治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

保護者の問題に真正面から向き合う

2011-07-22 06:32:00 | 日記
私が杉山先生の新刊「発達障害のいま」を「フェア」だと思ったのは
次のような問題が真正面から取り上げられていたからです。

・遺伝
・虐待
・触法事例
・トラウマ
・親の精神疾患
・発達障害の予防

少し前なら、専門家があえて語らなかったことが
きちんと語られるようになっているんだなあと思いました。

上記のトピックが、臨床経験豊富な専門家によって明るみに出ることが
面白くない人もいるかもしれません。
でも大本営発表では一般社会との共存なんか進みません。
そして支援者ではなく一般社会の入り口に立っている私としては
こういう情報開示は大歓迎なのですね。
大本営発表を誰にも利することがないと思って見てきましたからね。当事者も、一般社会も。

先日読者の方にこんなメッセージをいただきました。

=====

親の精神疾患の高さ・・・これは親の会に属し活動してきた人なら絶対思い当たると思います。
 どんな根も葉もないことや、白を黒と言ったとか 事実無根の噂や言われてても我慢するしかなかった。
 だけど明らか法律違反や人の人権を侵害したら、障害児の親御さんだとしたって訴えられるし、自分のしたことの責任は取らなければいけない・・。そこを今引かずにちゃんと示してくださってる浅見さんに出会って、この部分の啓発も絶対大事だと思うようになりました。
 
=====
 
 そうそう。
 
 整理してみましょう。
 
 そらパパこと藤居学が独自の解釈をして「ぼく、アスペルガーかもしれない。」という本について大騒ぎした。
 編集方針が気に入らなかったらしい。一ページ目の
 
「自閉症って恥ずかしいの?」
「自閉症は恥ずかしくないよ」
「大地、自閉症は恥ずかしくないよ。恥ずかしいのは大人になっても自分でご飯が食べられないことだ」

 というのに深く傷ついて大騒ぎ。
 
 私は数ヶ月放っておきました。
 私にとっては、大地君一家との最初の出会いのときに交わされたこの会話が「この本を出そう」という決定打になったから。
 出すときから、当事者の努力を描いたこの本はある種の人々の反発を買うだろうなと思っていました。
 けれども山岸との裁判を抱えていた当時の私にとって、自閉症の世界に渦巻く「ありのままでいいんだよ」はウソくさかった。
 一般人の権利を侵犯しても、ありのままでいい。
 そのまんま、一般社会との共存をはかるつもりなんですかね?
 何度も繰り返しますが、私はこの問題に関し、山岸だけではなく彼を放置した主治医を始めとする支援の世界全体に憤りを感じています。
 
 つまりこの世界では「ありのままでいいんだよ」と言ってほしい人が多いっていうこと。
 それは知っていたので、「ぼくアス」のコンセプトに反発を感じる人がいるのは想定していました。
 一方で支持してくれる人がいるだろうとも想定していました。宇開先生や長沼先生が気に入ってくださったのは「そうだろうなあ」と納得しましたね。
 
「そらまめ式」のHPはあまり見ていなかったけど、ニキさんが時々「本をほめててもけなしていても的をはずしている人がいる」といっていたので、ああ、そういうHPがあるんだなあという認識しかありませんでした。

 で、あの大騒ぎを放っておきましたね、数ヶ月。
 別に誤読は想定内だし、主観的に解釈されるのは当たり前ですよ。
 でも私が「こいつカンチガイしているんじゃ?」と思った違和感は、
 のちに2010年11月1日に私が藤居の代理人に送った文書の中のこのフレーズに集約されていると思います。
 
 再掲します。
 
=====

藤居学はそのブログの中で「自閉っ子シリーズのあるべき方向性」などを勝手に論じているようですが(「自閉っ子的 心身安定生活!」へのレビュー等の中で)、藤居は数万の読者の一人に過ぎず、私に意見し、答えを求める立場にはありません。
 
 同じように最近も「次の著書の中で自分に答えてくれる」という誇大妄想を抱いていることがブログから読み取れますが、私は藤居に答えるために出版活動をしているわけではありません。
 
 障害のある方に自分なりに寄与していくつもりで出版活動を続けますが、一冊一冊藤居への回答にするつもりはありません。
 
 ブログにしても、不特定多数の閲覧者に向けて書いているものであり、藤居を想定してはいません。それを勝手に自分への答えと受け取るのは思い上がり以外の何ものでもありません。
 
