそも太田記者と沖縄タイムスとの関係は、沖縄タイムスの月刊誌にエッセイ、詩などを寄稿していたが、昭和24年に発表した『黒ダイヤ』という短編小説で注目を引いた、いわば投稿者と新聞社という関係だったという。 

 太田氏が戦後米民政府に勤務しているとき、沖縄タイムスの豊平良顕氏に呼ばれ、企画中の『鉄の暴風』の執筆を始めたことになっている。

 米軍政府が沖縄の統治権を米民政府に移管するのは太田氏が沖縄タイムスに職を変えた後の昭和24年の12月15日以降になっている。

 『鉄の暴風』の執筆時に米軍側と沖縄タイムスそして太田氏の間に「共通の思惑」があったと考えても不思議ではないだろう。

  曽野氏は『ある神話の背景』の取材で太田氏に会ったとき、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。

 ≪太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。 太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。

「時代が違うと見方が違う」

と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂をしている資料編纂所あたりでは、又見方がちがうという。 違うのはまちがいなのか自然なのか。≫

 驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その頃の米軍の思惑を執筆に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で同書を書いたと正直に吐露していたのである。

  このとき太田氏は後年曽野氏と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風』を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう

 この時点で曽野氏は太田氏が記者としては素人であることを先刻見抜いていながら、「玄人らしい分析」と「褒め殺し」をして『鉄の暴風』の本質を語らしめたのであろうか。

曽野氏は、後年の太田氏との論争で,「新聞社が伝聞証拠を採用するはずがない」と反論する太田氏のことを「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」と「玄人」から一変して、今度は、「素人」だと一刀両断している。

                    ◇

以下引用の太田記者の「伝聞取材」という批判に対する反論は、「はずがない」の連発と、「でたらめではない」とか「不まじめではない」とまるで記者とも思えない弁解の羅列。

これでは曽野氏に「素人のたわごと」と一刀両断されるのも仕方のないことである。

 

「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目

<体験者の証言記録
『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。

直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。 >

 

 

「「沖縄戦」から未来へ向ってー太田良博氏へのお答え(3)」
曽野綾子氏の太田良博氏への反論、沖縄タイムス 昭和60年5月2日から五回掲載)

<ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。

太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。

もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 


 太田 良博
本名、伊佐良博。1918年、沖縄県那覇市に生まれる。早大中退。沖縄民政府、沖縄タイムス、琉球放送局、琉球大学図書館、琉球新報などに勤務。その間詩、小説、随筆、評論など発表。2002年死去

集団自決の歪曲報道は『鉄の暴風』に始まり『鉄の暴風』で終わると言われる。 『鉄の暴風』が米軍のプロパガンダ本として米軍の厳しい検閲の結果だということを示す比較的最近の記事を紹介した。

それがこれ。↓

<沖縄タイムス 1998年1月6日 朝刊 6面>

翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。

                   ◇

大阪地裁の深見裁判長は、被告側が隊長の自決命令の証拠として提出した『鉄の暴風』に対しては、「戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を有するものと認めるのが相当である」と評価した。

その瞬間、原告側が提出するいかなる証拠も、『鉄の暴風』という間違った基準で判断されることになる。

それは「戦後民主主義」の呪縛に絡め取られた裁判長が、その象徴とも言える大江健三郎と岩波書店を必死に護った瞬間でもあった。

『鉄の暴風』が米軍の強力な検閲の元に出版されたということは、ジャーナリストの鴨野守氏を始め多くの研究者によって明らかにされている。

原告側に立つ論者が、『鉄の暴風』の生い立ちのいかがわしさや数多くの捏造箇所を指摘しても、被告側としては、裁判長が一定の評価をした以上、なるべくこの問題には触れずに頬被りをするのが得策である。

ところが『鉄の暴風』の集団自決の章の執筆者の遺稿に、誤記の部分を単なるウワサで書いたと告白し、「ウワサだけど当時は仕方なかった」と正直に吐露している部分がある。

詳細については『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(PHP研究所 秦郁彦編)の《『鉄の暴風』と太田良博》(171頁~180頁)を参照されたい。↓

