治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

理不尽なことを受け入れる才能と受け入れない才能

2017-08-31 07:27:36 | 日記




休暇中に「発達障害、治るが勝ち!」への神田橋先生からの感想がハガキで届いていて、これがまた大きなヒントになるのでご紹介したいのですが、それは次回以降に。
昨日の記事にこよりさんが寄せてくださったコメントからいきましょう。

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今 感じる事 (こより)
2017-08-30 17:30:33
出生時の記憶が、私の一番古い記憶です。未熟児で、自力で呼吸もできず、ミルクも飲めない。

保育器に入れられましたが、そこが眩しすぎて嫌でしたが、それはかなえられず、色んなチューブを入れられたり、痛い処置をされたり。

それが私が生まれてすぐに感じた事でした。

その後、子ども時代も 成人後も、「理不尽な事」はありましたが、それを「理不尽だ」と 感じることさえ私はできなかったのだと思います。

沖縄で、「普通の扱い」をしていただき、私は そのことで 今までいかに人に無理を強いられてきたか、理不尽な事をそのまま受け入れてきたか、に気づきました。

過去と現在のギャップに 苦しんで、フラッシュバックも 起こしますが、愛甲さんに教えていただいた方法で解消し、自分の育て直しというか、発達の欠けを埋める事、過去の感情をあらためて取り出して眺める、という事もしています。

沖縄から 届いた見事なマンゴー。それを 長男がきれいに切り分けてくれて、家族で味わいました。浅見さんから頂いたスリッポンを履くたび、お店に並んだマンゴーを見るたびに、沖縄で感じた「理不尽な扱いを受け入れなくていい」という事が思い出されます。

自分が無理して背負っていた荷物を手放した感じです。重荷がなくなり軽くなった分、自由になった気がします。

ゆがんだレンズ越しに見ていた世界を、そのままの形で見る事ができるようになった、そんな気分です。

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始まりからこよりさんはつらさを受け入れて、そしてサバイバルする人生だったのだと思います。
未熟児に生まれたときから。

私にはもちろん出生時の記憶などないし、保育器にも入れられていません。
そして、未熟児で保育器に入れられたという点ではこよりさんと体験を共有していてもそれを覚えていない人もいるでしょうが、ご自分が、あるいはお子さんが未熟児保育器体験をした方はこよりさんの記憶を手掛かりに、最初からつらかったかもしれないと考えてみるのも何かの参考になるかもしれませんね。こよりさんのように鮮明な記憶がなくても、身体が覚えているかもしれません。それが、様々な生きづらさのベースにあってもおかしくないはずです。だから言葉以前のアプローチは強い。

ともかくこよりさんは理不尽を受け入れなければサバイバルできなかった。つい最近まで。だからこそ、無礼な人を無礼と気づかずやってきたのですね。

そして思えば、身分制度がはっきりして抗いがたいものであった時代には、こうやって理不尽を理不尽と気づかないまま死んでいった人も多かったでしょう。けれども時代が変わった。愛甲さんがおっしゃる「主体性を持っていなければ生きていけない時代の到来」とはそういうことでしょう。理不尽な扱いをされてきた過去の人たちとは違って、こよりさんにはもう一回生まれ直しがあったわけです。

保育器の例でわかるように、医療は命を救うために一人の人間の尊厳を奪います。奪わないと生かせないときに。だけど発達障害の世界で見るのは、尊厳を奪う上に救わない医療です。身分制度のかっちりした時代ならともかく、なんで自分の主治医でもなければ治しもしない医者にへこへこただで使われなきゃいけないかわからない。私には理不尽を受け入れない才能があります。

理不尽を受け入れる才能も受け入れない才能も、みんなちがってみんないいのです。

恩人の榎本氏に面白いことを聴きました。
被疑者とのやりとりなどは、相手に波長を合わせた方がうまくいき、それは観察力の賜物なのですが榎本氏の指摘によると

最も虐げられていた人にこそ観察力が培われる

そうです。
ああ、それが現場の人の観察だなあと思いました。そしてこの話を聞いたときに思い出したのはこよりさんのことです。栗本さんはいつもこよりさんの観察力に感服していますが、理不尽を受け入れてきたからこそ養われた観察力があると思います。