=====

 そう、当時は「自分がこれほど疑問をぶつけているのだから応えてくれるはず」という誇大妄想的な思い込みがどこから来るかさっぱりわからず、不快に思いながら放っておいたのですが、その後、藤居が「ぼくアス」を解釈したのと同じような誤読でどんどん私に関する当たらないデマを繰り広げていき、最終的には「自閉っ子と未来への希望」に書いたような人格攻撃・悪辣なデマをついったー上で書くようになりました。

そして決定的だったのが「大大大博士祭り」。
まだ生まれてもいない本に憶測でネガティブキャンペーンをやって、そこに匿名医師として悪乗りしたのが名大病院の吉川徹です。
吉川も寄稿している「現代のエスプリ」の編者石川元先生は神田橋先生を「師匠」と呼んでおられる。
吉川も神田橋先生がまっとうな医師だとわかっていたはずなのに、素人の藤居やベムの悪意に満ちた誤った解釈にのっかって大騒ぎ。
神田橋先生の手法に疑問があるのなら、医師同士直接質問すればいいでしょう。石川先生ともつながりがあるんだし。
それをネット上でちくちく私にパワハラ。
匿名だからやれたんでしょうね。

山岸のように10年放っておいてはいけないな、と思っていましたから、まず提訴なり告訴なりするときの送達先をとりあえず確保しておかなくては、ということで、版元であるぶどう社に連絡しました。

立場が逆だったとしましょう。
たとえばうちの著者が、誰かを誹謗中傷している。
「人気ブログを本にしました」といううたい文句で出した、まさにそのブログで誰かを誹謗中傷している。
その結果その相手が「情報を開示してほしい。ただ個人情報の保護義務が版元にはあるから、もし不可な場合は開示請求の仮処分手続きをとります」といわれたら

私なら「はいわかりました」と電話を切って、まず当該著者に「開示していい? 面倒くさいことに巻き込まれたくないんだけど」と訊きます。
「いいですよ」と言われたら連絡先を渡し、あとは直接やってもらう。
拒否されたら「だめだそうです」と言って仮処分手続きの通達が裁判所から来るのを待つ。
それだけのこと。開示請求を法廷に持ち込むということは、法治国家の正当な手続きであって、脅しでもなんでもありません。
たしかに訴え起こされたらめんどくさいですよ。でも経営者である以上そういう場面にだって出会うことはありますよね。

でもそれを藤居は脅しだととって大騒ぎして、代理人をつけた。
代理人、すなわち送達先さえ確保すれば、こちらとしてはいつでもアクション起こせますが、自らそういう状態にしてくれました。住所がわからなくて興信所使おうと思っていたとき、山岸は向こうからおかしな内容証明を送ってきてくれた。
藤居は自分で代理人つけてくれた。
この人たちは墓穴を掘るんですね。ていうかこれが私の悪運の強さってやつかな、いつもの。

だからね、正当な法的手続きを「脅しだ」と騒ぎ立てること自体私に対する人格攻撃だし
○○○が足りないんですよ。

ところがこのバカさ加減を共有する人物がもう一人。
ベムです。

やはり単なる開示請求を脅しだと騒ぎ立てた。
彼によると訴訟を起こすよ、っていうのは脅迫らしい。
そんな感覚でよくビジネスの社会でやってけてるもんです。

まあともかく、ベムはアンチ花風社活動に熱心に取り組み、私の講演の主催者に迷惑メールを送ったらしく
それを私が警察に話して、警察が主催者に任意で提出を求め、それを主催者が警察に見せると
「訴えるぞ!」と主催者に息巻いてきたらしい。

私は警察からそれを聴き、主催者の方に電話して確認しました。
ちゃんと確認しました。

そもそも「訴えるよ」というのが脅迫というのがベムの解釈ならば
ベムは主催者を脅迫しようと思ったっていうこと?

それとも版元が別の版元や障害児の親を訴えるというのは脅迫だけど
障害児の親が支援センターを訴えるというのは脅迫じゃないわけ?

障害児の親ってそんなにエラいわけ?

