たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

刀と鏡

2016-06-15 10:30:12 | 東日本・三陸の神社

<香取神宮 かとりじんぐう>

 

鹿島神宮が布都御魂剣を模倣した直刀を所有するように、

香取神宮にも「海獣葡萄鏡(国宝)」という名の神鏡が伝わります。

本来であれば、刀剣の神そのものを祀る香取神宮に、

刀のご神体があるほうが自然ですが、どういった経緯か、

直刀は鹿島神宮の所有となり、香取神宮には鏡が置かれました。

 

古くから香取神宮の周辺は、下総物部氏の一大拠点でして、

もともとは香取神宮も物部氏が管理していたのでしょう。

鏡というのは、言わずと知れた天照太御神の象徴であり、

鏡をご神体と仰ぐことは「朝廷への帰順」を意味する面があります。

伊勢の内宮・外宮と同じようにこの地でも、

土着の神と朝廷の神との入れ替えが行われたかもしれません。


関東の国譲り

2016-06-14 10:24:47 | 東日本・三陸の神社

<香取神宮 かとりじんぐう>

 

香取神宮の「カトリ」という名称は、

水軍を意味する 「カジトリ」が転嫁したものだそうです。

また、香取神宮でお祀りされている

経津主大神(ふつぬしのおおかみ)の「フツ」は、

刀剣でモノを切るときの音なのだとか。

同じ「フツ」の神をお祀りする石上神宮(物部氏)と、

こちらの香取神宮には、浅からぬ結びつきがあります。

 

実は、鹿島神宮のご祭神である建御雷之男神は、

「後から記紀に加えられた神」であり、

もともと国譲りの物語の中には、

経津主大神しか登場しませんでした。

土地の伝承を記した常陸国風土記にも、

鹿島神宮に祀られている神様が、

建御雷之男神だという記述はないのだそうです。

 

出雲で国譲りが行われたあと、

遠く離れた関東のこの地においても、

物部氏から藤原氏への国譲りがあったのでしょう。

物部氏のご神体である

布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)を模倣したのも、

藤原氏が物部氏の神を引き継いだ(乗っ取った)ことを、

世間に知らしめるためだったのかもしれません。


香取神宮

2016-06-13 11:11:00 | 東日本・三陸の神社

<香取神宮 かとりじんぐう>

 

鹿島神宮と密接なつながりを持つ香取神宮は、

建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)

とともに神話の国譲りの際に活躍した、

経津主大神(ふつぬしのおおかみ)

という神様をお祀りしています。

 

この神様は、建御雷之男神が所有していた

剣の神霊であるともいわれていますが、

同じ布都御魂を祀る石上神宮との所縁から、

もともと経津主大神は、中臣氏(藤原氏)ではなく、

物部氏のご祭神だったようです。

 

中臣氏(藤原氏)と物部氏といいますと、

ともに神剣に関わるユダヤの一族であり、

古代より何かと因縁深い間柄です。

両者との結びつきが強い香取神宮にも、

イスラエルの痕跡が存在していると聞きます。


剣を守る家系

2016-06-12 11:08:50 | 東日本・三陸の神社

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

代々鹿島神宮の祭祀を取り仕切ってきた中臣氏(藤原氏)は、

「剣」に縁のあるユダヤ系の部族だという説があります。

同じ剣を守護神とする物部氏とともに、

古代イスラエルの時代より、天皇から「神剣」の所有を認められ、

日本へと渡ってきた後もやはり、「剣」をお守りしてきた家系なのだとか…。

 

剣を象徴とするスサノオや日本武尊の神話が、

全国のあちらこちらに散らばっているように、

日本には「剣」に関する伝承がたくさん残されています。

各地に点在する剣の謎と、ユダヤ人の痕跡、

そして「ある場所」に置かれた草薙剣の存在が明かされたとき、

日本という国が本当の意味で力を取り戻すのかもしれません。


中臣氏(藤原氏)

