治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

どいつもこいつも元々魚 新刊と海水浴効果 その4

2023-09-30 12:44:59 | 日記
さて、前回のブログで仮目次発表したら「脳神経内科医が発達障害へ! 新しい切り口!」みたいに読者の皆様に言っていただいたんだけど、実は私自身は「脳神経内科医」っていう人が何をするかよくわかっていませんでした。

そもそも医療活用経験が乏しい私。

・あせもっぽい何かができたとき皮膚科に行ったらそれはあせもというより戒名みたいな名前がついた皮膚疾患で、薬もらって一週間禁酒禁汗したら治った。
・秋に咳がよく出て、止まらない時は耳鼻咽喉科行って薬もらったら治った。ただしこの薬は強烈でのんだ日は寝付いた。でも小田原の大先生に夏の養生を習ったら秋の咳は出なくなったので耳鼻科は要らなくなった。

とかそのくらいの経験しかしていないから、そもそも「精神科」と「脳神経内科」の違いもわからない。

でも「脳神経内科」の先生から『療育整体』の本が出た後「花風社素晴らしい」とメールをいただき、一応礼儀正しくお返事はした。
そしてメル友みたいになって、国際的な発達障害の診断と治療がずいぶん日本と違うとか、そういうのを教えていただいていた。面白いなあと思って、情報源としてありがたくメールの交換をさせていただいていた。

その話の中で知ったのは、「脳神経内科」の人たちは、これまで治療できないとされていた病気の治療方法を開発する人たちだということ。

たとえば水俣病。
覚えがありました。

うちの夫は上智大学生命倫理研究所というところの所長を(持ち回りで)やっているのだけど、時々視察旅行に出かける。水俣にも何回も出かけていて、「水俣病は治ってるんだよ」と教えてくれた。

映像で見る水俣病は悲惨で恐ろしく、でもあれだけの症状が治る人がいるなんて素晴らしいなと思った。

そういう「新しく出てきた病気の治療開発」も脳神経内科の仕事らしい。

そして私たちはみんな神田橋先生の勧めで『発達障害の原因と発症メカニズム: 脳神経科学の視点から』を読んでいた。これは杉山大先生も推薦している本。

これを読むと発達障害って水俣病に似ている機序もあり、だったら水俣病が治るようになったみたいに治る可能性もあるのかな、と思って、だったら精神科医じゃなくて脳神経内科医が治すこともありうるかもしれない、と思った。

ドクターは何度も何度も「一回見学に来て」というのだけど、私はもちろん行かない。

医療phobiaの私にとって「クリニックに見学に来て」っていうのは「お化け屋敷に来て」くらい恐ろしいこと。ドクターはお化け屋敷の拠点をいくつか持っていて、そのうちの一つのビルの前を私はよく通りかかる。

そんなにお化け屋敷には見えない。ここは怖くないかもしれない、と思ったけど、マスク社会が続き、病院では家族にも面会させないとか、マスクも不織布とか、分娩時の妊婦もマスク強制とか、二歳児の子にもマスクさせるとか、そういう医療の鬼畜話が続く限り、医療機関に足を踏み入れる気にはならなかった。

そしてありがたいことにそれが可能になった三年半だった。
家族三人、誰も病気もケガもしなかった。

一番の功労者は老母だと思います。87歳未接種。一応なんかのときのために主治医はいるんだけど(最近有志の会の先生と判明・反枠ポスターが貼ってあるらしい)血液検査したらものすごく健康らしく、百歳まで大丈夫らしい。ともかく、この「できれば医療機関に近づきたくない三年半」を無事に乗り切ってくれた。

それからロードバイクで通勤しちゃう還暦夫。怪我も病気もせず乗り切ってくれた。メンタルもフィジカルも象が踏んでも壊れない(古)。

医療も(そして福祉も)いやらしい制限をさも当然のようにかけてくるけれど、そこから無縁でいればいるほど自由に暮らせるジャパンであり、病気も障害もなければいいだけ。だから病気も障害も、とっとと治った方がいい。医療に蹂躙されずにすむから。私は幸い丈夫な身体を持っているので、「次に病院に行くのは心肺停止になってからでいい。死亡証明書だけ世話になろう」と思っていた。

私の健康は海や自転車のおかげ。自転車買うのも旅するのもジム代も十割負担。十割負担で健康を維持している。それを公金チューチューのくせに観光や飲食産業を不要不急と決めつけるなんて、医療ってどんだけ傲慢なんだぜ。こっちに言わせれば医療の方がよっぽど不要不急だわ!