どんなマイナスにもいい面があるものです。

でもそこにとどまらなくていい、という段階にこよりさんは来たわけです。

そして今も理不尽を受け入れることに甘んじている人たちにとっては、私は腹立たしい存在でしょう。いつかその人たちが理不尽を受け入れないでいい時が来たら、私がなぜギョーカイの大物にたてついても平気なのか理解するでしょう。それまでは理解できなくても仕方がありません。「とりあえず自分の主体性を安売りする」ことでしか生きていけない人たちだから。

こよりさんもかつてはそうでした。
そこから立ち上がりました。
そして逆境の中でつかんだものもありました。
それが観察力。

そしてもうひとつ。
お母さんが人生の課題を地道こなす姿を見ることによって、二人の息子さんは親孝行の働き者に育ったのだと思います。
そういう親の態度って、絶対言葉以前に働きかけます。

私は榎本氏に「発達障害の世界では『障害があるから犯罪行為も許してくれ』という親もいる」と言う話をしました。
そうしたら「そういう親の考えは知らない間に子どもに伝わっているでしょうね」と言われ、そうだなあと思いました。
そして定型の子は親の価値観を相対化しますが、発達凸凹のお子さんほど親の価値観を無防備に内面化します。親が「犯罪も許してくれ」なら、子どもは自然に自分は許されるとカンチガイをするでしょう。

こよりさんのうちはその逆で、お母さんが地道に課題をこなしていた姿があったからこそ、お子さんは働き者に育ったのだと思いました。

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榎本氏も、こよりさんもいらっしゃる
真剣に共存を考える一日
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理不尽を受け入れてきた人たち

2017-08-30 16:03:49 | 日記




毎年恒例の臨海学校ですが、今回は禁酒してから初めて行きました。海鮮のおいしいい地域、夜は飲むことが多かったですけど、これまでは昼にも飲んでいたビールを各種ジュース等に置き換え。中でもマンゴージュースをよく飲みました。こんな写真アップしたら「日本ではマンゴーをミキサーにかける勇気がない」とコメント戴きましたが本当にそうですよね。渥美半島では豪快にメロンをミキサーにかけたメロンジュースが美味でしたがそこそこのお値段だった気がします。日本ではマンゴーは高価な貴重品。でもあちらではオレンジジュースもパイナップルジュースもマンゴージュースも同一値段なんですよ。

そしてこよりさんのことを思い出しました。

実は先日、沖縄の山城さんの法人からうちにも立派なマンゴーを贈っていただいたのです。マンゴーの高い日本でも、行き渡っているのはほとんどが外国産。九州沖縄のマンゴーはとりわけ高級品。実際あまりのおいしさに一気に食べてしまいました。

そしてうれしかったのは、こよりさんにも届いたこと。こよりさんの言葉を引用します。

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沖縄で皆さんが「人としてまっとうに扱ってくださった」ことが 私にはカルチャーショックで、その後に過去を思い出しフラッシュバックもありましたが、大きな気づきを得ましたし、贈っていただいた立派なマンゴーからもお気持ちが伝わってきて、本当にうれしかったです。涙が出ました。

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本当にこれまで、こよりさんは理不尽を受け入れてこられたのです。そして親御さんにキャベツを拾ってこいと言われた子ども時代から、一身に介護を背負い続けた嫁いでからの四半世紀、理不尽を受け入れることこそサバイバル術でした。でもその結果、自分を理不尽に扱う人は一切許さない習慣がついている私から見ると不思議な行動があった。それが沖縄での体験。それをこよりさんは「カルチャーショック」と表現されていますが、それほど大きいギャップだったのだと思います。
そして、それをきっかけにいろいろな過去がわかり、こよりさんは「人にまっとうに大切にされるフェーズ」に入ったんだなあ、と思ったことはここでも書きました。こよりさんを無料で使いその知恵を講演や本に使いながら菓子折り一つ送ってこなかった佐々木先生とは違い、沖縄の人たちは事後まで名産品を贈るという心遣いをくださったのです。さて、どっちが人を大切にしていると思います? どっちが人を育てると思います? そういう実質をみましょうよ、皆さん。



私は「発達障害、治るが勝ち!」の中に、何度も何度も「唇かみしめ」という言葉を書きました。親御さんが唇かみしめなきゃいけない状況は絶対「違うだろ」と思うのです。「一生治りません」と言われ、唇かみしめて受け入れる。なんの変化もわが子に起きないのに、「エビデンスがあるから」と言われ、唇かみしめて犬の曲芸を続ける。そんな専門家の戯言につきあう必要はありません。SSTが必要? それは専門家でしょう。さんざん世話になっておいて菓子折り一個送ってこない。他人に郵便の転送を頼むのに切手どころかメモ一枚つけてこない。そういう人は世間が厳しい場所に見えるでしょう。なぜかというと、自分が礼儀知らずだからです。世間が厳しいのではなく、自分のお行儀が悪すぎるのです。そんな非常識な人たちに言われたことを受け入れて、わが子が治らないのを唇かみしめて我慢する。そういう無駄はやめましょうよ。