2016-06-11 11:02:55 | 東日本・三陸の神社

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

鹿島・香取神宮がお祀りしているのは、

日本神話の国譲りの件の中で、

天照太御神の命により地上へと派遣された、

「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」と

「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)*日本書紀のみ」です。

 

現在、石上神宮に安置されている

布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)と呼ばれる神剣は、

国譲りの際に建御雷之男神が使用したもので、

熊野山中で神武天皇の危機を救った剣としても知られています。

* その後製造された二代目の神剣が、国宝として鹿島神宮の宝物館に。

 

そのような剣の伝承が元となり、 「武道の神」「戦勝の神」として、

全国的な信仰を集めている鹿島神宮ですが、

実は、この神社の祭祀権を握っていた、中臣氏(藤原氏)という一族は、

イスラエルから来た渡来人だという説があるのですね。


国の一大事

2016-06-10 10:59:39 | 東日本・三陸の神社

 

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

鹿島神宮の職員の方の話によると、

東日本大震災の大きな揺れにより、

本殿の建物は激しく鳴動し、

約240キロもある屋根の千木が、

振動で外れてズレ落ちたそうです。

 

言うまでもなく千木の落下など、

前代未聞の不吉な出来事ですから、

古くから伝わる規定に則り、

速やかに宮内庁に報告したのだとか。

 

宮内庁というのはつまり昔の朝廷です。

時代が変わっても鹿島神宮の異変は、

国の一大事として扱われているのですね。

 

ちなみにその後、千木の修理が終わり、

千木を屋根に戻すご神事をしている最中、

突然あたり一帯に雷鳴がとどろき、

周囲が騒然となったと聞きました。

 

言うまでもなく鹿島の神は、

建御「雷」之男神という、

「雷」を意味する神様で、

雷は人間に対する浄化作用であり、

強い警告の意味が含まれています。

 

「事はじめの地」でもある鹿島の異変を、

私たち日本人はどう受け止めればよいのか、

もうすぐその答えが出るのかもしれません。


事はじめの地

2016-06-09 10:54:03 | 東日本・三陸の神社

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

旅行や旅立ちを意味する

「鹿島立ち」という言葉があります。

太陽が昇る最東端に位置する鹿島は、

昔から「事はじめの地」とも呼ばれ、

遠方に向かう旅人などが、鹿島の神に、

道中の無事を祈願する習わしがありました。

 

ちなみに、東日本震災が発生した際、

三陸沖で生じたプレートの亀裂が、

鹿島灘や銚子沖のほうにまで達していたら、

首都圏は壊滅的な状況だったといわれています。

また、鹿島灘周辺では、大震災が発生する直前、

海岸に大量のクジラが打ち上げられるなど、

生き物たちの異変も続いていたそうです。

 

つまり、鹿島神宮のあたりというのは、

地震や津波を感知する場所であると同時に、

首都災害の始まりを示す地でもあるのですね。

今、この土地に鎮まる「鹿島の神」は、

事はじめの地にあたるこの場所の異変を通じて、

私たちに何か大切なことを

伝えようとしているのかもしれません。


水神の役目

2016-06-08 10:35:24 | 自然災害・参拝マナー

<利根川 とねがわ>

 

古代、鹿島の周辺は、その名が示す通り、

周囲を水に囲まれた「島」であり、

建御雷之男神が主祭神となる前は、

土着の「水神」をお祀りしていたそうです。

東日本大震災で発生した大津波が、

鹿島灘沿岸にも大きな被害を及ぼしたように、

昔から水害の多い土地でもあったのでしょう。

 