と思っていた。だから

「医療機関に見学に行く」は私にはハードルが高すぎた。
ドクターとのメールでのおしゃべりは楽しかったけど。

そして五月に還暦奄美旅行に出かけ、帰ってきてから留守中のメールに返事をした。「奄美行ってたんです」と。

そうしたらドクターは、研修医の頃奄美にいたことがあるそうだ。診療所で研修を積んで、島にほれ込んで、一時は土地も持っていたということ。

そのとき初めて、会いに行ってみようかな、と思った。
単純なもんです。
同じ土地が好きだというだけで警戒心が解けるんですね。
というかあのビルの前、しょっちゅう通るし。
そうしたら週に一回いらっしゃるんだそうです。

時は5月以降で、個人の判断だったマスクが個人の判断になったころ。

でもまだ医療機関ではマスク続いているらしい。その理由の一つが診療報酬の加算があるからですってよ奥様。

医者が儲けるために患者にマスクしろっていうのか。まったく図々しいな。そんな話乗りたくねえ。

つまり

会いに行ってもいいんだけどマスクするのはやだな、と思いました。そもそも不織布なんて三年で七枚しか買わなかった。三枚防寒に使って四枚はどっかに埋もれていると思う。

掘り出すのもやだな。

と思って、とりあえずマスクなしで出かけることにした。
医療機関はしていない人に50円だか100円だかで買ってつけろとかいうみたいだけど、そのときにいやだったら会わないで帰ってくればいいし、そのときの気分で会いたければ50円だか100円だかで買って嫌味っぽくカチューシャみたいに頭にくっつけてやってもいい。口と鼻にはつけない。苦しいじゃん。

と思って。

結果的にはなんにもとがめられませんでした。
そしてドクターにお会いできました。
だから本が生まれることになったよ。

この三年半でわかったのは、人々は私ほど腹が立たないみたいだ、っていうこと。
人が人の口と鼻を塞ぐという人権侵害に、意外とみんな腹を立てなかったということ。
いや、マスク社会を嫌がっていた人がいるのはわかるけど、仕事でいやいやつけていた人も多いのはわかるけど、でも私ほど激烈に怒っている人はあまりいなかった。

私は子ども達へのマスク強制も
妊産婦へのマスク強制も
本当に腹が立ちました。
あんなにエビデンスエビデンス言ってたくせに、マスクしないと、治験中の注射打たないと感染すると決めつける医クラ。結局エビデンスなんか関係なかったじゃん。ただ支配したいだけじゃん。

尾身爺の提案した尾身食い。あれを見たとき、東京裁判の「人道に対する罪」っていう罪状にふさわしいのは尾身茂だと思った。
私、基本的にこんな世の中に長居する気はないけど、尾身爺がどんな死にざまをさらすのかは見守りたいわ。

コロナ前は発達医療に腹が立ってたけど、医療は、コロナになったら発熱患者さえみなくなった。なんのための国民皆保険だよ。

それまで国民皆保険は自分には不利だと思いつつ、ある意味健康の再分配なのだから、と分配できる方にいる自分を誇りに思っていた。でも医療が発熱患者もみなくなったとき、この制度は潰れた方がいいと思った。

医療、患者、双方にモラルハザードを起こしている。
これがあるから人々は、自分の健康に自分で責任を持たなくなる。
自力で眠れないのに一生懸命治そうとしている人々にストーカーする迷惑ASDとかも、他人の金を使っている自覚がない。そして金魚体操で眠れるようになった人々を「トンデモ」と決めつける。金魚体操は公金使っていない。それで治っている。犬猫さえ自然にできる「眠る」という活動のために他人の金を使っている奴らに文句を言われる筋合いはない。

そんなふつふつした思いをたぎらせながら意を決してクリニックの受付に行きアポイントメントを告げると

あっさり通されました。

だからこの本は生まれた。
あそこでマスク強制されていたら、この本は生まれませんでしたわ。
二度と行かなかっただろうし。

今日のブログは無駄に長いですね。
かいつまんでいうと

脳神経内科に興味もったのはそれまで治らなかった病気を治す方法を探る科らしかったから

っていうのと

会う気がしなかったドクターに会いに行く気になったのは奄美大島が好きな方だったから

っていうのと

踵をかえさなかったのはマスク強制されなかったから

というだけです。

いや、大きな気づきがもう一つ。
たった今、書いているうちに気づきました。

私が医療に対する恐怖感をある程度治さないとこの本は作れなかった

っていうこと。そして

恐怖感はだいぶ治ったけど

嫌悪感は治ってないや(笑)。

医療に対する嫌悪感は積み残したまんま

だからこそ私は、革命的な本に革命感を出せなかったんだと思います。
だって革命的な本になっちゃうと
またうるさいじゃん。あいつらが。

あいつら対策しとかないとな。

続く

どいつもこいつも元々魚 新刊と海水浴効果 その3

2023-09-29 11:29:03 | 日記
暗いうちに目が覚めます。
星を見て、原稿を読みます。

海に入って、真から元気が出てきてわかりました。
私がこの原稿のどこに物足りなさを感じていたのか。

海って不思議です。
癒しっていうより、癒すだけではなく元気もくれる。
当たり前かもしれません。
私たちみんな、海から生じたのですから。

ともかく進むべき方向性はわかった。
帰ったらさくっとやり直そう。
ともかくあと半日遊んで帰る!