と言うことを書いた「発達障害、治るが勝ち!」がどうもリアル書店でも動きがよさそうだ、ということは海外にいても手に取るようにわかりました。やはり

治さない医療
伸ばさない療育
アリバイ的特別支援教育
飼い殺しの成人支援


というフレーズにぴんときてしまう人は多いのだと思いますね。ギョーカイのダメさに支えられて、この本は売れてます。

本もたくさん読んだし、様々に思索を深めて帰ってきました。回線があまりよくないので、ブログの更新は途中からあきらめたのですけど。いきおいで、もう一冊書くかもしれない、っていうほどたくさん思索しました。なぜ啓発に走る人と発達に向かう人がいるのか、わかってきたのです。とりあえずは、このブログにぽつぽつ書いていきますね。


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「治りたくない人」に最初から言っていたこと

2017-08-26 05:32:28 | 日記





「治りたい人だけ治ればいい」
ということは最初から言っていた。
今は姿の見えなくなったベムが鬱で休職して時間を持て余し花風社を総攻撃していた頃からね。

ベムはアタマが悪いのか鬱で脳汁が乱れ認知が狭まっていたのか
花風社にも支持者がいる、というのがどうしても飲み込めないようだった。
私は何度も何度も忠告してあげた。
私にも支持者はいるよ、と。
でもその当時の花風社支持者の皆さんは、イマイチ勇気に欠けていた。
まあベムたちの攻撃がき●がいじみてして怖かったというのもあるだろうけど、すくみあがっていた。私を支持しながらそれを表立って言えない人が多かった。
実を言えば今でも私は当時勇気を出せなかった人たちを、勇気を出した人たちほどは信頼していない。

私は「療育の仕方を選ぶ権利は各家庭にある」という当たり前のことを指摘しただけ。
それだけでも糾弾の対象になった。
「みんなちがって みんないい」にしてくれと涙目で世間に訴える人たちが、発達障害の内側コミュニティでは一律の考えを押し付けるのだった。

私は一貫して「治そうよ」と言い、「治る人から治ればいい」「治りたい人から治ればいい」と言ってきた。
それを見ているのに、治りたくない人たちがなぜ「自分たちも治せと言われている」と押し付けられ感を感じているのは長年の謎だった。
私は治りたくない人たちに何度も何度も忠告していた。

安心したまへ。きみたちの子は治らない。

と。

治りたくないのなら、そしてギョーカイに無自覚に身を委ねているのなら、治らないですむよ。
そう慰めてあげていた。

なのに「自分たちも治せと言われている」と被害者意識を持つのは、結局同調圧力を脳内でこしらえているからですね。
同じ診断名を持った人は一律なやり方を選ばなきゃいけない、という信念を持っているからですね。
つまり本当の意味で「みんなちがって みんないい」を信じてはいないのです。世間にそれを訴えるのはただのご都合主義。
もし本当に「みんなちがって みんないい」を信じているのによそのうちが自分とこと違うやり方をしているのに心乱されるのなら

