過去ブログインド独立はインパール作戦が起点!インパール平和記念館に安倍前首相が「平和」揮毫、沖縄とインパール作戦2020-11-16の続編です。
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■太平洋戦争は「マレーの虎」が幕を開けた。
「太平洋戦争」は1941年12月8日日本軍による「真珠湾攻撃が日米戦争の開始」として日本の歴史には記録されている。
だが、「太平洋戦争」は、ABCⅮ包囲陣との戦いと言われるように、日本はアメリカのみならずイギリス、オランダなど植民地主義国家との戦いでもあった。
植民地解放の視点で言えば、太平洋戦争は、「マレーの虎」こと山下奉文中将(※【おまけ】参照)が指揮するマレー作戦こそ日本が主張した「大東亜戦争」の幕開けである。
山下中将は太平洋戦争開戦を控えた1941年11月6日には第25軍司令官として、マレー作戦を指揮した。
時系列で言うとマレー攻撃は真珠湾攻撃の2日前である。
マレー作戦は日本軍による一連の南方作戦の第一戦目であり、1941年12月8日午前1時30分、隷下の第18師団がイギリス領コタバルへの上陸作戦を開始しているため、いわゆる太平洋戦争はこのマレー作戦によって開始されたものである。
アメリカ領ハワイへの真珠湾攻撃に先立つこと約1時間20分前のマレー攻撃であった。
ここで注目すべきは日本軍の相手は「太平洋戦争」の代名詞ともいえる米軍ではなくイギリス軍であったこと。
日本軍は驚異的な速度でマレー半島を進軍し、イギリス軍を急追して開戦以来70日でマレー半島およびシンガポールを陥落させた。
日本軍は戦前から周到な準備を重ね、陸軍の進撃を海軍と航空部隊が支援し、また歩兵、工兵、戦車が協力しあった。日本軍の南方作戦は順調なスタートを切り、その後3月にはオランダの植民地のジャワ島(現インドネシア)、5月にはイギリスの植民地の現ミャンマーを制圧して、作戦目標を達成した。
一方、イギリス軍は本土防衛に注力せざるを得ない状況であったうえに、情報不足ということもあり敵の戦力を過小評価して準備不足のまま戦争に突入した。植民地から調達した多民族からなるイギリス軍は統制を欠いていた。
■投降した英インド兵の寝返り
ここでもう一つ注目すべきは、イギリス軍の兵士は、日米戦争の米軍のように、イギリス本国から派遣されたイギリス人兵士ではなく、英インド軍、すなわち植民地インド軍であったことだ。
英インド軍は、将校を除いて主にインドの現地人から構成された軍隊であった。
イギリスの植民地政策で英インド軍に従軍を余儀なくされていた現地インド人は、投降した後、今度は日本軍の軍隊としてイギリス軍を敵に回した。
英インド人は「インド独立軍」として日本軍に協力して、後のインパール作戦に、喜んで参加している。
(「太平洋戦争」は、東南アジアでは日本が主張する「大東亜戦争」が現実的なので、以後「太平洋戦争」を、大東亜戦争と呼称する。)
「大東亜戦争」の幕開けは「マレーの虎」こと山下奉文中将のマレー作戦における華々しい勝利によって幕を開けた。
ところが史上最悪の作戦と言われるインパール作戦は、マレー作戦の延長と捉えることもできる。
第18師団長牟田口廉也中将は、マレー作戦で英印軍を難なく破ったことで、「英国軍は中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回を行えば必ず退却する」という認識を持った。
インパール作戦は牟田口廉也中将の独断とされているが、よくも悪くも日本の官僚制度を引き継ぐ日本が、一司令官の独断でマレー作戦から一気にインド侵攻を目指すインパール作戦を立案できる筈もなく、当然大本営の杉山参謀長の指令なくしては考えられない。
杉山は1915年にインド駐在武官を拝命の頃の縁で、インド独立運動家の「中村屋のボース」(ビバリ・ボース)やガンジーの片腕として信頼を得たチャンドラボースの日本招致や大東亜戦争中の隊員工作、インパール作戦に深く関与している。
大東亜戦争開戦前の1941年9月、参謀総長杉山元大将は、後に「F機関」の設立者となる藤原岩市少佐をバンコクに派遣した。
■マレー作戦は「大東亜新秩序」とインド独立が前提
藤原は「大東亜新秩序の大理念を実現するために、インドの独立と日印提携の開拓を用意しつつ、まずマレー方面の工作に当たる」ことが杉山の特命と理解した。
バンコクに着いた藤原は、まず「インド独立連盟」(ILL)シン書記長と密会する。
12月8日の日米戦争開戦後、藤原率いるF機関は、公然と活動を開始したILLの協力を得て、マレー半島を南下する日本軍に対峙する英インド軍のインド兵を次々と投降させる。
英インド軍兵士が容易に投降した理由は、藤原らがインド兵にアジア人としての連帯を訴え、行動で示したからだ。
■マレー作戦は植民地帝国の崩壊を意味する
東南アジアにおける最大の植民地であるマレー半島およびアヘン貿易の中継地シンガポールの陥落、そして同時期の香港、上海の陥落、後のビルマ陥落は、イギリスのアジア植民地支配の転換点となり、「植民地帝国」としてのイギリスの崩壊を決定づけた。そしてインド侵攻のためインパール作戦へと繋がっていく。