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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関連エントリー⇒星雅彦氏の疑義!『鉄の暴風』と地裁判決へ

『鉄の暴風』の取材背景 梅澤隊長“生死”の誤記 


今回これに加えて、張本人の沖縄タイムスが自社の出版物で、しかも『鉄の暴風』のもう一人の執筆者・牧港篤三氏の談話として米軍の圧力について語っている記述を発見した。

沖縄タイムス発行の『沖縄の証言』(上巻)(沖縄タイムス編 1971年)が、『鉄の暴風』発刊の裏話を7頁にわたって掲載し、「米軍の“重圧”の中で」「三カ月かけて全琉から資料を集める」「書けなかった、ある一面」などの小見出しの下に、米軍の監視のもとに書かざるを得なかった執筆の内幕を書いている。

1971年といえば沖縄が返還される一年前。

まさかその30数年後に『鉄の暴風』が原因となる裁判沙汰が起きようなどとは夢想もせずに、二人の執筆者は気軽に本音を吐いていたのだろう

関連部分を一部抜粋する。

原稿は、翁長俊郎(元琉大教授)に翻訳を依頼し、英文の原稿を米軍司令部へ提出した。 当時の軍政長官シーツ少将が、感嘆久しくした、といううわさも伝わった。 にもかかわらず、しばらく反応はなかった。 あとでわかったのだが、米軍司令部で関係者が目をとおしたのち、「オレにも読ませろ」と、ほかにも希望者が続出して許可が遅れたのだという。 米側にも好評だったわけである。>『沖縄の証言』(上巻)(303頁)

脱稿後翻訳して米軍に出版の許可を仰いでいることはこの記述で明らか。

「鉄の暴風」(初版)の序文には、米軍のヒューマニズムが賞賛されている。 「この動乱を通し、われわれが、おそらく終生忘れ得ないのは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。 このことを特筆しておきたい」。 たしかに、戦場の各所で、多くの住民が米軍に救出され、米軍に暖かいイメージを抱いたとしても不思議ではない。 沖縄住民は日本に見離され、米国の被保護者に転落していたのだから。 
しかし、「鉄の暴風」が米軍のヒューマニズムを強調したのは、そこに出版の許可条件を満たすための配慮もなされていた、という時代的な制約を見落としてはならないだろう。>(304頁)

太字強調部分は多くの研究者が言及していたが、沖縄タイムス自らがこれを認めた記事は珍しい。

1949年5月、具志川村栄野比で戦後のラジオ放送の第一声を放った琉球放送(AKAR)は、翌年10月1日の午後7時45分から、毎晩きまった時期に「鉄の暴風」-全文433ページを朗読放送した。 朗読担当者は川平朝清アナウンサー。 クラシックの音楽をバックに流して効果を出したという。>(305頁)

「鉄の暴風」のラジオ放送は、1945年(昭20)12月9日からNHKで放送された、ラジオ番組「真相はこうだ」を明らかにい意識していた。

「真相はこうだ」は、NHKの独自番組のように放送されたが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報教育局が担当した。

内容は満州事変以来の軍国主義の実態を暴露するドキュメンタリーで、アメリカの都合で故意に歪曲された部分も少なくなかった。

ちなみに沖縄版「真相はこうだ」ともいえる「鉄の暴風」のラジオ朗読をした川平朝清アナウンサーは、ディスク・ジョッキーのジョン・カビラ、元日本マクドナルドマーケティング本部長の川平謙慈、そして俳優の川平慈英という3人の父親である。

苦しかった執筆条件
牧港篤三談(執筆者の一人ー引用者注)

戦記執筆前に日本の戦記出版類をたいてい読み、太田君もトルストイの「戦争と平和」を精読したと言うことでした>(307頁)

「鉄の暴雨風」の問題の箇所「集団自決」を執筆した太田良博氏は、沖縄タイムス入社直前まで米民政府に勤務する文学愛好家であったが新聞記者としては素人だった。 

戦前からのベテラン記者であった牧港篤三氏が執筆の前に準備として目を通したのが日本の戦記物だったのに対し、文学青年の太田氏が精読したのは戦記の類ではなく、トルストイの「戦争と平和」であったという事実は「鉄の暴風」の性格を知る上で興味深いものがある。