それはただのひがみ根性か

あるいは心の奥底に「治りたい」という気持ちがあるか、どっちかでしょうね。あ、どっちもか。

私が幸せだったのは、数々の幸運が重なって、私の年代のしかも女性としては同調圧力に屈しなくていい環境を手に入れられたことです。

っていうか、同調圧力に屈しなくても生きていける、という体験を若い頃から積んできたと言えるかもしれません。すなわち幸運は環境と個体のマリアージュだった。

だから素直に

治ればいいな、と思ったし、数々のギョーカイのイデオロギーに基づく決まり文句にウソがあると気づいたし、治りたい人に情報を提供したいと思ってきました。

そして去年になって初めて、同調圧力に屈しなくても愛情や食い扶持に事欠くことがなかった自分の環境の幸運に気づいたので

ドライブがかかったわけです。
この幸運を独り占めしない人生を送ろうと。
治りたい人の役に立てようと。
それが帰結したのが「発達障害、治るが勝ち!」なわけです。

そして最近の支持者は私のことを大っぴらに応援してくださるわけですが

それは別に人が変わったわけではなく

読者にも自信がついたということだと思いますよ。

だって身をもって知ったからね。治るって。
言葉以前のアプローチなら犬の曲芸と違って治るって。

自分たちで確かめたから、大っぴらに応援してくれるようになったのです。

だから花風社クラスタが集うのは強制ではなく

イデオロギーでもなく

実利に基づく自由な思いからなのです。
私の人格が慕われてるのではないのです。
「花風社の本は治る方法が書いてある!」という実益があるから皆さんは大っぴらに応援してくださるようになったのです。
ギョーカイ離れするのは、ギョーカイが治さず治す気もなくおまけに治せないことを言い訳するために次々と負け惜しみの決まり文句を押し付けるからです。「社会の理解ガー」とか。

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イデオロギーではなく

2017-08-25 11:52:21 | 日記


さて「発達障害、治るが勝ち!」
売れ行き、評判ともに好調のようです。
数字から言って、おそらくさほど花風社寄りではない方たちも読んでくれているでしょう。
その方がいいです。

なぜなら本の中でも繰り返しているとおり、私は反論も絶賛受付中だからです。
そしてこれも本に書いたとおり、反論に納得すれば、反論を本にしてもいいくらいだと思っているからです。
反論の方法は本に書いてあります。

普段花風社とスタンスは違うけれども、お世話になった方に最初からお送りしますとお約束していたのでお送りしました。
「スモールステップ」とかごく自然に信じているし、花風社クラスタのお母さんたちにとっては「ケンカ売ってるのだろうか?」と思わせるセリフ「頑張りすぎのお母さん」をむしろ善意で(⁈)自然に使われる方面の方です。
感想が送られてきました。
この本のあとは、選択肢が増えるだろうと思ったそうです。
そのとおり。そのために作った本です。

そしてそのあとの文章を何度か読み返しましたが意味がよくわかりませんでした。
でも一応わかったのは

この人は私がアンチギョーカイ言論を張ってるのが「イデオロギーに基づいている」と思ってきたのだなあということです。
でも今度の本を読んで、どうやら違うのではとうっすら気づいてきたようです。

なぜイデオロギーと思ってしまうか。
それは、ごく自然に「我が子の将来のために」啓発活動している人たちはある意味素直で(褒めてません)
治る方法が見つからなかった時代に先輩たちが仕方なく始めた啓発活動こそが我が子を救うのだとなぜか留保なく信じているからです。
そういう人は私が論駁していったギョーカイの決まり文句

改善するけど治りません
社会の理解があれば
頑張ると二次障害になる

等を不思議なほど検討することなしに信じています。
そして信じて自分も広めることにより、イデオロギー的な何かに無自覚に加担しています。
だから私も「イデオロギーとしてのアンチギョーカイ」をやっていると考えるのが自然だったのでしょう。
人はどうしても自分の回路を他人にも当てはめがちなのですね。

でも私がアンチギョーカイをやってるのはイデオロギーのためではないのです。

私は最初はギョーカイの言うことを信じていました。というか新参者でしたので一応定説に従った感じです。

でもそのうち、ギョーカイの言ってることが無理難題だと気付き

なんで治さないんだ?

という疑問を抱くようになり

現状治せないのなら、今治せないとしても治す方向に努力すればいいのに

差別ガー
社会の理解ガー

に走って

みんなちがって みんないい

と言いながら、治したいと思う人をバカ扱いするのが許せなかっただけなのです。

私のギョーカイdisはイデオロギーではない。

でも啓発で世の中が変わると信じている人たちはイデオロギーにすがりつかざるを得ないでしょ?

じゃないと

本当は自分たちの実力気力不足の結果現状がある

という現実を直視するしかないから。

だから無自覚に決まり文句を共有し、イデオロギー強化の一員となっていったのでしょう。

花風社クラスタの結束は、もっとゆるく

もっと実利的なものなのですよ。

脱がしてみましたか?