6:50に集落内放送が入りました。
今日は集落の小学校の運動会で、どうやら大人の競技もあるらしい。地域の大人も参加するのは四年ぶり。皆さんふるってご参加くださいとのこと。
集まりという集まりができなかったのはこの島の中でも同じだったんだな。

朝ごはんを食べたらすでにカンカン照り。
500メートル散歩して、今日は昨日と離れたところで泳ぎます。
そしてだんだん帰ってくる作戦。

青い海。
青い空。
遊ぶ人たち。
私は思い残すことがないよう、存分に遊びました。

上がってシャワーを浴び荷造り。
結局一度も開かなかったPC。
でも紙原稿読んで構想はまとまった。あとはこれを帰ってかたちに落とし込めばいい。

ランチはパスタを食べました。スタッフに見送られて空港に。また来ます。来月に。
帰り道、集落の小学校の前を通りました。車がたくさんあって、本当に四年ぶりのお祭りなんだな、と思いました。

そして飛行機に乗り、うとうとしているともう羽田。
窓の下は建物がみっしり生えています。へんなの~。
おとといまでこの街の中にいたのに、人類700万年の歴史の中でこんなにみっちり高層建築が生えていたのはほんの数十年なので、人間はどうやら、海の方にあっさり慣れるようですね。

下りて荷物をピックアップし、崎陽軒の「横濱チャーハン」のお弁当を買いました。
夫は今日、ランチの同窓会で、そのあと二次会とか三次会に行っているらしく、夕飯がいるかどうかは不明だけど、一応二つ買って帰ろう。

帰宅して入浴し、冷蔵庫にあるもの+横濱チャーハンの夕食。
夫が帰ってきて、ちゃんと横濱チャーハンを食べだします。

「本当に楽しかった。行ってよかったよ。色々構想もまとまった」と私は言いました。

開けて17日。
今日しか仕事する日はありません。
というのは明日からまた、三浦半島ライドの旅なのです。
7~9日が鹿児島。
18日、19日が三浦半島。
その間に強引に入れてしまった奄美海水浴旅行なので、タイトなスケジュールになってしまいました。
今日一日で決着をつけなければなりません。
「ちょっと引退してみる」というか、すでに引退の合間に仕事をしているような感じになってしまいました。理想的です(笑)。

でも作業は一日でぐんぐんはかどりました。
何を修正すべきか、クリアにつかんでいたからです。
すいすい進み、できあがった原稿をドクターに送ります。
ドクターからは驚きのメールが返ってきました。

「書いてある内容は前と同じ。なのに情熱的になっている」と。

情熱的、かどうかわかりませんが、私は以前の原稿の何が物足りないかわかったのです。

私にとって、今回の本の内容は難しかったです。何回もお会いし、zoomで会議し、資料を送っていただき、原稿をやりとりし、ギューギュー考える。そういう作業にかなり神経を使いました。
そうなると「理解し、わかりやすく書く」だけで手一杯になってしまっていた。
もちろんそこまでわかりやすくするのは画期的なことなので、なんとなく二人ともそれで満足していたのですが、私の中の本能が「これじゃない」というメッセージを送っていました。
なんだか突き止めるために私は海水浴に行きました。
そしてわかったのです。

今度の本は、革命なんです。
だったら革命らしくしなきゃいけないのです。
それは、ちょっとした言葉遣いに気を付ければできることなのです。
それが私の専門性なのです。
旅行前、私は私の専門性を中途半端に終わらせていた。
でも私は、もっとできる子なのです。

というわけで、目次をがらっと変えました。
内分泌の問題、解剖学の問題、進化脳の問題。
そういうのは目次から外しました。中読んでもらえばわかるからです。

このブログを書いている現在、進行中ですが、本は六章構成です。
目次は以下の通りです。

=====

第一章 脳神経内科医が、発達障害の治療に参入!
第二章 脳の進化を手がかりに、神経発達症治療法を開発する!
第三章 先天的? 後天的? ストレスと神経発達の関係から治療法を探る!
第四章 医療を卒業してもらうための医療を提供する!
第五章 発達障害の原因を突き止め、治療する!
第六章 治らないという考え方はついに治るのか?

=====

神田橋先生のとき同様、私が重い腰を上げて今度の本を出そうと思ったのは、「脳神経内科は難病の治療法を開発するのも仕事。それを発達障害にも広げたい」というのがドクターの志だったからです。
十三年前「治らないという考え方は治りませんか?」と言った神田橋先生は発達ギョーカイからトンデモ扱いされました。
でも変だと思いませんか? 医者なら治せないといかんわな、と先生は言いました。そしてそれは先生だけではなく社会保険の加入者で毎月強制サブスク徴収されている我々みんなの望みです。先に強制的に金取っていくのが国民皆保険。だったら治せよ。これのどこが暴言なのでしょうか? 医療のスポンサーたる国民からみて、治せない医療はただのごくつぶしです。ふざけるな! 仕事せい! です。
おまけに発達ギョーカイは治せないことに開き直るどころか、治った治ったと喜んでいるこっちに攻め込んできてトンデモトンデモとかいうのです。
エビデンスガーとさんざんききましたけど、そのエビデンスエビデンス言ってた人たちが治験中の注射に飛びつき今超過死亡が増えてもほおっかむりしています。
一発も打たないならかかっても病院来るな、も散々言われましたね。いいよ。いかないよ。でもそれなら、国民皆保険撤廃しろよ。ってなもんです。