ところがベムは、今度は主催者が私にウソをついているみたいなことを匂わせたりして。
そうなんですよ。この世界ではたびたびこういうことが起きるんです。
支援を仕事にしている人たちに、食ってかかるんですよね。
私はきちんと確認しましたから。警察だって確認しています。
支援者はこれだけのことされても耐えます。でもそうやって耐えることが、私は必ずしもいいとは思わない。
私は反撃します。支援者じゃないからね。

要するに、障害児の親という立場に甘えているんだろうなと思いました。

でもね、杉山先生の本を読んでそうじゃないことがわかったんです。
甘えじゃないんだと。

脳汁の問題なんでしょう。まっとうな判断ができないのは。

長沼先生と本を作ってもわかったことがあります。
脳の部位で、入ってくる情報に恐怖の意味づけをするところがある。
そこが過活性だと、恐怖でもなんでもないことが脅しに受け取れるんですね。

私がやっていることを「脅し」だと取る人もいれば「誰かがやらなくてはいけないことです。応援しています」と言ってくれる人もいる。
恐怖の意味づけの箇所が健全かどうかなのでしょう。

多くの支援者が訴訟保険に入っているのを知っていますか?
保護者にいちゃもんつけられることが多いからですね。
そういうリスクを覚悟しているんですね、この世界の支援者の方々は。

杉山先生は「発達障害のいま」でこう語っておられます。
第九章 未診断の発達障害、発達凸凹への対処法
「クレーマーへの対処法」という小見出しのあとP235から抜粋します。

「学校の側が保護者を訴えた裁判があったが、筆者はこのような裁判はどんどんやるべきだと思う。保護者であれば何を言ってもよいということではないし、学校と保護者とが協力をしあって云々といった情緒的かつ相互的な交流が成立しない基盤がクレーマーの側にもあるからこそ、問題がこじれるのである。
 もちろん学校側も、発達凸凹への柔軟な配慮が必要であることはこれまでにも述べてきたが、この点に問題があることと、クレーマーの問題とはまったく別ものである」
 
 こういうのが「フェア」だと思うのですね。
 そして「フェア」の向こうにしか、共存はないと私は考えています。
 
 藤居はブログにインチキをずっと載せています。
 私にしてみれば、それは被害がずっと続いている状況なので、ずっとこちらからも反撃はするつもりです。
 
 新刊を出すたびに、ご注文と一緒にこの問題についても応援メッセージをいただくんですけど
 それはなぜかというと、同じように発達障害のお子さんを抱えていてももちろん脳汁の健全な人はいて
 そういう人は地域や親の会で、同じような親仲間に苦労しているからというのが一因のようです。
 講演に行った先でも、主催団体のトップにいるような人たちは、健全な方たちです。
  
 どっちが多数派なのか少数派なのかわかりません。
 ただ私は、障害者原理主義者の人たちが喜ぶような本を作らなきゃこの世界で生き残れないのなら、別に発達障害の世界を去ったってかまわないと思っていますから。
「自閉っ子と未来への希望」の最後にこう書きましたね。

「決めるのは、社会です。」

 社会が何を決めるのか?
 興味があったら読んでみてください。
 
 あ、それといつも「心ない集団攻撃を見て、心を痛めています」というメッセージをくださる方々。
 
 安心してください。こちらから藤居を反撃しても、その他の連中は音なしになりました。
 また新たな連中が出てきても、これまでと同じようにすればいいだけです。
 
 山岸は反省しているそうです。取調べでそう語ったそうです。
 私は信じていません。検察でそう話してきました。
 
 某国立大学病院の方から聞いた話によると、国立大学のネットワークみたいなので、匿名でのネット活動に注意せよというお達しが回ってきたそうです。
 そのせいかどうか知りませんが、一時期このブログが一日20万アクセスを記録しました。
 別にアクセスは気にしていないですが、新刊のためにはよかったかもしれません。
 
 そのせいかどうか知りませんが、もう吉川も絡んできません。
 
 さあ、今日も一日頑張って働こうっと。
 保護者の方に取材に行ってきます。そして帰ってお相撲を見ます。
 
 私が今取材したいのはこれです。
 知的障害がない・軽いASDのお子さんの保護者が特別支援教育に求めるものは何か?
 
 それをこれから何人かの方に会って取材させていただきたいと思っています。

 いってきます!


仲良し対談

2011-07-21 07:02:11 | 日記
さて、白くま母さんや北海道の学校の先生たちが9月、
長沼先生を囲んでお勉強会をするという。

テーマは
「発達デコボコな人たちの脳みそ・身体・未来」

何それ? と思って趣旨を聞いてみると
こんな趣意書を送ってくれた。

 発達に凸凹のある人たちは、たとえ知的障害がなくても二次障害を起こしやすい。頑張れない。社会の中では孤立する…そんな話を聞きますが、果たしてそうなのでしょうか。全国的にみると、重い知的障害を持ち言葉のない人でも就労している人がいます。アスペルガーや高機能の自閉症と診断されても、社会の中で役割を担う一人として活躍している人がいます。どこにそんな違いがあるのでしょうか。誰もが目指せる道だから特別支援教育が始まったはずです。どの子にも未来があり、それは希望に満ち溢れていると考えています。
 発達障害と診断されたわが子を…自分自身をどのように理解し、支援し、療育していけばいいのでしょうか。発達障害児者にはどんな未来が待っているのでしょうか。