2017-08-24 07:16:58 | 日記
一般の書店にはちらほら並び始めたと思います。
Amazonの人も順次届くかと思われます。
脱がす人も増えてくるでしょう。

何度も繰り返しますが、書店さんの店頭では脱がさないでくださいね。お金払うまでは書店さんの在庫なので。
ちゃんと買ってから脱がしてください。

脱がしてみて、そこに何が描いてあるかを見て
「納得した」という方は多いですね。

そして

直販でいち早く手に入れた人から、「脱がして持って歩きたい」というメールが。
それもいいかも。
そしてここのコメント欄でもShihokoさんやみならい怪獣さんがあの図柄に込めた「応援」の気持ちをちゃんとわかってくださっていますね。

まああの図柄でいこうと思ったのは、
なんといっても、私がはしゃいでいたっていうことですね。

そしてもちろん応援の気持ちをこめています。

ね、努力って報われるでしょ?
だから修行しようよ。っていう気持ち。

若干のドヤ顔。

そして私自身の覚悟。

どういう覚悟かというと

「ここまで書いちゃったんだから、どっしり構えていようよ」っていう覚悟かな。

そういう覚悟をこめたかもしれません。



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愛甲さんからの感想

2017-08-23 11:00:52 | 日記
「発達障害、治るが勝ち!」
愛甲さんから感想をいただきました。
一部省略して掲載させていただきます。

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「発達障害、治るが勝ち」、読みました。
浅見さんの思いのたけが心に響く言葉になって体の芯まで浸透してくる感じがします。

「発達障害が治る」ことをこれまで大きな声で言える人はほとんどいませんでした。
それは障害というものが完治しない障り(さわり)であって、発達障害も他の障害と同様、一生背負い続けなければならない障りであるといった誤った考えが医療現場や教育・福祉現場から発信され続けてきたせいかもしれません。

DSM5が出て、発達障害が神経発達のアンバランスが原因のスペクトラムであることが明言されました。
発達障害がスペクトラムであるのならば、神経発達のアンバランスを生かし、資質を開花させる方向で修業を続けることで「発達障害が治る」ようになるはずです。
愛着障害を治し発達障害を治すことで、その人らしく生きられるようになるはずです。
実際、花風社の本を読んで実践されている方々のなかに「発達障害が治った」人が増えています。

私自身、神田橋先生から(中略)
「発達障害は治る」障害なのです。

発達障害があると「ふつう」になりたくても簡単にはなれません。
「ふつう」になるよう薬で抑えつけられると3次障害になります。
「ふつう」になるよう自分で抑えつけ過ぎると2次障害になります。
2次障害は行動化や症状とも呼ばれていますが、すべて自己治療です。
資質が開花する方向で生きられるようになると、いつの間にか不全感が消えて周囲に溶け込み、「ふつう」の人のように生活している自分に気づくようになります。
「ふつう」になろうと無理するのをやめて、自分らしくワクワク生きられるようになると症状が消えます。
それは、それまでの自己治療が〇〇能力に変換されるからです。

文字を書けない人が書けるようになるとワクワクします。
音痴な人が上手に歌えるようになるとワクワクします。
運動選手がタイムを縮められるとワクワクします。
長縄跳びで皆の息が合ってたくさん飛べるとワクワクします。
お祭りで花火が上がるとワクワクします。
ワクワクは人によって異なりますが、自分にとってのワクワクが大切なのです。
それが資質の開花に向けての道標になるからです。

ひどい虐待を受けてきた人や深刻ないじめを受けてきた人には、ことばにならないトラウマ(心的外傷)があります。
トラウマがあると、過去ー現在ー未来がつながりません。
トラウマがあるとフラッシュバック(意味不明の不安、怖れ、怒り、哀しみ、動悸など)が生じ、生きづらさにつながります。
トラウマ治療には(中略)身体アプローチと同時に基底とつながる安心が必要です。
発達障害があって、愛着障害があって、トラウマがある人は、まずは治しやすいトラウマ治療から入っていただくのがよいのではないかと思います。

(後略)


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治しますか? 飼い殺しますか?

2017-08-22 09:05:36 | 日記
「花風社に感謝したい」という人は多いのですが、先日こういうメッセージをいただきました。
花風社の本を読み始めて、子どもがどんどん変わり始めたとき「これからも花風社を応援します」というメッセージを私に送った。そうしたら「治るのが最大の応援です」と私がお返事したというのです。

ああ、そうだったなあ。と思いました。この考え方は今も変わっていないしこれからもずっと変わらないでしょうね。

先日から話題になっていたように、治るという言葉を曲解しようとする人もいます。私はそういう人はほっておけばいいと思いますが、とくに親しい仲間だったりすると、ほっておけないのも本能の産物だと思います。ただ、力の入れどころの要領が若干的外れなだけ。私は曲解する人の誤解を解くことに力を入れはしないのです。なぜか? たとえ誤解を解いたとしても、その人たちは曲解した経験がある分治りが遅い(ブ)。ならば曲解しない人に訴える論法の方を私は使います。そちらの方が、助かる人が増えるからです。

