狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

【追記】あり  赤丸に斜線のブラウスで入学式へ

2006-12-27 09:33:44 | 教科書

同じ国の同じ文化土壌で育った者なら、あるデザインや図形に共通の敬意を払うことができる。

だが別の文化圏の人の目には、それは唯の無機質な図形にしか映らない。

それどころか「ある種の病」に冒された人々にとってはそれは激しい「憎悪の対象」でしかない。

異文化のオピニオンリーダー、朝日新聞にとって「日の丸に斜線」のデザインは、「赤丸に斜線のブラウス」にしか映らないのだろう。

これは識別障害の症状なのか。

 

【追記】12月28日 9:05

先日テレビのトーク番組で金美麗女史が、小泉前首相の外遊経費が掛かり過ぎたと言う批判に答えて、

「一国の首相たるものがホテル等の経費をケチるべきではない」

「ニューヨークの国連近くにウオードルフ・アストリア・ホテルというステータスの高いホテルがあるが、そこに日本の首相が泊まるとホテル前に日の丸が掲げられる」

「それを見ると、私は台湾人だが感激する」

「首相がこんな立派なホテルに泊まっていることを、日の丸で知って誇らしげに思う」

メモしたわけではないので正確な発言ではないが、大体このような趣旨で反論した。

なるほど、国籍は台湾と言え日本の文化土壌で育った金女史の率直な意見だ。


このような発言に、仲間(台湾)を売った裏切り者、と脊髄反応する「病人たち」がいるが、金女史が誰よりも台湾を愛しているのは日頃の言動で自明だろう。

彼女が戦っているのは台湾を略奪しようと狙う中国であり、台湾内部の中国工作員、そしてそれを支援する日本国内の「病人達」だ。

それに彼女は平均的日本人の誰よりも遥かに強く、自分を育んだ日本を愛していることは上記発言でわかる。【追記終了】

 

朝日新聞
赤丸に斜線のブラウスで入学式へ 都教委処分に適法判決

 東京都立大泉養護学校で02年、赤い丸に斜線を引いたマークの入ったブラウスを着て入学式に出席し、「日の丸に反対している」として戒告処分を受けた渡辺厚子教諭(56)が都教委に処分の取り消しを求めた訴訟の控訴審判決が26日、東京高裁であった。原田敏章裁判長は「国旗掲揚などに反対する意思を積極的に表明し、式の円滑な進行を妨げるおそれがあった。教育の統一的な運営に対する保護者や住民の信頼を害する」と述べ、処分を適法とした一審・東京地裁判決を支持。原告側の控訴を棄却した。

 判決によると、渡辺教諭は白いブラウスの右胸につけたマークを理由に校長から上着を着るよう職務命令を受け、従わなかった。都教委は同年11月に職務命令違反を理由に戒告処分とした。

 「手づくりブラウス着て入学式に臨んだ女教師」のどこが悪い!

朝日の怒声が聞こえるようだ。

母さんが夜なべして「赤丸」を編み込んでくれたのかは朝日新聞では不明。

そこで、

母さんの歌 窪田 聡 作詞/作曲

かあさんが 夜なべをして
手袋(赤丸?)あんでくれた
木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて
せっせとあんだだよ
ふるさとの便りはとどく
いろりのにおいがした

【関連リンク】
パワートゥーザピープル
「大泉ブラウス裁判控訴審結審」

 渡辺厚子さんの「日の丸・君が代」戒告・減給撤回!
12.26高裁判決にあつまろう!