でもどうやら、医者なら治せんといかんのは本当らしいです。
ただ発達障害はそれを免除されていた。「生まれつきの脳機能障害で一生治らない」ことにされていた。

でもそれは、政治的な決着なんです。事実と政治的な決着が違う、っていうのを私たちはこの三年半思い知りました。「7割が二回打てば集団免疫」とか言われていたのを覚えていますか? でも今7回目を打て~というのと第9波の煽りが同時にきてますよね。
つまり「7割が打てば集団免疫」は嘘だったわけだけど、医療も政治もそれを一言も言明せずに次の説をまたどや顔で広めているのです。

結局、「生まれつきの脳機能障害で一生治らない」も一時的な決着にすぎませんでした。
それを証明したのはむしろ、花風社クラスタの治っていった皆さんです。医療はそれを証明できなかった。
でも今、医療がそれを証明してくれるというのです。
なぜ花風社読者の皆さんが治ったのか、説明してくれる。
花風社がやってきたことこそ国際的な標準治療に近い。
そしてそれをどんどん広めていこう、とドクターが言いだしたのです。
だからこの本は革命なんです。

ところが私はキャラにもなく実に大人しく、この本に取り組んでいたんですね。
内容をつかむので精いっぱいだったからかも。
今年の夏が暑すぎたかも。
それでも私の神経系の奥底で「何かが足りない」と言っていた。
そして本能的に海水浴がしたくなったのです。
そうしたら、わかった。何が足りなかったか。
私は大人しすぎた(笑)。
柄にもなく、大人しすぎたのです。

でもどうやら、私が大人しかったのは夏の暑さや内容の難しさのせいだけではなかったようなのです。

続く

どいつもこいつも元々魚 新刊と海水浴効果 その2

2023-09-28 08:56:55 | 日記
日が昇ります。6:50に集落内放送が入る。毎年何回も来ているので、それがわかってきました。
集落内放送が聴こえたらそろそろ朝ごはんの時間。レストランに向かい、お腹いっぱい食べました。きっと今日はすごく泳ぐ。そしてついでに水筒に氷をもらいます。
いっぱい遊ぼう。



リュックに水筒を入れて、ビーチに出ました。
お天気はよく、海は凪いでいる。これなら安全に泳げそうです。
私は海に飛び込み、それから3~4時間、思う存分遊びました。
浮いたり、泳いだり、もぐったり。
沖に向かったり、横に泳いだり。
やがて他にも遊ぶ人がちらほら現れました。
その一人、水着じゃない人に、ビーチで声をかけられました。

「ここで泳ごうか迷っているんですけど、このビーチではおさかな見られますか?」
「おさかな?」と私は返しました。
おさかなは時々います。っていうか、サンゴ礁のところに行けばたくさんいます。でも私の海遊びにおいておさかなウォッチングは第一プライオリティではないので「おさかなが見られるのなら着替えてここで泳ごうと思う」という人の気持ちがわからなかったのですね。

でもよく見ると、私以外の人は皆主目的がおさかなウォッチングらしいのです。
なぜなら皆シュノーケルセットで泳いでいます。
私は鼻がふさがれるのがいやなので、してもメガネだけなのですが(それも忘れてきた)、みんなライフジャケット、マスク、メガネ、そしてフィンまで着けて泳いでいるのです。それでおさかなを見つけると喜んでいる。

ライフジャケットは身を守るのでしょうが、でも凪いだ海です。湾の中です。
必要とは思えないし、そもそも生身で浮く方が気持ちいいに決まっています。
生身で海水と接し、ゆらゆら、ゆらゆらゆられてこその地球金魚です。それをやりにきたのです。そして飽きたら泳いだり、もぐったり。それをやりにきたのです。おさかなを見にきたのではなく。

現代の人たちは、施設で遊ぶのが好き。ネズミーランドとか、そういうアミューズメントパークが好き。お金もかかり、人ごみもすごいのになぜかそういう設定された商業的な刺激の中で遊びたがる親子の多いジャパンです。
それを海に来てもやっているみたいで、ゆったり波を味わうことなく、みんな躍起になっておさかなを探し、わざわざ水中で映るカメラで撮ったりしている。きっとSNSとかにアップするのでしょうが、とにかく遊び方も視覚優位、映え狙いなのが今のジャパンなのかもしれません。

私は違うのです。
私はおさかなを見にきたのではない。
私はおさかなになるためにきたのです。
それが私にとっての海水浴なのです。

今の人類も生命の始まりの頃、水中にいました。
私たちの神経系にはその記憶が残っています。
だから海水浴は調整になるのです。それをこんな静かな海でライフジャケットつけてどうすんだろ。海を肌で味わうより、現代生活で酷使されっぱなしの視覚をここでもこき使うって全然リラックスできないんじゃないの。

おさかなたちは人間の嬌声をよそに、何気なくすいすい動いています。
金魚体操です。
そうやって泳ぐうち口をぱくっと開けると、捕食もできる。効率がいい。身体アプローチと、移動と捕食がいっぺんにできるのがおさかなです。