なるほど。
これは有意義。
「自閉っ子の未来は消化試合ではない」というかねてからの私の主張的にもど真ん中。
よかったら手弁当でかけつけましょうかね、と思って

おまけに私の中でむくむくと
ある大物ゲストに声をかけたい気持ちが出てきてしまいました。

忙しそうだけど。

だめもとで声をかけてみたら

とりあえず仕事のペースを見て決めていい? といわれて、どうぞどうぞと言って

数日前、「行きます」というお返事をいただきました。

ニキさんです。

長沼先生の本が面白かったようだし
久しぶりに会いたい気持ちもあったようです。

というわけで

9月19日、札幌にて
長沼先生とニキさんの仲良し対談が実現します。

あんまりオタク方面に話が走っても皆さんが「ほえ?」となってしまうかもしれないので
僭越ながら一応私がMCさせていただきます。

申し込み方法とか、決まったらお知らせしますね。
お楽しみに!

どうして私はまだ引退していないのか

2011-07-20 07:40:00 | 日記
相撲部のお通夜のような夜が明けた。
大関魁皇の引退。
ある意味で、朝青龍のときより衝撃が大きかったかもしれない。

稀勢の里原理主義者(by 画伯)と呼ばれる私にもこれは応えた。

で、ふと思った。

いいなあ、引退。

ていうか私はどうしてまだ引退していないんだっけ。発達障害の世界から。

2009年の時点で引退するはずだったのに。

そうだ、引退しようと思っていたら、神田橋先生の企画がきてしまったのだった。

あれがなかったらとっくにやめていただろうに。
「これは出さなきゃいけない」って思ったんだよな。

それからなんだかするするつながってしまって今に至る。

今私が一番怖くないもの、それはネタ切れ。
いつやめてもいいと思っているから、ネタが切れたら喜んでやめる。

それが切れないんだよな。
全然切れない。
愛読者の皆さんとアンチ花風社の皆さんのおかげで、本を出すたびに話題になり
なんだか仕事がつながっていく。

魁皇の引退を深く悲しむうちに
私の中に「発想の転換」が起きてきた。

いや、この「発想の転換」って、最近の大地君の愛用キーワードでもあるんですけどね。

魁皇が現役を引退するということは
年寄になるということ。

そっちも大事かもしれない。
課題の多い角界改革にとっても。
後進の育成という点においても。

白鵬が帰化して引退後年寄になるかどうかは知らないが(たぶんなるんでしょうね)
まだまだ親方っていう感じじゃない。

何しろ出稽古に行ってリベンジするくらい血気盛んだからな。

稀勢の里が引退する姿もまだ全然想像できない。

未完の大器だからね。
未完で終わるかもしれないけど、大器であることはたしか。

でも魁皇が親方になる姿はあっさり想像できる。
きっといい親方になるでしょう。遅咲きで、しかも怪我が多かった分。

そこで気がついた。

私が引退できないのは

きっとまだじゅうぶん枯れてないからですね。

引退するにはまだ修行が足りないようです。
だからまだ企画がきちゃうんでしょう。

陳列業

2011-07-19 06:20:00 | 日記
さて、昨日は十両が始まるまでお相撲を見るのも忘れて本を読んでましたよ。

これ。



「現代のエスプリ」で石川元先生の文章に衝撃を受けました。
石川先生は、神田橋先生のことを「師匠」と書いていらしたので、何かつながりがあるのかなと思いました。
そういえば、石川先生からは
版元経由で去年献本をいただいますし。

石川先生のお書きになったものをもっと読みたいと思って上の本を取り寄せました。

巻末の石川元先生、十一元三先生、加藤敏先生、田中康雄先生の鼎談とか

藤川洋子先生のアスペルガーと性犯罪のお話とか

長崎の少年による殺人事件に関する村田豊久先生のご意見とか

読み応えのある記事がたくさんありました。

その中で凡庸さで際立っていた記事が一つ。
名大病院吉川徹センセイの記事です。
「アスペルガー症候群 思春期以降の合併症と自殺」

どう凡庸かは吉川のついーととかブログとか読んでいる人にはわかるでしょう。
基本的に陳列業。
どっかから持ってきた情報を並べるだけ。八百屋さんみたいにね。
しかも長沼先生とは違って、それを血肉にした雰囲気がないんだな。

まあ陳列している情報のほとんどが現象に関するもので
治療に関しての姿勢は見事なほど書いてないから、そういう印象を受けるのかもしれませんけど。

でもね、文章は平易でしたよ。
これは一つの利点ですね。おそらく。臨床の現場でね。
説明はうまいセンセイなのでは?