米軍占領下の重ぐるしい時代でしたから、米軍関係のことをリアルに書けば、アメリカさんは歓迎すまい、といった、いま考えると、つまらぬ思惑があったのも事実です。 タイムリーな企画ではあったが、書く条件は苦しかった。>(307頁)

「戦後民主主義」の呪縛に取り込まれた深見裁判長が、必死になって大江健三郎と岩波書店を守るための根拠となる『鉄の暴風』に誤った評価を与えても、執筆者の太田良博氏や、牧港篤三氏がその遺稿や談話で「『鉄の暴風』はウワサで書いた」とか「米軍重圧の思惑のもとに書いた」と吐露している以上、『鉄の暴風』に資料的価値を求める深見裁判長の判断は、逆説的意味で正しいという皮肉な結果になる。

つまり、書かれた昭和24年当時の沖縄が、戦記を書くにはウワサで書くのもやむえなかった時代であり、米軍のいやがることは書けなかった時代であったという歴史を知るために、『鉄の暴風』の資料的価値は充分にあるということになる

 

太田良博記者が『鉄の暴風』を書いたとき、米軍の顔色伺いながら書いたと、吐露する場面が『ある神話の背景』に描かれている。 以下は『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編)よりの引用です。

曽野綾子は『ある神話の背景』の取材で太田にあったときから、すでに太田の記者としての危うさを察知していた。 曽野は、逆説的に“玄人”という表現を使って、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。

太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。「太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。 太田氏はそれを私情をまじえずに書き留める側にあった。 「述べて作らず」である。 とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。 
「時代が違うと見方が違う」
と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂所あたりでは、又見方が違うという。 違うのは間違いなのか自然なのか。」(「ある神話の背景」)

驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その当時の米軍の思惑を自著に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で書いたことを正直に吐露していたのである。
このとき太田は後年曽野と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風」を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実」(183頁、184頁)

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対立より「明るい明日」を 祖国復帰50年 各地でイベント

2022-05-19 07:43:21 | 政治

 

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対立より「明るい明日」を 祖国復帰50年 各地でイベント

 
シンポジウム「沖縄が守る自由と民主主義」のパネリストら=15日、沖縄県浦添市の社会福祉センター(豊田剛撮影)

沖縄県は15日、祖国日本に復帰してから50周年を迎え、これを祝うイベントが各地で開かれた。政府と県が主催した記念式典は基地問題をめぐる両者の対立の影響で祝賀ムードは限定的だった。民間団体が主催した行事はそれとは対照に、復帰に対しての感謝や明日への希望に満ちあふれた内容だった。(沖縄支局・豊田 剛)

琉球王家の末裔も分断煽る動きに警鐘

祖国復帰前日祭で万歳三唱をする参加者=14日、沖縄県那覇市のパレット劇場(川瀬裕也撮影)

県と政府主催の記念式典は沖縄と東京の二元中継で行われた。岸田文雄首相と玉城デニー知事が式辞を述べたが、基地問題をめぐる政府と県の対立は解消されないままだ。

「日米同盟の抑止力を維持しながら、負担軽減の目に見える成果を着実に積み上げる」と強調する岸田首相。これに対して玉城知事は、「復帰に当たって政府と共有した『沖縄を平和の島とする』との目標がなお達成されていない」と不満を口にした。

 沖縄会場の外では政府を糾弾するデモが行われていた。毎年、6月23日の「慰霊の日」で目にする光景と似ており、祝賀ムードには程遠い雰囲気だった。

こうした対立構造に警鐘を鳴らした人がいる。琉球王家の末裔(まつえい)で第二尚氏の第23代の代表、尚(しょう)衞(まもる)氏(71)は14日、那覇市で開かれた祖国復帰50周年記念イベント冒頭のあいさつで、「(沖縄では)日本との対立を煽(あお)るような動きが時々見える。私たちの願いとは対極にあり悲しい」と述べた上で、沖縄の歴史文化の正しい継承が必要だと強調した。