彼らの人生(?)はある意味楽なのです。
金魚体操をして、自律神経を整えつつ移動もできて、捕食もできて、そして繁殖だって生みっぱなしでいいのです。
メスが水中に卵を産み、オスが精を放つ。それで終わり。
人間なら考えられないでしょ。
そして子育ても要りません。子どもたちは勝手に孵化して親と無関係に育ち、発達障害じゃないかとか、就学はどうしようとか、将来就労できるかしらとか、友だちができないみたいとか、親が悩むことはないのです。

そして私たちの神経系の底にはおさかながいるのです。
発達障害が神経発達症ならそこから考えようよ。
そもそも生物としての神経の成り立ちから考えようよ。
それがこの夏、私がドクターに習ったことでした。
精神科の医者にはこういう発想はなかったですね。でも脳神経をみてきたドクターにはそういう発想が自然に浮かぶみたいなのです。
神経系の進化を踏まえて神経発達症を見て、治療法を考える。
その成果をまとめた原稿を私は携えて奄美にやってきたのです。

私は午前中泳ぎ切って、部屋に戻りました。
シャワーを浴び、ランチを食べに行きました。
ここのランチメニューは充実しているのです。パスタもおいしいのです。私はふだん自炊でも外食でもパスタはほとんど食べないですが、ここでは食べたりします。
でもその日は別の日替わりランチにしました。
島魚漬け丼です。



おさかなはのんきそうな一生を送るけど
でも人間ほど保護された環境にはいないのです。
小さい時から海の中で他のいきものに食われたり
こうやって人間につかまって食われたり。
人間を食い物にするのにはもう少し手間がかかるのです。
人間を食い物にしようとする人たちは
「生まれつきの脳機能障害で一生治りません」と嘘をついて人生を医療福祉産業の養分に差し出すように迫ったり、
怖い病気が流行っているという設定で総マスク社会を作り上げビジュアル的に脅してわけのわからん注射に導いたり、
いろんな手練手管を使ってきます。
逆に言うと騙さないと人が人を食い物にはできない。
それにくらべると、おさかなは脆弱な存在です。

そしてもし、人間なのに、おさかなの神経系がまだ過剰に発火していたらどうなるか。
人間なのに、おさかな並みの危機感を感じ続ける神経系を持っていたらどうなるか。
そう、「ありえない恐怖感」になるのです。
だから神経系統をたどっていくと「ありえない恐怖感」は治せるのです。
そして「ありえない恐怖感」の発火が止まって初めて、人間の神経は発達していくのです。

その原稿を私は持ってここにやってきました。編集作業をするときのためにPCも持ってきました。
部屋に戻りました。PCはケースに入ったまま。私はちょっと昼寝をしました。午前中泳ぎすぎて、もう午後は泳がなくてもいいくらい。でもきっと泳がないで過ごしたら、帰ってから後悔する。
意を決して外に出ると、天気雨が降っていました。
「これはじきに止むな」と思いました。



都会にいるときは天気を知るのにアプリを開いたりします。
時間をみるのは時計です。
でもここにくると、天気は雲を見て予測するし、時間は太陽をみて知ります。
しばらく待てば上がる雨だとわかったので、私は部屋で待機しました。
雨がやみ、海に出ると、大きな虹がかかっていました。
スマホは持っていなくて写真は撮れなかったけど
大きな大きな虹でした。

その夜も早く寝ました。
短い休暇。明日はもう帰ります。
レイトチェックアウトができることになったので、また午前中めいっぱい泳ぎます。
遊びきった一日。ここちよい眠りにつきました。

続く

どいつもこいつも元々魚 新刊と海水浴効果 その1

2023-09-27 06:22:56 | 日記
9月13日の午後、母のうちに行きました。小笠原クルーズ関係の書類が送られてきているかな、と思って。
一応今回はスポンサーが母なので、母のうちに書類がくるように手はずしております。さすがにメールはこっちで受けるようにしてありますが。

で、来ていない、ということで、普通に帰ってきました。
翌日、羽田空港を歩いていると、電話が鳴りました。
「やっぱり書類、来てたの」
「締め切りはいつ?」
「22日」
「じゃあ帰ったら行くから。今羽田」
「どこ行くの?」
「奄美大島」

前日、母のうちから帰ってから、突然思い立った旅でした。

なんか行き詰まっている。
引退したい感が強い。
この「引退したい感」がずっと通奏低音のように私に付きまとっています。
裁判を抱えたとき、ギョーカイに誰一人かばってくれる人がいなかったとき、こんな世界からは去りたいと思った。
そのときに出てきてしまったのが神田橋先生。
治さないギョーカイの中で、その被害者だった私だからこそ、「医者なら治せんといかんわな」と言う先生の本は出したいと思った。


そしてそこから花風社の治そう時代が本格的に始まった。
まず身体からのアプローチだ、と考え、本を出して行った。身体アプローチが本格的に回りだした。小田原の大先生を発掘し、原始反射がやってきて、愛甲さんや大久保さんの本も出した。
治るラインナップが揃った。
神田橋先生以前は、「こんな腐ったギョーカイ去りたい」だったのだけれど、それ以降は「こんなに治る本を出したからもう作らないでいいのでは」という気持ちが強くなっていった。