最近愛知県の読者からたびたび「名大病院を選ばなくてよかったです」というメールをいただきますが
治療の腕はともかく、説明は上手なようですよ。
でもまあ、ネット上のあのいやらしい攻撃を見ていたら、とうていかかる気にはなれないと思いますが。

ただね、なかなか面白かったのは
書き方が凡庸なだけにネット上と違って「ななめ」じゃないんですね。
ただひたすら凡庸なだけ。

情報の羅列しかしていないブログに
私との言い合いを並べていたときには「こいつ変態か」と思いましたけど
薄気味悪さを感じたけど
ああいうのは、ふだん我慢している反動で生み出されたネット上の憂さ晴らし人格なのかもしれません。

なかなか興味深かったです。

ただ私は、誰かの憂さ晴らしの犠牲になる気はないよ。
モットーは専守防衛。やられたらきっちりやり返しますから。

今日は結びの一番が白鵬vs稀勢の里。
横綱は自分を二回負かした稀勢の里のもとにわざわざ出稽古に行って脳震盪起こさせたらしい。
激しい人ですね。
でもそれくらい強い気持ちがないと、綱は張れないね。

やられたらやり返せ。
頑張れ稀勢の里!

揺り戻し

2011-07-18 07:37:45 | 日記
さて、「活かそう! 発達障害脳」の配本以降、のんびりしながらも
数ヶ月なかなかできなかったインプットの機会だと思って、色々本は読みましたよ。

発達障害に関係あるものもないものも。

関係あるのは

神田橋先生からいただいたこの本



それと現代のエスプリ



それと杉山先生の新刊「発達障害のいま」とかかな。

あ、Of Mice and Menもまあ、障害関係か。

なんとなく思うのは
発達障害にまつわる論調も「揺り戻し」が起きるんじゃないかなっていうこと。

もちろん元に戻るわけじゃなく
螺旋を描いてどんどん進化していくわけですが。

冷蔵庫マザー等の誤ったラベリングに対抗するため
「生得的な」という面が強調されてきましたが、そしてそれは一定の効果を上げましたが
おそらくこれからは、より環境因がクローズアップされてくるんじゃないでしょうか。
そういう意味での揺り戻し。

それが、現代のエスプリで「発達障害とパーソナリティ障害」の特集につながったり
杉山先生の「予防」という提案につながったり
長沼先生の「いいところを活かす」につながっている気がします。

杉山先生の新刊は、とてもフェアな本でした。
実像を伝える本でした。
大本営発表じゃありませんでした。
読んでうれしかったです。
フェアじゃないと共存なんて無理だからです。

前の本よりはアドバンスコースっていう感じです。
宣伝じゃなく(ていうか私は商売人だから宣伝しても別にいいわけですが、宣伝を度外視しても)
長沼先生との併読がお勧めです。
「これから」がわかります。

神田橋先生の本については
読んで、神田橋先生とlady gaga がかぶりました。
この本は神田橋先生のborn this wayです。

でももちろん白鵬の自伝より魁皇の自伝が面白いのと同じ理屈で
born this way の歌詞より神田橋先生の本のほうが学ぶものが多いです。
自分の特性を見つめ、そこに安住するのではなく磨きに磨いたという意味で。
後輩のお医者様に向けて書かれた本なのでしょうが
誰にでも勉強になる本です。

さて、早起きした甲斐がありましたね。
おめでとう、なでしこJAPAN。

でもこういうときよく出てくる「感動をありがとう」とかそういうの、私実はあんまり好きじゃないです。

今の日本は、誰かから元気をもらわなきゃいけないような状況ではありますが

でもできれば元気は自分で生み出したいですね。

君の想像は当たっている

2011-07-17 10:10:00 | 日記
先日、大地君から三年生の一年の記録が届いた。
これまでもちょこちょこ送ってくれていたのだが
完成を楽しみにしながら「活かそう! 発達障害脳」を作っていた。