確かにインパール作戦は、シンガポール陥落などマレー作戦の成功で勢い付いてたはいえ、兵站を軽視した無謀な作戦であった。
食糧等の補給を無視したジンギスカン作戦の失敗や英印軍約15万人に対し、日本軍は3分の一の約6万人の兵力で攻撃を仕掛けるという無謀極まる戦いであった。
しかし当初はF機関の工作が功を奏し、英インド兵の投降が続出した。
F機関の藤原は、投降後に英軍に見捨てられた5万人余のインド兵を前に大演説を行った。
「日本軍はインド兵諸君を捕虜という観念で見ていない。日本軍はインド兵諸君うぃお兄弟の情愛を持ってみているのである。(中略)日本軍はインド兵諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の闘いのために忠誠を誓い、INA(インド国民軍)に参加を希望するにおいては、日本軍捕虜としての扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め。また全面的支援を与えんとするものである。」
この呼びかに、多数のインド兵が歓呼の声で応じ、日印の絆は頂点に達した。
このまま藤原少佐の対印工作が続いたら「無謀な作戦」に一筋の成功の光を当てることが出来た。
■藤原大佐の転属とインパール作戦の光と影
ところが、インパール作戦に於ける日印共同戦線構築は上記藤原少佐の演説をピークに、下降線をたどり始める。
敵兵である英インド兵を投降させ日本軍として共同でイギリス軍で戦うなど現地工作は、藤原大佐の個人的つながりが不可欠であるにもかかわらず、日本の官僚組織特有の人事異動で、藤原4月に転属となる。
藤原が手掛けた対印工作は重要性を増し、人員と予算がけた違いに大きくなった。
■大物軍人配属
その結果、大物軍人岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐がF機関のトップに就任した。
大畔大佐は昭和16年、近衛文麿のブレーンと接触のある陸軍側要員として渡米し、、野村吉三郎大使を助け日米交渉に当たった。
太平洋戦争開始後はインパール作戦など南方作戦に従事し、18年少将に。19年第28軍参謀長となり南方占領行政を担当した。
藤原はインド兵と接する中で、チャンドラボースの名声を肌で感じ、ボースをインド独立軍(INA)の指揮を委ねるよう岩畔に具申したが拒否された。
岩畔はINAとの関係もうまくいかず、11月にはシン司令官を罷免するに至る。
陸軍中枢は「中村屋のボース」と呼ばれた日本在住のビバリ・ボース対インド工作において最重要視せ、二人のボースのインド本国での名声の違いを理解していなかった。
ガンジーの片腕としてインド国民の名声が絶大なチャンドラ・ボースに対し、「中村屋のボース」は祖国インドを去って久しい老活動家で在り、インドでは無名の存在であった。
もし、1942年の早い時期にチャンドラボースを招いていれば、戦局は違っていただろうし、INAの武力解放が早期に実現した可能性がある。
大東亜会議で東条首相と握手するボース。
結局チャンドラボースは日本の協力を得るため「大東亜会議」に参加する。
■チャンドラボースの事故死
だが、1945年8月15日、日本が降伏すると、今度はソ連の協力を求めるため台北を出発。その時空港を離陸する際、悲願のインド独立を見ずに事故死する。
■大東亜戦争が東南アジア、インドの独立を促した。
戦後、これら東南アジア地域とインドは、敗戦による日本軍の撤退を受けてイギリスの植民地として復帰した。
しかし、アジア各地では同じアジア人である日本人に打ち破られたイギリス人やオランダ人、アメリカ人やフランス人の惨状を目にし、独立指導者を中心とした民族主義が高揚した。
しかも、自国も戦火で荒廃したイギリスはもはや遠方の植民地を維持するだけの国力を持たなかった。
先ず終戦の2年後の1943年8月15日、インドは独立を果たした。
さらに終戦の十数年後、マレー半島一帯は1957年にマラヤ連邦としてイギリスから独立する。
つづく
【おまけ】
(※)産経新聞 2013.2.28 12:17
【浪速風】
「マレーの虎」の写真に隠された真実(2月28日)
有名な写真である。「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文中将(当時)が厳しい表情で「イエスか、ノーか」と無条件降伏を迫る。テーブルを挟んで英軍司令官のアーサー・パーシバル中将は考え込むようにうつむいている。昭和17(1942)年2月15日、シンガポール陥落の場面だ。
▼この写真をもとに洋画家の宮本三郎は「両司令官会見図」を描いた。戦意高揚に利用されたが、山下は「イエスか、ノーか」がひとり歩きするのを好まなかった。「敗軍の将を恫喝(どうかつ)するようなことができるか」。実は英軍が連れてきた日本語の通訳が下手で、いら立ってつい強い口調になったのだという。
▼その場に立ち会った小路春美さんが99歳で亡くなった。同盟通信の従軍カメラマンでは最後の一人だった。写真は歴史の断面を伝えるが、見る者には真実を読み取る目が求められる。中国の「南京大虐殺記念館」のように、無関係の写真を展示して歴史の改竄(かいざん)に使われる例もあるのだから。