1971年10月当時、琉球政府金融検査庁次長だった與座章健さん(92)=南風原町=は宮里松正副主席(故人)の指示を受け、「通貨確認」の根拠となる法案や交換方法の手順作りに関わった一人だった。実施日まで数日しかない中、信頼できる部下ら7人を集め、徹夜で作業に当たった。

 通貨確認の流れはこうだ。10月9日、金融機関に人々の手持ちのドルを持参してもらい額を確認して検印。預貯金は債務を差し引いた純資産額をチェックし、日本復帰後の通貨交換の際、日本政府が1ドル360円の交換率を保証した。

 事前に情報が外部に漏れれば、沖縄に投機ドルが流入して深刻なインフレを招きかねない。與座さんと関係職員は、誰にも気付かれないよう、日中は定時まで仕事をしてそれぞれ何食わぬ顔で退庁。作業場所として確保したアパートの一室に集合する徹底ぶりだった。

 「何でもできる立派な後輩たちだったけれど人間、3日も4日も不眠不休だと駄目になるよ」。與座さんは苦笑する。最後まで仕事を貫けたのは「そうこうしている間にも、ドルの価値はどんどん下がっていく。住民の財産を守るため、ここは踏ん張らないと」という使命感だった。

 立法院で通貨確認の根拠となる「通貨及び通貨性資産の確認に関する緊急臨時措置法」が成立したのは、前日だった。極秘に作業を進めつつ、いぶかる議員に法の必要性を訴えた

 沖縄全島約360の金融機関へ一斉に業務停止命令を出し、住民の保有ドルを一気呵成(かせい)に確認する。当日の本紙夕刊に並んだのは「人騒がせな差損劇」「物議をかもす極秘作戦」の見出し。與座さんは懐かしむ。「こんな力業、後にも先にも聞いたことないな」

 宮里副主席が激論を交わした相手は、日本の総理府総務長官だった山中貞則氏(故人)だった。

 宮里氏は97年に本紙で執筆した連載「復帰二十五年の回想」で、通貨確認を含むさまざまな特別の救済措置がなければ、県民は約389億円の実害を受けていたと指摘。〈今でもそれ以外に適当な方法はなかったと確信している〉とつづった。

 元琉球大学教授の川平成雄さん(71)は「米国民政府さえ蚊帳の外に置いた秘密裏の交渉で、琉球政府が日本政府に堂々と渡り合った」とみる。

 「50年前だが、互いをリスペクトし、命を懸けて向き合った政治家たちに学ぶことは多い」と語った。(学芸部・新垣綾子)

(写図説明)與座章健さん

(写図説明)川平成雄さん

(写図説明)「1セントも忘れずに確認を」。多くの人々が紙幣や硬貨を手に金融機関の窓口に詰め掛けた=1971年10月9日、那覇市・琉球銀行本店