実はちょっと前に完成していたそうである。
でも私には送らなかったらしい。
白くま母さんにこう言ったらしい。「浅見さんは今本なんか作んないよ」

「どうして?」と母さんが聞くと
「長沼先生の本は売れているし、お相撲は始まっているし、暑いし、浅見さんは冷房の効いた部屋の中でお相撲見てエビスビール飲んでるよ」

おお、正しい。

想像力の障害があるはずの自閉っ子なのに、ずいぶん想像が当たっているね。

理由は長沼先生の本に書いてあるけどね。

想像力を養うのも○○○。
報酬系を養うのも○○○。

大地君は私に関してじゅうぶんな○○○を持っているのでしょう。
実はこれ、ニキさんもそうよ。あの人は私に関してよく想像が当たるのです。

接点が多ければ想像も当たるようになる。

だからね

引きこもっていては社会性は発達しないのです。

小学校四年生の大地君にここまで見抜かれていたのを反省して
この三連休は発達障害の仕事はしないつもりだったけど
今朝は早起きして杉山先生の新刊を読んでいます。

「ふーん、こっちのほうに進むのか、今後発達障害に関する医療は」っていう感じです。

長沼先生の本を作るとき、ていねいに説明していただいたあとだから、よりいっそうわかる部分があります。
トラウマと発達障害治療とか、そのあたり。あと解離とかもね。
両先生とも、解離性障害の過少診断を指摘しておられますね。
この二冊、一緒に読むと理解が広がりますね。

まあ詳しくはまたレビューするかもしれません。

触らぬ発達障害にたたりなし

2011-07-15 06:20:45 | 日記
「現代のエスプリ」2011年6月号、「発達障害とパーソナリティ障害」読んでます。

で、ショックを受けています。

私はここ数年「発達障害をめぐるマーケティングはゆがんでいる」と思ってきました。
障害の実態を直視せずにきれいごとばかり世間に伝えようとする勢力が強い。
それが結果的に社会との共存を妨げている、と。

この本でも主張してきたけど



発達障害者=天才 というイメージにはわりと安易に飛びつき
診断を望んでもいないセレブを勝手に仲間扱いする一方で

触法のケースに関しては、いったん下した診断を否定したり。
いやあれは統合失調症なんだとか。
あるいは報道規制に走ったり。

で、報道に、あるいは他人の創作活動に、枝葉末節のクレームつけて
「触らぬ発達障害にたたりなし」の雰囲気を作っちゃったり。

みんなの味方(私の味方じゃないけどね)の内山医師でさえ、ドラマの監修をしたときあまりにクレームがたくさんくるので
「もうちょっと寛容になれないものか」なんて書いてたように記憶しているけど

自分たちの目先の利害で頭がいっぱいで
「作り話は作り話だ」って割り切れない。
偏見をもたれるのなら、そういう行動をどうにかするのが偏見の解消につながるのに、それが本来の支援だろうに
作り話や報道にケチつける方向に走る。

変なの。
このままじゃ「触らぬ発達障害にたたりなし」になるぞ(てかもうなってるかも)
と思ってきました。

でも「現代のエスプリ」を読むと
ここに書いてあることを信頼するとすると

この「ゆがみ」はもう何十年も前に始まっていたものなんですね。

最初は「当事者や保護者によかれ」という意図から。

でもそれが今、悪く作用している。

当事者の抱える困難さを解決できなくしている。
だって直視しないんだもの。

それに面と向き合っている先生たちもいるんだなと
そういうことがわかる本です。
何しろ巻頭言が神田橋先生。その次の記事が十一先生だもの。
触法事例もきっちり取り上げているもの。
巻末に村田豊久先生登場だもの。
石川元先生の記事を通して、英米の自閉症観と違う自閉症観が垣間見られて、
そもそも日本が無自覚に受け入れている自閉症観を相対化できるんだもの。
そういう本です。