海沿いの神社というのは、

豊漁や船の安全を願うだけでなく、

津波や大潮・河口の氾濫など、

水害への警戒を怠らないための、

重要なランドマークでもあります。

震災により被災した東北沿岸の神社も、

人間側の都合で低地に移転した建物の多くが、

津波の被害で流されたり消失したりしたと聞きました。


怨霊封じの神社

2016-06-07 10:32:01 | 東日本・三陸の神社

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

境内入り口の鳥居や本殿、そしてご神体の向き等が、

通常の神社とは異なる鹿島神宮の構造は、

出雲大社の配置と非常によく似ているそうです。

出雲といえば言わずと知れた国譲りの舞台であり、

出雲大社は「怨霊封じの神社」ともいわれていますが、

実は鹿島神宮にも、怨霊鎮めの側面が多々見受けられます。

 

もともとこの地に祀られていたのは、

東北の蝦夷にも通じる土着の神(国津神)でした。

本来は、御手洗池にあるお茶屋のあたりから参道が伸び、

池で禊をしたあと「奥宮」を詣でるルートが一般的だったとか。

その後、鹿島の支配権を得た朝廷側が、

新たに本殿や鳥居や参道を整備したため、

現在の不思議な構造の境内が出来上がったと聞きます。

 

鹿島神宮が担っていたのは、

諏訪の神を監視する役目だけでなく、

古くからこの地を収めていた土着の神、

そしてその先に控える東北の蝦夷に対し、

無言の圧力かけることでもあったのでしょう。


国津神への目配せ

2016-06-06 10:29:01 | 東日本・三陸の神社

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

鹿島という地域は、蝦夷の勢力圏との境目に位置し、

古くから港町として発展した港湾の要所でした。

ただ、都から見ればやはり東の果ての僻地にすぎず、

「野蛮な民が住む土地」との印象も強かったようです。

ではなぜそのような場所に、神社を創建したのかといえば、

それは鹿島という特殊な立地を、

朝廷側が戦略的に利用しようとしたからなのでしょう。

 

北緯36度付近に位置する 鹿島神宮から、

真西に向かって36度線をたどっていくと、

そこには諏訪大社のご神体・守屋山があり、

さらにその先には白山系の主要神社が点在します。

白山系の神社に祀られている神様は、

全国各地の国津神を統括する地祇の親玉です。

 

日本を収めるにあたり神武天皇は、

もともとこの国を統治していた

白山神の許しを得なければなりませんでした。

日本建国の悲願を成し遂げた最後の締めに、

東の果ての36度線上に鹿島神宮を造り、

国津神への目配せの拠点としたのかもしれません。


神の計らい

2016-06-05 10:13:34 | 東日本・三陸の神社

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

鹿島神宮を参拝した折、職員の方に、

東日本大震災のときの状況を聞きました。

その中で印象的だったお話のひとつが、

「鹿島灘に諏訪神社のお札が流れついた」という内容です。

* 当時は新聞などにも掲載され話題になりました

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大震災から一か月たったある日、

近くの海辺で「諏訪大明神祈祷神靈」

と書かれた大きな木札が見つかったそうです。

近所の人から連絡を受けた鹿島神宮は、

しばらくの間そのお札を引き取り、

お祀りをしながら所有者を探していましたが、

被災した神社があまりにも多く、

その作業は難航していたのだとか。

 

その後、元宮である長野の諏訪大社へ、

お札を預けることが決まり、

東京でお札の引き渡しをしたあと、

神社間の連絡を通じて様々な奇遇が重なり、

そのお札が陸前高田市今泉の諏訪神社の

所有であることがわかりました。

* ただ残念ながら、神社は高台の本殿を残し、

斎館や社務所などの建物がすべて流され、

宮司さんも亡くなられていたとのことです。

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鹿島神宮から帰宅後、調べてみたところ、

諏訪神社へのつなぎ役を果たしたのは、

白山(スサノオ)系神社の関係者のようでした。

鹿島(天津神)と諏訪(国津神)