そして小田原の大先生が去っていったとき、「もう私の仕事は済んだんだな。引退でいいや」と思った。小田原の大先生は「医師会の仕事があるので花風社の仕事は後回し」という失礼なことを行って新横浜に来ようとしなかったけど、よく新横浜を通って色々なところに行っている印象的なヘアスタイルのおじさんがいたから、オンライン講座をとってみて、奄美から帰ったつぎの日、受けてみた。考えてみれば、あれも奄美から帰った翌日だった。そうしたら「これは出さないといけない」ということになった。
こうやって『療育整体』が出て大評判になった。


そしてまた自転車に乗って遊んでいた。
そうしたらまた療育整体を読んで、「花風社がやっていることの正しさを医療の立場から裏付けられるよ」という脳神経内科医のドクターがやってきてしまった。

で、また本を作っているのですが、心のどこかで「私はもうとっくにここを去っているはずの人間だ」感がずーっとある。
私は発達障害ギョーカイが大嫌いだから。基本的に。


ここから去りたい、去りたい、とずっと考え続けながら、なぜか逆にこのギョーカイに新しい知見を紹介する方に回っている矛盾した仕事をしています。

なぜ去りたいかというと、私は基本的に、発達障害にまつわる人のほとんどが大嫌いだからだと思います。
治さない医療従事者たち。
伸ばさない療育家たち。
アリバイの特別支援教育の現場。飼い殺しで支援者の就労支援しかしていない就労支援。
当事者はストーカー。保護者は「ありえない恐怖感」。
支援者たちは揃って権威主義で安定志向。資格ビジネスにはめられ、そして自分たちも資格ビジネスの胴元になるのがお好き。
行政はしたり顔のとっちゃんぼうやぞろい。ソフトに、人当たりよく、消化試合の人生を受け入れさせるのがお仕事。
そして最近各地方に出現している、公金チューチューしながらいっぱしの起業家のつもりの各種福祉事業者の偽善トーク。
どこを見渡してもそんなやつらがはいて捨てるほどいる!

ただその嫌いな人種の中にときどき気の合う人がいて、その人たちとだけ付き合っていれば幸せな私。でも気の合う人以外には基本近づいてきてほしくなくて、暴言を吐いて防御しています。神田橋先生に「ギョーカイトラウマだいぶとれたね」と言われたのだけれど「この世界にまだいられると思います。誰とも付き合わなくていいのなら」と言ったのはコロナ前のことでしたね。

ものすごく暑かった今年の夏。その夏、私は文系頭の私にとってとっても難しい勉強をしていて、一方で自転車で三浦半島や桜島を走ったりした。脳も身体も疲れていてもおかしくありません。
台風でリスケした奄美旅行。
なんでリスケしたかっていうと、夫がシンポジウムの司会とかの予定が入っていてやっていて、リモートでこなせる仕事ではなく、万が一にも帰れないと困るから保守的に判断。
でも予定通り海で泳げなかったことで、なんか調子が狂ったかもなあ。

神田橋先生の養生法に「ちょっと死んでみる」があるのをご存じですか。
希死念慮がある人に勧める「ちょっと死んでみる」。それを応用して「ちょっと引退してみる」をやってみればいいかな、と思って、急遽奄美に飛ぶことを決めました。

宿のシングルユースが空いていた。奇跡。
LCC満席。でもJALの優待券持っている。羽田からだと楽だな。
というわけで羽田を歩いていた私でした。

母との電話を切ったあと、シウマイ弁当を買いました。
なぜ羽田まできてシウマイ弁当を買うかは謎ですが、それもハマっ子の遺伝子にインプリントされた行動なのかもしれません。
そしてゲートでお弁当を食べながら、出発を待ちました。
途中メールが入り、対応するために、PCを開き返事。
PCは持ってきたのです。何しろ編集作業の途中の旅だからね。
それと今までできたところの紙原稿は持ってきていた。
二泊三日の短い海水浴旅行。どれくらい仕事をするかはわかりませんが。

結果的に言うと、旅の間PCを開いたのはこれが最後でしたよ。

ゲートを入るとき、写真を撮りました。
ちょうどハングル語が出ている時だった。
何書いてあるかわからない。まるで韓国行くみたい(笑)。




LCCは満杯でしたが、JALは空いていた。
私は窓際の席に座り、離陸後すぐ見えた江ノ島を撮りました。
そして機内WIFIでFBにアップすると、湘南の友だちが反応してくれました。私は横浜と湘南のハーフで、あの江ノ島のすぐ近くには父が眠っています。
俺たちの相模湾だね。
今日はわざわざ遠くまで海水浴に行くけれど。



飛行は順調で、着陸態勢に入ってからのこと。
突然奄美空港滑走路閉鎖、という放送が。
機内は全然動揺していません。
ネットで検索してみましたが、とくに事故の情報はなし。
5分くらいすると閉鎖が解除されたということで、5分遅れで着陸。隣にへんな乗り物が二機います。両側にプロペラ着いていて、まるでオスプレイだよ。

そしてお迎えの車でホテルに向かいました。
実はお迎え頼まずに、ブロンプトンで行こうかと思っていました。
でも編集途上だからPC持って行くから荷物が多くなる。ブロンプトンのキャリーバッグでは無理。
ということで自転車は持ってきませんでしたが、空港に下りたときの暑さで、持ってこなくてよかったと心から思いました。