妙な「啓蒙色」がない本です。
当事者を弱者と一方的に決め付ける視点がない。
だから、リアル。

なんか時代は変わってきてるんだな~
「活かそう! 発達障害脳」と主張する長沼先生の本も出たし、と思ったら

杉山先生の新刊のお知らせが。
今度は発達障害の「予防」がトピックらしい。

発達障害は予防できる、という内容らしい。

杉山先生がこのような本を出されたら
今後色々な先生が思い切った主張をされるようになるかもしれませんね。

面白くなりそうです。

そもそも「現代のエスプリ」みたいな本を作れるのは
一種のアウトサイダー能力だと思いました。

そして最近ある人に
「いつまでもアウトサイダーでいてください」と言われたのを思い出しました。

言われたときにはぴんとこなかったんだけど
ああ、そのほうが面白い仕事できるよな~と思いましたよ。

私自身は考えてみれば、ずっとアウトサイダーでしたね。

それをカンチガイしている人が、私に腹を立てたりするんだろうな
昨日某所で山岸の事件の資料を久しぶりに見て、ふとそんなこと思いました。

山岸は私が支援の世界のどまんなかにいたと決め付けていたんだね。

私は支援者だったことは生まれてこのかた一秒もない。
理解はしようと努めてきた。でもそれは、本物の理解。ダークサイドもふまえた理解ね。

支援者だと思って甘えているから「自閉症者を訴えるような人間である」とか講演の主催者にメールを送っちゃうわけですが

悪いことをすれば訴えられるのはあたりまえ。障害があろうとなかろうと。

こういう山岸をわらえますか?
多くの保護者や当事者、そして支援者が、
この甘えを共有しているんじゃないのかな?

天才説と折り合いがついたワケ

2011-07-13 08:51:37 | 日記
大記録を前にあの魁皇が足踏みをしている。
それを見ていると
苦労のない人生はないな、と思う。

で、唐突に思い出した。
私が長いことうさんくさいと思っていた「発達障害天才説」と
長沼先生とのお仕事を経て、ようやく折り合いがついた、ってことを。

どうしてうさんくさいと思ってきたかは「自閉っ子と未来への希望」にも書いたけど
ゆがんだマーケティングの一端をになっていたような気がしたからだと思う。

でも長沼先生は、脳の発生のメカニズムから
発達障害と天才が重なりうることを説明してくださった。
「活かそう! 発達障害脳」をお読みの方はおわかりでしょう。

でも納得したのはこの説明を受けただけだからじゃない。

今まで発達障害から天才が出現することを説きながら
他のどの先生も言わなかったこと(ていうか、言う必要がないと思っていたのかもしれない)を
長沼先生ははっきりおっしゃったからだ。

それは

いくら才能があっても、それを徹底的に磨かなければ天才的な仕事はなしえない、ということ。

これまではこの当たり前の説明が抜けていた。
だからたとえ努力しなくても、報酬系が育っていなくても
周囲がじゅうぶんな○○○を与えなくてもいいような
おめでたいイメージが振りまかれている気がして、私はずっと天才説をうさんくさいと思ってきたのだろう。

それと、ある分野でその人が才能があるかどうか見極めるのは支援者でも保護者でもない。

実際にその当該マーケットで勝負している人間だ。

わりと支援者の言われることはこの現実感覚を欠いていることがあり
それがイタかった。

たとえばアスペルガーは裁判官に向いていると真顔で語る支援者がいる。
海外にも国内にもいる。

律儀で、暗記力が強くて、みたいな特性が向いているように錯覚を起こすのかな。

でも裁判官って実は
スルー力も相当必要なんじゃないのかしら。
どれだけ主張しても、ウソをウソと見抜く力。
どっち側の主張も全部信じていたら判決なんて出せないでしょ。

そういう現場感覚を度外視して、ただ紋切り型のイメージだけで「ASDにはこの仕事が向いている」とか言い切る支援者を
私は世間知らずとして信用してこなかった。

農場労働者であれ、相撲取りであれ、エンジニアであれ、翻訳家であれ
本当にその子が(ASDのある一人の人間として)向いているかどうかを判断できる人がどこかにいるとすれば
それは支援のプロではなく、「その道」の人間だ。

そこに就労における「支援」というものの限界があったりするね。
この限界を知って、うまく外の世界と連携できる支援者が、本物のプロだろうね。
支援のプロ。
支援者に専門性があるように、他の分野にも専門性があるわけだから。

さて、写真は魁皇の自伝「怪力」。

実は白鵬の自伝「相撲よ!」と連続で読んだんですが
白鵬より魁皇のほうがずっと面白かったです。



年の功ですね。
今は人格者ですが、やんちゃだったんだね。

使える人材

2011-07-12 08:40:50 | 日記
さて、スタインベックの面白いところは
障害のある人を「それなりに使える人材」として描いているところだ。

労働者として。

感覚の問題と俺ルールの問題を解決していないから、職場は長続きしないんだが
仕事そのものはできる。
「二十日鼠と人間」の主人公レニーは怪力だし。

でもまあこの怪力が悲劇を呼ぶんだが。

特例子会社の社長さんたちの話とか聴いていても思うけど
社会人になって会う人たちは
小さいころなかなか寝ないとかパニックをたびたび起こすとか
そういう苦労に立ち会っていない分
案外障害のある人を「やりようによっては戦力になる」って認める度合いがむしろ親御さんたちより高いような気がする。

ていうかこの私がそうだった。

ついっ友で編集者仲間の方が書いてくださったこのブログを読んで思い出しましたよ。

「この子は普通の就職なんて無理だろう」と決めている保護者の方は
保護者としてのバイアスがかかってるかもしれない。

手帳が出ないくらいの軽度の知的障害で、普通に社会人やっている人なんて
いくらでもいるでしょ。地道に働いて。

特性に対する配慮は必要だけど

そういう子に全部障害者としての将来を思い描くのは、安定志向が呼ぶ縮小再生産じゃないのかな?