との縁を取り次いだスサノオの神…。

すべては神の計らいだと想像すると、

日本という国の奇跡にただただ驚くばかりです。


不思議な構造

2016-06-04 10:06:43 | 東日本・三陸の神社

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

鹿島神宮というのは、実に不思議な造りの神社でして、

境内入り口にある大鳥居は西向き、ご本殿は北向き、

そして本殿にあるご神体は東を向いているそうです。

一般的に神社の建物はほとんどが南面構造で、

北向きのご本殿など滅多に見られないもの。

実際に大鳥居をくぐり、朱塗りの楼門の抜け、

まっすぐに歩いていきますと、

参道と平行するようにあらわれる

ご本殿の違和感に少々面喰います。

 

実は西向きに設けられた大鳥居の先を、

200km先までずっとたどった先には、

諏訪大社のご神体である守屋山があります。

一説によりますと、国譲りの際に諏訪の地に幽閉した、

建御名方神(たけみなかたのかみ)に対し、

鹿島の神がにらみを利かせているからなのだとか。

そして数千年後、鹿島と諏訪の古い古い因縁は、

東日本大震災をきっかけに再現されるのです。

 

【参考資料】

レイラインハンティングHP


東を守る地

2016-06-03 10:04:12 | 東日本・三陸の神社

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

鹿島・香取神宮が置かれた場所というのは、

これから起こり得る災害を抑えるための、

「東の守りを司る地」ではないかと思います。

遠い昔に首都が東京に移ることを予感した神人が、

この地にも都と同等の神を招き、

未来の都の繁栄を支えるための

陰の仕掛けを施したのかもしれません。

 

ちなみに「かしま」という名称は、

「水」や「水神信仰」に深く関係するといわれており、

境内の御手洗池からは清らかな湧水が流れ出ています。

2011年には「津波」、2015年には「洪水」という、

二つの大きな水の災いがこの付近一帯を襲いましたが、

どちらも間一髪のところで、

首都への被害を食い止めているのも不思議な事実です。


この時代のために

2016-06-02 10:01:27 | 東日本・三陸の神社

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

歴史的な資料がたくさん残り、

専門家の分析も進んでいる西日本に比べ、

東日本の古代史は少々謎に包まれています。

近年の研究により、古代の東日本には、

奈良をはじめとする西日本に負けないほど、

豊かな文化圏が存在していたことが判明しましたが、

こうして記事を書いておりましても、

東日本の神社に関する資料は非常に少なく、

毎回頭を悩ませながら文章を書き進めているのが実情です。

 

古くは「神宮」という特別な名を社名に冠し、

伊勢神宮と並ぶほどの格式を持っていた、

鹿島・香取神宮という場所も、

あれだけの長い歴史と文化財を所有しながら、

全国的な注目度は低いと言わざるを得ません。

今回鹿島・香取神宮を訪れて思ったのは、

「今この時代のために」二つの神宮が、

置かれたのではないかということ。

今後はいろいろな意味で、この地域に起きる出来事が、

日本中の人々から注目されていくのでしょう。


ナマズの警告

2016-06-01 10:57:29 | 東日本・三陸の神社

<鹿島神宮 かしまじんぐう>

 

先月、二回にわたる震度7の地震が発生した熊本地方は、

日本列島を横断する「中央構造線」の西の端に位置します。

そして中央構造線の東の末端にあたるのが、

鹿島・香取神宮のある地域でして、両宮にあるふたつの要石は、

中央構造線の動きを抑える役目をしているという話もあります。

 

熊本地震の発生後ネット上では、次の大地震への予測が広がり、

「5月16日が危ない」という噂がまことしやかに流れました。

そして当日起きたのは、茨城県を震源とする震度5弱の地震。

噂されていたような海溝型の大地震ではなかったものの、

一か月前に起きた熊本地震との関連などから、

中央構造線への注目度も高まりつつあります。

 

東日本大震災、そして熊本大地震の発生により、

鹿島神宮の付近が動いているということは、

この地域が来るべく次の地震に向けて、

活動を活発化しているということです。

鹿島神宮の参道で感じた息苦しいほどの「熱」は、

もしかするとナマズの発する警告なのかもしれませんね。