なつかしい画像を見つけた。
ベルリン、フンボルト大学の正面入り口を入ったところにあるカール・マルクスの言葉。
マルクスもこの大学で学んだ。
森鴎外も。
私の祖父も、大昔に、この大学に学んだ。
そして私の夫も、ちょっと昔に、ここに学んだ。
=====
哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきたに過ぎない。
でも大事なのは世界を変革することだ。
=====
みたいな意味らしい。
これを見た当時の私は、出版社を興すことも
自閉症と関連する仕事をすることも夢にも考えていなかったわけだが。
いい言葉だなと思った若き日の私。
でも今見ると、また意味合いが全然違う。
花風社がなんらかの変革を起こしてこられたか?
このあたりに関する考え方を話すとね、私はよく「謙虚ですね」って言われます。
ニキさんと私は色々なところに呼ばれた。
どこでお話しても「目からウロコ」って言われた。
つまりね
メジャーな考え方じゃなかったってわけです。
私たちの自閉症支援観はね。
私たちが主として訴えてきたのは
「身体特性をよく見て」
「自閉っ子の行動には話せば長いけど大変に浅いワケがある。深読みしないで」
「誤学習させないで」
みたいなこと。
あと「金銭教育ちゃんとして」
とかね。
私たちがお互いに「自閉っ子研究」「定型発達者研究」をしてきてたどりついたこの当たり前のこのメッセージは
心理療法とも行動療法ともTEACCHともPECSともバッティングしない。
でもどれともぴったりはかぶらない。
あまりにマイノリティだから
講演を聴いた方たちが「ははあ、こういう考えかたもあるのか!」と感じて
「うちにも来て、うちにも来て」とつながっていって
他に同じようなことを言う人がいないから呼ばれる。
アンチな皆様にとっては「なんで?」と不可解でしょうけど
そういう仕組みなんですよ。
私はそう思っていますよ。
だからこそね
「社会の理解」なんて当てにするなよ、って思うんです。
だって支援をしようという意欲がある人たちの中でさえ、ねえ。
同じように自閉症支援をしたいと思っている人たちの間でも意見が食い違うんだから。
「あの人は何もわかってない」ってバリバリの専門家同士が言っているわけだから。
そういう現実の中で
どうやって社会の理解なんて当てにする気になるのか、私にはさっぱりわからない。
同じ立場にいてもわかりあえない。
それが現実。
その現実を直視するところからしかスタートできない。
わかりあえないからこそ、社会の理解を過度に当てにしない。
そういう人たちを私は「修行系」と定義しています。