我々の世代は、親より学歴が高い人なんていくらでもいたよ。

これだけ大学に入りやすくなっても、今はその逆のほうが多いような気がします。

「苦労させたくない」が縮小再生産を生んでるんじゃないのかな?

なんて思うこともあるのでした。

そういえばちゅん平にささやかな贈り物をしたら、昨日佐賀牛のサーロインステーキが送られてきました。
超高級品です。別に私は高級な和牛を食べまくっているわけじゃないが
おそらく佐賀牛は日本一の名に値すると思う。

ひえ~こんな高いものを。
一般就労した人は違う! と思いましたよ。
地デジ化も自力でやったらしいし。

大地君は給料もらうようになったら私にエビスビールをご馳走してくれるらしいし。

金は天下の回りもの。
回す人の一人になるということが社会に出るということ。
働いて得たお金を使えばそれが経済を回す。

その楽しみを早いうちからあきらめるのはどうかね。

インプットの週末

2011-07-11 09:00:27 | 日記
さて、「二十日鼠と人間」のDVDが土曜日に届きましたので
芋でできた水を飲みながら見ましたよ。

相当原作に忠実に作ってあります。
「アポロ13」や「フォレスト・ガンプ」で光っていたゲイリー・シニーズが監督までやってるのですね。

Of Mice and Men の著者紹介を読んでみると
スタインベックはスタンフォード大学を中退し、大恐慌後のアメリカで農場から農場へ渡り歩く季節労働者をやっていたらしい。
エリートの世界と底辺の世界、両方を知っている人なのですね。

今の日本と同じように、不安定な立場の労働者の中には障害のある人がひっそりとまぎれこんでいたはずで
そういうところで観察していたのでしょう。
作家の鋭い目は、障害者の問題行動に潜む「感覚の問題」と「俺ルール」
すなわち「話せば長い、浅いワケ」を見逃さなかったのですね。

満足して寝ました。
で、なでしこの快挙を見逃したわけですが。

次の日は朝から神田橋先生の「技を育む」とkindleでDLした「East of Eden by John Steinbeck」を並行読み。
どうもモードを切り替えてインプットするというのが自分の得意技だと長沼先生と一緒に本を作ってわかったんで
こういう読書の仕方を今試しています。

新聞も読んだけど。
そうしたら日経の書評欄に佐野眞一氏の「津波と原発」という本が載っていたんで
さっそく近くの書店で買いました。

しばらくつんどきます。

原発に関しては、最近武田徹氏の著作二冊
「それでも私たちは原発大国を選んだ 増補版核論」と「原発報道とメディア」を読みまして
著者は極めて中立的な立場をストイックなほど保持しているのですが

それを読んだ私の中で起きた化学反応は「原発容認」への傾きですね。
もちろん福島のようなことは二度と起こしてはいけません。安全な運用は大前提。
でもたんなるエネルギー問題じゃないということがよくわかったのですね。
日本が原発を選んできたのはそれなりに理由があることだとわかったのです。

たぶん同じ著作を読んで別の結論になる人も多いでしょう。
それが本と人間との起こす化学反応の面白いところです。

こうやって読書している間もずっとPCでは名古屋場所のストリーミングを立ち上げていました。
そして15時過ぎ。久々にNHKで本場所中継が!
でっかい画面に映った土俵を見て、感慨ひとしおでした。

やっぱりお相撲はいい。
堪能しました。相撲部の人たちも本当に楽しそうだった。
また昨日は熱戦も多かったしね。
稀勢の里も勝ったしね。

あ、それと「活かそう! 発達障害脳」は書店店頭でも動いているみたいですね。
一部のネット書店とかでも売り切れを起こしていましたが
すでに追加のご注文をいただいているので、おそらくそのうち在庫は揃うでしょう。

よろしくお願いいたします。

新刊について小暮画伯がブログに書いてくれています。