自転車には暑いけど、海水浴には最高です。
私は早速海に出て、日が暮れるまで泳ぎました。
飛行機の中で、海上保安庁からのお願いとして、荒れた海には入らないで、一人で泳がないで、と言っていた。
荒れた海には入りませんが、一人で海水浴旅行に来たので、一人で泳がない、は守れません。
せめて他のお客に心配かけないよう、50メートル以上沖合には行かないようにしよう。この海は50メートル範囲内にもサンゴ礁はあるし。



っていうか、シーズンオフにはほとんどつねに私一人しか泳いでいない海。今日は十人くらいいます。まだまだ夏なんだな。
浮いたり泳いだりもぐったり。
心ゆくまで海を楽しみ、くたくたに疲れました。

泳いでいてお相撲は見損ねました。
でも本場所中に奄美にいると「郷土力士の活躍」が報道されていて面白いのです。
奉納相撲の伝統が生きている奄美ではお相撲が盛んらしく、小さな島なのに、関取もたくさん出ています。そしてローカル放送では、取的から関取までその日の郷土力士の勝敗を教えてくれます。
それをみていたら、「オスプレイ奄美空港に緊急着陸」のニュースをやり始めました。
滑走路閉鎖はこれかあ。
っていうかあれ本当にオスプレイだったんだ。あんな近くで見たのだから、写真撮っておけばよかったよ。

満天の星が見える奄美。
今日は宇宙ステーションが通過するそうです。
それをみんなでみたりするみたいですが、私はもう無理。
20時にはもう寝ていました。
そして早朝起きて、星空を見てから、原稿に向かいました。

ドクターの語る内容はとても難しいけど、一般の人にわかりやすく、というリクエストには十分こたえられている。
こんなにわかりやすくなるのか、とドクターも喜んでくださっている。
でも何か足りないんだよなあ。
まだ日が昇らない早朝の奄美大島で、私はじっくりと紙原稿を読み込みました。

続く

カーブの先の上り坂 ミッション×2の鹿児島旅行ご報告 その4・完

2023-09-13 08:48:06 | 日記
次の日、なんとなく「自転車はもういいや」の気分。
チェックアウトまでゆっくりと温泉に入り、荷物を預けて街に出ました。
買い物をし、お寿司を食べます(回転系)。
そして「水族館に行こう」ということになりました。

『発達障害は治りますか?』を出してから、コロナ前、多くの人が鹿児島を訪れました。
お子さんもたくさん。
そしてその人たちは、神田橋先生に受診してすっかり心が軽くなって、鹿児島観光も楽しんだようです。
水族館の素晴らしさもいっぱいきいたことがあるのですが、そういえば私自身は行ったことがなかった。

見ごたえのある水族館でしたね。
南西諸島にまで及ぶ鹿児島県の海は多様です。
さまざまな海の生き物が見られました。
屋久島からやってきたばかりの海亀の赤ちゃんがかわいかったですね。

今回の旅のミッションは二つ。彼女の受診と、ブロンプトンでの桜島上陸。
彼女は健常者として生きていくことになり、我々は上陸どころか一周を成し遂げ、思った以上の成果でした。
おまけに水族館まで初訪問できてしまった。

ここまで一年半かけて、統合失調症の診断を外した。
その経緯をさらっと書いておきましょう。

それにはまず、凡医ズがなぜ病んだ人に統合失調症の診断を下すか。
それを知っておく必要があります。
いわば凡医を出し抜くには、セオリーオブ凡医ズマインドを知っておく必要があります。

私はこれを、次の本を作りながら学んだのでした。

ここには実は、みんなが大好きな(そして私が大嫌いな)アレがかかわってきます。
そうです。国民皆保険です。

国民皆保険の、一見よさそうで実は融通が効かない医療のもとでは
診断は「どんな薬を出すか」によって決まります。
保険病名というやつです。
それに則って診断をする精神科の凡医たちは「統合失調症の患者」というよりも「統合失調症の薬を出したい患者」を統合失調症と診断するのです。
実体ではなく「凡医がどの薬を出したいか」が診断名を決めます。
ここ大事ですから、よく覚えておきましょう。
たぶん発達障害も同じです。

そしてそのあとはなぜか、たんなる処方都合の診断名が独り歩きしてしまうところから悲劇が始まります。
処方都合の診断名を真に受けると、医療福祉の養分として消化試合を送らされることになるのです。

日本の医療の融通が効かないことは、皆さんも三年半でわかったでしょうが
コロナ禍の当初、医療の大原則は「発熱患者お断り」でした。
そして「民には自粛させ、病床は増やさない」でした。そしてひたすら注射を待つ。
注射が始まると医者たちは群がりました。儲かるからです。そして発熱外来に加算が着くと群がりました。儲かるからです。