そうしたらKさんがぴったりのことをコメントに書いてくれました。

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Unknown (Kです)
2017-08-21 22:39:12
前に記載した通り治りたくない人は治らなくていいのです。ただ、施設で働いている立場上聞かれたら説明をします。それを理解するしないは自由です。ただ仕事の邪魔をしてほしくないだけです。結果を出せば黙るので。

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そうなんですよね。

「発達障害、治るが勝ち!」は、ある意味支援者たちに決断を迫っているともいえます。
私が挑発的に問いの爆弾を投げかけているとも言えます。
それは「君たち治すの? それとも飼い殺すの?」です。

その問いを受け取ってくれた人たちもいます。

大久保さんのブログ



栗本さんのブログ



そしてまた、Kさんも受け取ってくださったのでしょう。

一番たちが悪いのは意識的に飼い殺している人たちなのですが
ギョーカイの決まり文句を真に受けて、知らない間に飼い殺している人たちが無罪とは言えない、というのが私の見解です。
善意は無能の言い訳にはなりません。善意はあくまで善意でありそれ以上のものでもそれ以下のものでもありません。

一方で治す方法を知りたいと勉強する支援側の人たちは増えている。
でもその人たちの多くが「治りたくない人には無理強いしない」と言います。
治りたくない、と思うのもまた主体性だからです。

それと、私がリアルに接する中で治りたくない人は、親に否定されて育った、あるいは親が欲かいて本人に払った否定的なセリフ(例「もと~だったらいいのに」)をいまだに真に受けている人が多いですね。
こういう人は「治る」という言葉を「自分ではない何者かになれ」と曲解することが多いです。
治るとより自分らしくなるんですけどね。

Kさんと同じく、リアルでそういう人に会ったら一応そういう説明はします。
そしてこういう人は決まって固有受容覚が入りにくい人です。自己が揺らぎやすいから、「治る=自分らしくなる」の感覚がわかりにくいのだと思います。
一応私にそういう問いかけをするくらいだから、私の説明はきいてくれることが多いです。というか、食い入るように聞いてくれる。
でも理解できるかどうかは向こうの事情です。
こういう「親に否定されて育った自覚のある人」はたいてい、似たような体験世界を持つ人と仲間になっていて仲間内で曲解が強化されていることもありますからね。

要するに私は
そういう曲解も想定して「治る」という言葉を使っていると思います。
曲解するかどうかがリトマス試験紙になっているともいえるし
最終章で書いた「なぜ治るという言葉を使い続けるか」その理由四にもつながります。あ、理由三にもつながるかな。

逃げ遅れたシマウマ仲間を救いたいのなら
自分が結果を出すことです。
治った結果、もとから持っていたいいところがただの宴会芸ではなく社会で使える力になっている姿を疑心暗鬼の人たちに見せることができる。そのこと以上に、説得力のあるものはないはずです。
それで説得できない人は、治らないことを自ら選んだのですから、その主体性を尊重してあげましょう。
専守防衛でいいのです。
最初からいっているでしょう。
私の方針は「専守防衛・やられたら(α)倍返し」なのです。
Kさんの言葉で言えば「邪魔をしてほしくないだけ」です。

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恩人の経歴

2017-08-21 12:14:56 | 日記
実はね、最初は恩人の実名を出さずに勉強会の募集をかけようかと思っていたんです。でも実名を出さないとそれこそ、「浅見のでっちあげ説」がまた行き交うかもしれないし。
そもそも例の件で刑事告訴したのは、ニキ・リンコというれっきとした実在の人物がペンネームで活動しているのをいいことに「浅見淳子がニキ・リンコを演じて詐欺を働いている」という珍説を振りまく人物がいて、その誹謗中傷の被害が家族にも及んだ、というもらい事件があったからでした。その担当刑事さんが民間人になってしかも発達支援の仕事している、なんてそれこそある意味花風社に都合が良すぎるんですよね。本当のこととは思えない人がいるかも。私だって今度の再会で本当に「花風社、持ってるなやっぱり」って思いましたもん。身体アプローチは根っこ本でかなりたどりついた感があるんですけど、最後に残されたのが社会性方面じゃないですか。そこの遵法教育方面を担当してもらうためにはうってつけの人物が現れたのですから。

でも「持ってる」のは花風社じゃないんですよね。恩人と私の再会によって有益な情報を手に入れられる皆さんなのです。私は媒介に過ぎません。媒介に過ぎないと思っているからこそ、思い切りやっているんですよ。

