沖縄2紙に掲載される戦争談と言えば『鉄の暴風』に代表される沖縄戦と相場が決まっている。
沖縄戦では、住民の被害が強調され日本軍は住民を守るどころか住民を虐殺するのが目的のように報道されている。
いれいたかし氏と言う沖縄の識者などは戦艦大和は沖縄住民の虐殺のため派遣された、と言う有様だ。
⇒戦艦大和は悪鬼の軍艦?!2009-01-25
■沖縄にインパール作戦の生存者が現存
ところが11月9日付沖縄タイムスの読者の意見欄の「父の戦争体験」という投稿を読んで「おや!」と思った。
72歳の主婦金城一枝さんが父親の「インパール作戦」について次のようなコメントを書いている。
父の戦場体験「心」の傷深く 金城一枝=72歳
NHKの朝ドラ「エール」を毎日、楽しく見ています。 インパール作戦の回は、亡き父を思い出しました。父は数少ない生き残り兵です。私と2人の弟に、寝物語に戦争の話を良くしてくれました。
撤退の時、ちょうど雨期で荷物は頭上高く上げて歩いたそうですが、それに耐えきれず死んだ人も多数いたそうです。殺し合い、死体の上を逃げまどい、食糧もなく、ヘビやカエル、ネズミはごちそうです。しかも死体さえも。(略)肩はマラリアの傷、腕は銃弾の傷が残っていました。しかし、一番の傷は体ではなく「心」です。
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筆者はNHKの朝ドラを見たことがない。したがって朝ドラ「エール」も観ていない。
投稿者の金城さんは、父がインパール作戦の生き残りで、朝ドラ「エール」の登場人物がインパール作戦に従軍しており、亡き父のことを思い出した模様。
朝ドラ「エール」は作曲家古関裕而氏がモデルとされている。
1944年4月、古関氏は、作家の火野葦平氏らと共に特別報道班員に選ばれ、インパール作戦が行われたビルマに従軍記者として派遣された。
インパール作戦についてウィキでは、こう説明されている。
インパール作戦とは大東亜戦争のビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に[帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蔣ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加したほとんどの日本兵が死亡したため、現在では「史上最悪の作戦」と言われている。
当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。
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沖縄にインパール作戦の生き残りが住んでいたことは驚きだが、八重山日報によると竹富島にもインパール作戦の生き残りが住んでいたらしい。
インパール作戦生還者と面会 インドの音楽家ら竹富訪問
八重山日報 2019/11/7
第2次大戦の大激戦地として知られるインド北東部のインパール(インド・マニプール州)から、同地域を代表する伝統音楽家のマンガンサナさんら3人がこのほど、竹富島を訪問。島に住むインパール作戦の生存者、赤山喜介さん(100)と面会した。同作戦は日本軍の最も凄惨な作戦の一つとされ、日本兵7万5千人の死傷者の大半は餓死と病気によるものとされる。一方で、インド独立のきっかけになった戦いとも言われる。
沖縄にインパール作戦の生き残りが二人も居て、前述の金城さんの父は75歳まで生き延び、竹富島に在住の赤山さんは100歳と言う高齢でご存命だから驚きである。
俗にインパール作戦は愚将牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行され、日本兵7万5千人の死傷者の大半は餓死と病気によるものとされ兵站を無視した世界一愚鈍な作戦と言われている。
確かに牟田口司令官の言動に批判される部分が数多く存在する。
■インパール作戦はインド独立の出発点だった
だが、インパール作戦は はたして 愚か な 戦い だっ た のか 。
万に一つも勝ち目がない作戦だったのか。
>一方で、インド独立のきっかけになった戦いとも言われる。