 このイベントの名称は、「尚家と祝う沖縄県祖国復帰50周年『祖国復帰の日』前日祭(主催・沖縄県祖国復帰記念大会実行委員会)。

復帰当時、教師として祖国復帰に尽力した仲村俊子氏(99)はビデオメッセージで、当時の左翼主導の復帰運動は「『基地のない平和な島』を目指して、返還協定粉砕と、全ての米軍基地の撤去、さらに自衛隊配備反対まで唱えていた。もし、彼らの主張が実現していたら、今の沖縄はどうなっていたのか」と振り返り、「沖縄が永遠に日本であり続ける」ことを願った。

イベントではまた、皇室ジャーナリストの三荻(みつおぎ)祥(さき)さんが皇室と沖縄の絆について講演した。その中で、上皇陛下は毎年、慰霊の日と昭和38年から続く沖縄豆記者との交流について考えてこられ、今上陛下もその精神を引き継いでいると説明。「皇室は今でも決して沖縄のことを忘れておらず、心を寄り添い続けるというメッセージだ」と述べた。

皇室の沖縄に対する思いについては、沖縄県神社庁参与の大山晋吾氏が15日、別の会場で行われた復帰50周年記念シンポジウムで話した。大山氏は、「上皇陛下は皇太子時代を含めて計11回沖縄訪問された。その際、必ず糸満市摩文仁の国立戦没者墓苑で戦没者の英霊をなぐさめられた」と述べ、沖縄県が祖国復帰を達成できたのは①皇室と沖縄の人々のつながりが強い②敬神崇祖の心を持っている人が多い③本土と同じ言葉・文化・宗教を持っている――という三つの要素があったからだと説明した。

このシンポジウム「沖縄が守る自由と民主主義」(一般社団法人みらい、一般社団法人JCU共催)は15日、浦添市で開かれた。パネリストの一人、長尾敬前衆院議員は 「50周年の節目を日本全体がどう捉えるかが問われているが、新聞報道や地上波には頼れない。影響力でもSNSが優位になっている時代、一人ひとりが情報発信をし、全国に意義が伝わるようにしないといけない」と述べた。

続いて登壇した元中部大学総合工学研究所特任教授で評論家の武田邦彦氏は、国際プロジェクト「世界価値観調査」が昨年発表した「幸せな人が多い国ランキング」でベトナムが1位になったことについて、「ベトナムは貧しくとも今日より明日が良くなるという希望を持って生きているからだ」と指摘。一方、同ランキング下位の日本は教科書で、沖縄戦での日本軍による悪行など悪いことばかりが書かれる傾向にあると述べ、「歴史を明るく、祖先を尊敬するように書くことが大切だ」と強調し、「大人が今日より明日が良くなると考える」よう呼び掛けた。

廃藩置県と日本復帰は正しい決断 尚衞氏の講演要旨

沖縄県の祖国復帰をどのように意義付けるのかは、百人百様で、それぞれの人生経験と沖縄や日本の歴史の学び方で異なる。今から50年前は、日本武道館で一人の国民として式典に参加した。尚本家においても、祖国復帰50周年は、沖縄にとって非常に重要な節目だと思い、前例を破ってこのような場に立つことにした。

廃藩置県の時、日本へ帰属するという大きな決断をされたのは、第二尚氏19代の尚泰王だった。当時は、日本各地の諸藩が、藩主の一存で大政奉還を決断したように、琉球がこれから存続していくには日本に帰属するのが正しい道だと決断した。

敗戦後の米軍統治下においては、祖国日本への復帰は、百万県民の悲願だった。祖国復帰は、沖縄県民の熱い情熱により、選び取った歴史だ。

廃藩置県で沖縄県が設置されて以降、尚本家は沖縄を離れて生活をしてきたが、尚家の魂は常に沖縄にあり、一日たりとも心が沖縄から離れたことはない。

琉球文化や沖縄方言を学ぶことによって、日本との対立を煽(あお)るような動きが時々見えることがある。それは、私たちが願っていることの対極にあり悲しいことだ。琉球文化を継承発展させることが、日本の発展につながるものでなければならないと思っている。

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