というわけで一応、実在の人物だと証明するために、私がいただいているプロフィールをご紹介しますね。

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榎本澄雄氏


『坂の上の雲』の舞台、愛媛松山生まれ。松山北高校卒業(初代校長は秋山好古先生)。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。
警視庁警察官拝命後、都内最多件数の告訴事件を抱える麻布署刑事科知能犯捜査係の主任として、最古参の捜査員となる。社会的反響の大きい詐欺・横領・名誉毀損事件を数多く担当。6年あまりで警視総監賞四件、刑事部長賞七件、組織犯罪対策部長賞三件受賞。

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この経歴を見るだけで優秀な刑事さんだったことがわかります。じゃあなんでその人が発達支援に入ってきたのか。それも当日聴けるでしょうかね? 聞き出してみましょうか。経歴を見ると、浅見とももともと相性が良かったんだな~と思います。事件当時は知りませんでしたけど。

今度のお勉強会、遵法教育については抽象的なことだけじゃなく、具体的に犯罪の構成要件も教えてもらうつもりです。何をやれば犯罪になるのか。中でも名誉棄損、これわかりにくい。私も裁判かかえて初めてわかったところありましたからね。そして昨日もどっかで藤家寛子さんが大学中退と書かれていたらしいですけど、一度は心身不調で中退しましたが、その後きちんと学士になっています。だから藤家さんを大学中退だと書いてしまうと名誉棄損の法的リスクを背負いますよ。

私も例の事件では学歴詐称も言われたので、慶應義塾まで行って卒業証明取って裁判所に提出しましたよ。それと同じく、「想像で書いて、それが外れている」と名誉棄損のリスクがありますので皆さん(とくに猿烏賊方面)ご注意なさってくださいね。自分が知らないことは子どもに教えられるわけないですよ。親が平気で名誉棄損やってれば、子どもに遵法精神など育つはずもありません。そうやって「知らなかったからやってしまった」ときに許されるかどうか。それもおききしたいですね。

佐々木正美先生の講演会でこよりさんがノーギャラで働かされた。佐々木先生の奥様がこよりさんの講演を聴き「佐々木家の子育ては失敗でした」とおっしゃった。これは事実です。だからそれを書くのは名誉棄損ではありません。けれども藤家さんが大学中退とか、ニキさんが実在しないとか、浅見が学歴詐称しているとかサプリ売ってるとか、そういう事実に反したことを書くとそれは名誉棄損のリスクを抱えます。これが猿烏賊にはわかりにくかったみたいですけどね。

佐々木先生がお亡くなりになった直後にただ働きネタを暴露したことで怒った人たちもいたでしょう。それだけ慕われていた先生ですし。たしかに亡くなられた直後と言うのはタイミングが上品だったとは自分でも思いません。もしご遺族が何かクレームつけてこられたら、その点は謝罪し、そして「そもそもの支払いなし状態を今からでも正常化してください」とお願いするつもりです。亡くなられた直後に沖縄出張があり、だからこそ佐々木先生の話題が出て、だからこそノーギャラで使われていたこと、さんざん無礼な真似をされていたことが発覚したので。タイミングが別だったら、佐々木先生の話なんてしなかったと思いますから。

「浅見大嫌い」と表明するのは名誉棄損ではありません。一生嫌っていればいいのです。でも勝手な想像を書き、それが当たっていなければ名誉棄損です。そして今度の講演では、「警察はどのようなとき動くか」「障害があると犯罪は免除されるのか」現場に携わった人からの情報が得られます。こぞってご参加くださいませ。

9月23日夜の部、講演会の詳細は以下の通りです。

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勉強会テーマ 真剣に「共存」を考える――元刑事が見た発達障害

 元刑事の立場から、発達障害と社会との共存をどう考えるか、必要な遵法教育とはどういうものか、ご意見を語っていただきます。

講師 榎本澄雄氏(元警視庁警部補・麻布署知能犯担当主任刑事) インタビュアー 浅見淳子
日時 9月23日 土曜日 18時から20時
場所 港北公会堂 第一会議室(東横線大倉山駅そば)
料金 3000円 ただし同日開催の「浅見淳子、『発達障害、治るが勝ち!』出版記念講演会にお申し込みの方は1500円)
申し込み方法 花風社あて(mail@kafusha.com)にメールで
1 お名前
2 参加人数
3 連絡先メールアドレス
をお送りください。出版記念講演と同時お申し込みの場合にはその旨お書き添えください。こちらから手続きの返信を送りますので、kafusha.comからのメールが受け取れるように設定をお願いします。