最近の研究によると(『日本人が知らない最先端の世界史』福井義高著)、インパール作戦には光と影の「2面性」があるという。
敗者である日本ではインパール作戦の光の部分には目を閉ざし、勝者の視点で影の部分にのみ注目し、同作戦は全く無謀で愚鈍と評価していると指摘している。
■歴史は勝者が作る
「歴史は勝者がつくる」と言われる。
「戦争に勝ったこと」自体が、勝者の正当化になる。
戦の勝敗の結果が勝者・敗者に対する全体的な評価になってしまう。
戦争に勝ったのは、勝者が「正義で、強い」からで、敗者が「不正で、愚かで、弱い」からであるという評価になりがちである。
もちろん、戦争の戦略的・戦術的な成功・失敗の原因を科学的・技術的に分析することは可能であり、そこに因果性を認めることはできる。
インパール 作戦 と いえ ば、 日本 軍 の 数 ある 戦い の なか でも、 最も 悪名 高い もの の ひとつ で あり、確か に、 おびただしい 人命 損失 を もたらし た 補給 軽視 と 指揮 の 混乱 について は 弁護 の 余地 は ない。
しかし、 そもそも 戦局 が すでに 日本 軍 に 不利 に なっ た 1944 年 の 段階 で、 あらた に インド に 攻め 入る という 発想 自体 が 戦略 的 思考 欠如 の 表 われ、 という 批判 は 必ずしも 当たっ て い ない。
■インド独立の二人の闘士
インパール 作戦 を「 チェロ・デリー」(デリーに向かって進軍) すなわち インド 独立 に 向け た 重要 な 第一歩 として、 誰 よりも 熱心 に インド独立を推進 しインド人活動家がいた。
インドでは「ネタージ」(指導者)と崇拝されるチャンドラボースのことである。
インドでは無抵抗・非暴力でインド独立を目指したガンジーではなく、武器を持ってイギリスと戦ったチャンドラボースこそ、インド独立の父と見做されている。
ガンジーとボースの写真
ガンジーより若いチャンドラボースは当初、ガンジーの非暴力・無抵抗のインド独立運動に共鳴し、ガンジーの片腕としてと共に行動していた。
ところが、非暴力での独立運動は現実的でないと悟り、途中から武器を持って戦う独立運動を主導しガンジーとは対極の立場に立つ。
チャンドラボースは、「インド独立軍」を指揮してインパール作戦で日本軍と共にイギリス軍と戦うが、日本の敗戦を知ると今度はソ連と共闘するため軍用機で台湾を飛び立つ。 その離陸の際不慮の事故死をする。
しかし、日本の敗戦のちょうど2年後1947年8月15日、インドは念願の独立を果たす。
ボースはインドの独立を知らないまま事故死するが、現在インドではインド独立の父として尊敬されている。
では何故インド独立の父は非暴力のマハトマ(聖者)ガンジオ―ではなく、武器を持ってイギリスと戦ったネタージ(指導者)チャンドラボースなのか。
■インド独立50年記念祝典の出来事
1997年8月15日、インド議会は独立50年を祝って、独立闘争の三大英雄、ガンジー、ボース、ネルー(インド初代首相)の肉声録音を流した。
その際、最大最長の拍手喝采を浴びたのは非暴力のガンジーではなく、武器を持って戦ったボースであった。
ボースはインドでは圧倒的人気にも関わらず、日本ではほとんど知られていない。
その理由は、ガンジーの非暴力の闘争が日本の左翼リベラリズムに大きく支持されていたからだろう。
又「歴史は勝者が作る」の論で言えば、ボースはイギリス軍と戦ったとは言え、連合軍にとっては悪の枢軸国日本の傀儡であり、ボースが参加した「大東亜会議」などは、勝者の歴史では茶番劇とはしか見做されていない。
それに日本でボースと言えばチャンドラボースの大先輩で、中村屋にカレーを紹介し日本に帰化した中村屋のボースと混同されるせいもある。
2019年6月22日、インドのインパール市で「インパール平和祈念館」の除幕式が行われた。
日本では評判の悪いインパール作戦を平和記念館で顕彰する行事を、報道するメディアは殆どなかった。
だが、同記念館には安倍首相自筆の「平和」の揮毫が飾られ、記念式典ではインドの音楽団が日本民謡として「安里やユンタ」を披露した。
その証拠の映像がこれ。
「安里屋ユンタ」が披露された場面。
【おまけ】
つづく
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