2002年4月9日、都立大泉養護学校の入学式


 都立大泉養護学校教員の渡辺厚子さんは「日の丸」「君が代」の強制に反対し、人権尊重を願って、手づくりの絵ブラウスを着て入学式に臨みました
 ところが、江崎安幸校長は渡辺さんに「上着を着なさい」と職務命令を出しました。
 渡辺さんは理由も定かでない理不尽な命令には従いませんでした。
 二人の教頭は待ちかまえて写真を撮り、やり取りをメモし、処分の準備をしました。
 そして校長は7月になって「職務命令書」を出し、渡辺さんを校長室へ呼ひ出し、事情聴取をしました。
 8月にも再ひ呼ひ出しましたが、二度目の事情聴取は断りました。

11月「戒告処分」出される。

 11月16日、都教委は渡辺さんに対し、上着着用命令拒否、再事情聴取拒否を理由に「戒告処分」を下しました。

 

「ある種の病」を患った人々には「戒告処分」より、「入院勧告」、・・・いや、「強制入院」のほうが本人のためには親切だと思うのだが(笑)。

 

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「真珠湾」の4年前から日本と戦っていたアメリカ人少将

2006-12-27 06:16:53 | 歴史

「幻のAmerica’s Sneak Attack on Tokyo」

 1941年12月8日。

日本の「真珠湾攻撃」によって日米戦争が始まった。

だが、実はその四年前アメリカは既に日本と戦っていた。

卑怯にも(sneak)日本攻撃(attack)の準備をしていたのだ。

そのときアメリカ製戦闘機を駆って日本軍と戦っていたアメリカ人士官とアメリカ人戦闘機集団がいた。

                    *

アメリカでは軍戦没者は一兵卒でも英雄として扱われる。

最近のテレビ映像等でもイラクで戦死した兵士の棺を星条旗で包んで国に殉じた英雄として丁重に扱うシーンが記憶に新しい。

昨年の2005年5月28日、アーリントン墓地に約四百人の老いた退役軍人が集結した。
彼らはフライングタイガースの元隊員であった。 

フライングタイガースの元隊員といっても、大阪の道頓堀川に飛び込む熱狂的な阪神ファンのことではない。

日米開戦の四年前、既に日本と交戦状態にあった中国に航空部隊として参戦した「アメリカ合衆国義勇軍」の事をフライングタイガースと称していた。

この軍戦没者慰霊祭に参列している一人の年老いた東洋系婦人がいた。

元軍人集団の中心にいるこの老婦人はフライングタイガースの創設者シェンノート元少将の未亡人、陳香梅であった。

時は遡り今から16年前の1989年。

あるアメリカの航空貨物会社が消滅した。

航空貨物会社「フライングタイガース」が世界最大のアメリカ航空貨物社「フェデックス」に吸収されたのだ。

この会社は大戦終了の年1945年に設立の44年の歴史を誇っていた。
しかしその社名の由来は終戦の年から更に八年時代をさかのぼり故シェンノート少将に行き当たる。

この航空貨物会社「フライングタイガース」の名前は1937年誕生のアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)に由来していた。

日本では天空を駆ける想像上の生き物として「天馬」がある。

だが中国には飛竜が一般的だが、空を飛ぶ虎は無敵であるという故事から「飛虎」という想像上の無敵の動物を敬う。

中国を愛したシェンノートはこの中国の故事に因んでフライングタイガースという名の航空義勇軍を創設した。

因みに写真で見るフライングタイガース戦闘機は頭部に歯をむき出して大口を開けているサメの絵が描かれている。

戦闘機の体形上虎よりサメの方が描きやすかったのだろうが、フライングシャークス、「飛鮫」では大陸国家中国の空を雄飛するには格好がつかない。

その代わり乗務員は翼の生えた虎のマークの入ったエンブレムを背中に貼り付けていたようだ。

フライングタイガースを創設した故シェンノート少将。

アーリントン墓地ではその夫人が約400名の退役軍人にエスコートされ、
「中国人の誰もが知っているアメリカ軍将軍」として今でも中国人に愛されている故シェンノート少将といったいどんな人物なのか。

シェンノートは1893年9月6日テキサス州に生まれた。
1937年7月、中日戦争が全面戦争に突入すると、シェンノート大佐は昆明に航空学校を設立して、積極的に中国空軍の対日作戦を支援した。