たくさんの皆さまとお目にかかれますのを楽しみにしております。


なぜ禁酒ができたかの話

2017-08-20 09:20:33 | 日記
さて、日曜日だからゆるいネタでいきましょう。

あ、その前に事務連絡。お待たせいたしました。昨日、9月23日の講演のお知らせを流しました。登録している方はチェックしてみてくださいね。昼も夜も貴重な機会になると思いますのでどうぞ奮ってご参加ください。

さて、禁酒の話です。
なぜあれほど飲んでいたお酒をやめられたのか。

といってもゆるい禁酒です。ドクターストップがかかっていたわけではないので。
ただ自主的に「飲まないのがいいな」と思って、やめたのです。
愛甲さんはよく、ソーシャルスキルは曲芸的に教えるのではなく自主的に社会のルールを守れるようになれるのが目標、と言いますが、それを地で行っている感じです。
何しろ三十年かけて飲酒能力?を培ってきましたので、飲んだ方がいい場面では飲みます。でもごくごく飲むことはなく、その場の雰囲気を楽しむために一杯くらい飲んでにこにこしている感じです。

きっかけは空梅雨でした。
今は関東雨がちですが、思えばあの空梅雨のぎらぎらした日々が夏だったのかもしれません。とにかく梅雨明けしてから雨が降り始めた感じですよね。梅雨は暑かったのです。西日本からは豪雨の被害の便り。でも関東はからっからで水がめも心配されていたのです。
私は本来水に親和性がある人で、梅雨に雨が降らないというのは調子を崩しました。乾くな~と思い、「そうだ、アルコールとカフェインを抜いてみよう」と思いたったのです。そして最初二週間は、どっちも摂取しませんでした。

びっくりするほどそれが、つらくなかったのです。
なぜアルコールだけではなくカフェインも抜こうと思いついたのかは謎ですが(アルコールほどカフェインを過剰摂取していることは少なくとも自覚的にはありませんでした)、ともかく一気に抜いたことで相乗効果があった感じです。
まず気づいたのは、食べ物が美味しいことでした。いや、それまでもまずいとは思ってはいませんでしたが、食べ物の味わいが深まりました。ということは、相当普段抑えつけていたのだろうと思いました。アルコールで抑えつけていた感覚を、カフェインであげていた感じです。だからスモールステップではなく、一気に抜いたら両方ともいらなかった、というのが実態です。

それと私はだらだら汗をかく有酸素運動が大好きなストレス解消なのですが、以前と同じくらい動いても疲れないのに気づきました。栗本さんに言ったら、肝臓の負担が少ない分筋肉がよく動くのでしょうと言われました。その結果、仕事面でも実行機能が上がったような気がします。

そして「飲みたいとき、飲むべき時には飲んでいい」と自分に許可しているせいか、禁酒にまったくストレスを感じないのです。

と思っていたのですが、今回禁酒できてしまった大きな理由は、『発達障害、治るが勝ち!』を書いてしまったことだと思います。

あれだけ書くともう、十数年ギョーカイで感じていたストレスからすっかり解放されたようです。

そしてギョーカイトラウマと真正面から向き合ったことにより、自分の資質をどう活かしていいかがわかり、肝が据わった感じです。それが最終章の最後のところに書いてある「治るという言葉を使い続ける理由その四」です。

来週中には書店(含ネット書店)で発売になります。
よろしくお願いいたします。

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「発達障害、治るが勝ち!」
花風社HPからのお申し込みはこちらへ。
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「発達障害、治るが勝ち!」出版記念講演のお知らせ (拡散・シェア歓迎です!)

2017-08-19 09:57:05 | 日記




お待たせいたしました。
以前より告知していた出版記念講演の申し込みが始まりました。
9月23日(祝日)、東京都内です。
熱い心と冷静な頭で語るつもりです。
この講演のために、この夏は海外のものを含め、かなり文献に当たっています。
「一次障害・二次障害」について考えたいからです。

詳細・お申し込みはこちらをご覧ください。
(主催は花風社ではなく「子どもサポートネット研究所」さんですのでご注意ください)

ただし
お越しになる方で、こういうことをききたい、ということがあればここのコメント欄に書き込んでください。

たくさんの皆様とお会いできますのを楽しみにしております。



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日々の更新はこの下をごらんください。

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