大佐はパイロットの養成だけでなく、自ら戦闘機に操縦し戦闘にも参加している。

日米戦争が勃発すると、アメリカ政府は積極的に中国を支援する方針を採った。

1942年7月、航空志願部隊は第10航空隊中国特別派遣部隊に編入され、准将に昇進したシェンノート氏がそのまま指揮に当った。

1943年3月、部隊はアメリカ陸軍航空隊第14航空隊に再編入され、シェンノート氏は少将に昇進する。

1941年7月に組織されたアメリカ志願部隊は23戦闘機大隊から第14航空隊に編入されるまで、シェンノート氏は一貫して志願部隊の指揮を執り、自身も退役将校から少将にまで昇進した。

シェンノートン少将の中国に対する思いは深く、中国人を夫人にし、昆明に家を建てて、生涯を中国で過ごすことを希望していた。

1945年7月、日中戦争勝利を目前に、シェンノート少将は8年間暮らした中国を離れ、アメリカに帰国した。

このとき、中国人の群集がシェンノート少将を見送りに集まっている。
人々は彼の乗用車を取り囲み、まるで駕篭を担ぐように乗用車を担ぎ上げ、数時間かけて中心広場まで運んだという。
広場のひな壇はフライングタイガースのエンブレムで飾られ、花束でアーチが築かれていた。
別れを惜しんで握手を求める人々の長蛇の列にシェンノート少将は、感激の涙を流した。

この情景はマッカーサーがに離日した時の日本人のマッカーサーに対する惜別の表現を髣髴とさせるものがある。

・・・・・で、そのフライングタイガースが一体どうしたのかって?

今までの話は単なる前書きであって本題は今から始まる。

日本人には馴染みの薄いシェンノートというアメリカ軍人がアメリカ人による「義勇航空隊フライングタイガース」を中国に創設した1937年という年度に注目して欲しい。

その年シェノートが義勇軍を創設して数ヵ月後に事実上の日中戦争の開始とも言うべき盧溝橋事件が起きている。

そのころの中国大陸は蒋介石率いる国民政府、毛沢東率いる共産政府が分裂し各地で内戦が行われていた。その間を掻い潜るように日本軍が右往左往していた。

シェンノートは中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。

当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。

着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中国空軍内を視察してまわった。

そしてそれまで爆撃機を主軸に活動していた中国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。

この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、承認された。

アメリカは当時中立政策をとっていたため表面だって中国を支援する事は国民の支持を得にくかった。

「リメンバーパールハーバー」より遡ること四年前の事である。

つまりアメリカは「真珠湾の卑劣な攻撃(sneak attack)」の実に4年も前から日本と交戦していたのである。

歴史に「もし」は許されない。

だが密かに計画されていた「1941年9月下旬のロッキード・ハドソン長距離爆撃機による東京、大阪の空爆計画」が実行されていたら

「東京空爆を忘れるな!」(リメンバー;・東京)

が日本の合言葉になっていただろう。

これ嘘のような本当の話。

1958年7月27日、シェンノート少将はアメリカで死去したが、中国系アメリカ人の陳香梅夫人は今も健在である。

                        ◇

「フライングタイガーズ」のパイロットは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によって、当時の新米パイロットの5倍相当に当たる月給600ドルと日本軍機1機撃墜ごとに500ドルという破格の報酬で、全米各基地から集められた。全員は農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビルマに集結。蒋介石政権が米国に借金する形で資金を負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた」
(読売新聞1991年7月8日)

 

驚くべきことに、フライングタイガーズが東京や大阪の奇襲攻撃を計画していた

作戦には350機のカーチス戦闘機と150機のロッキード・ハドソン長距離爆撃機が参加の予定で、うまくいけば(1941年)9月下旬には東京や大阪に大量の焼夷弾をばらまいて木と紙の日本の家屋を焼き尽くすはずだった。だが、「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地には10月下旬になっても肝心の爆撃機は到着しなかったのである。(中略)需要の多い爆撃機はその年の暮れになっても届かず、41年12月7日の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、中国大陸を経由した日本爆撃そのものがほごにされ、計画はやみに葬られた
(産経新聞2000年7月15日)


◆本稿は下記タイトル「飛虎」で今年1月7日、プライベイト・サイト「マックス」に掲載したものに一部加筆した記事の転載です。 

【Date:  2006年1月7日(土) 午前9時44分】
【Subject:  飛虎】

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