精神科医療も同じです。

統合失調症の基本治療は「一生服薬させる」です。その結果その人の将来が消化試合になろうと、安定してめんどりになってくれたら医療にはそれが一番お得。そしてなぜか、発達障害は統合失調症モデルを押し付けられました。
だから凡医ズは必死に「生まれつきの脳機能障害で一生治らない」という嘘を叫んでいたのです。統合失調症モデルに味をしめたのでしょう。それをもう一個増やそうとしたのですね。第〇波を煽り立てる医クラをうさんくさく思う人は増えましたが、「生まれつきの脳機能障害で一生治らない」はあれと一緒です。

ともかく、統合失調症と診断された彼女は、一生薬漬けにされるところでした。
そして刑務所的GHから同法人の生活介護事業所に送られ、16時に垢の浮いたお風呂に知的障害の人を介助しながら入り、週に1~2度しか外出できず、栄養療法を教えてもコンビニにすら自由に行けない、みたいな生活をこの先一生続けるところでした。

元夫との調停によると「娘が24歳になるまで連絡先を教えない。病気を治さないと娘には会わせない。障害者施設が連絡先なら娘には連絡先を教えない」。
つまり、凡医の言うことを聴いていたら一生会えないところでした。

でもここで逆回転が起きました。
統合失調症の薬を処方するための統合失調症という診断。
これは大きなヒントです。
どうせ処方のための診断名ならば
薬が不要になれば診断名は外せます。
薬が不要で、しかも症状が出なければいい。
そしてその方法は、私たちいっぱい持っているじゃないですか。

硬直した国民皆保険下での統合失調症という診断。
ならばその硬直性を逆に利用してやれば、逆回転は起こせるのです。
それは私たちが発達障害でいっぱいみてきたエピソードですよね。
それと同じことをやりました。

というわけで統合失調症の診断は取れた。
そのあとには別の問題が出てきた。カーブの先はまだ平坦な道ではなかった。
それは愛着の問題だったり、パーソナリティの問題だったり、そして長年のみつづけた薬の副作用による内科的な問題であったり。
それをひとつひとつ治していけばいいだけ。

その仕上げの鹿児島旅行でした。

統合失調症という診断で一生めんどり飼い続けるつもりだった精神科医療。
「障害者である限り娘には会わせない」とのたまった元夫。
自由を放棄させれば一生縛り付けておけると思っていた慢性違憲状態の刑務所的GH。
本当にみんなえらそうなんだよ。何様のつもりなんだ。

こいつらを私たちは全部出し抜いてやりました。
カーブを曲がったらまだ上り坂だっただけなのに、地形がそうなっているだけなのに、いちいち薬を増やす精神医療、本当に迷惑。
元夫なんて、本当に偏見に満ち満ちているのだけど、その偏見を私たちは逆に利用した。治るためのインセンティブを提供してくれたことにもなるので。
来年、娘は24歳になる。そのときお母さんは、独り立ちした働く健常者として堂々と連絡することになるでしょう。そうしたらどうするんだろ元夫。あんたが出した条件だ。守りなさい。


私たちは明るい気持ちで水族館を見学し
そして再びフェリーに乗って桜島に向かいました。
船の上、二人で島をながめながら
「あんな大きなところを走り切ったんだねえ」と満足。
そして島に上陸し、昨日食べられなかった灰をかけたソフトクリームを食べました。
これを食べるためだけにもう一度来たのです(笑)。

本土に戻り、荷物をピックアップし、空港へ。
そして機内へ。羽田に着いて、帰宅。
楽しく、そして二重に有意義な旅でした。
買ってきたさつまあげで乾杯!

後日知ったこと。
私たちが帰った後噴火があったらしい。
さすがに心拍数が上がったとき、灰は吸い込みたくなかったので、助かりました。でもブロンプトンはそれなりに汚れましたよ。やっぱり活火山だってよくわかりました。

そして彼女は帰ってきてすぐに派遣会社に面接に行き
会社を一個紹介してもらえて
営業の人と面接に行くということ。

カーブの先に何があるかわからない。
でもきっと、縁があるところが見つかるよ。

「今は人手不足だから大丈夫」と思っていましたが
もう年齢も病気も関係ない時代が来るという意味ではいいですね。
発達障害の人たちも、じっとしている余裕はないですよ、もうこの国には。
逆にそれがチャンスということです。

彼女にもきっと発達の基盤があるのだろうからと
私は発達障害の人に対するようなコミュニケーションを心がけていましたが

これまで発達の人と旅をしたときより、ラクな面がありました。
それは基本的な体力です。

病んでいた時期が長くても
これまで私が一緒に旅をしてきた発達の人たちよりはずっと体力と運動機能があることを発見。

ここらへんは、さすがに私と血がつながっている人だなあと思いました。

そうなのです。
血縁者なのです。
だからまあ、色々家族にもお願いしやすかったのですが。

幸多かれと願います。
これからも色々めんどくさいことはあるでしょうが。

愛甲さんに感謝。
神田橋先生に感謝。

そして夫にも感謝です。
一人だったら私は、桜島一周できなかったでしょう。







カーブの先の上り坂 ミッション×2の鹿児島旅行ご報告 その3

2023-09-12 09:41:43 | 日記
翌朝、私たちは7時に朝食。
彼女はすでにチェックアウト。
朝食会場に入るとき「消毒だけおねがいしま~す」とか言われました。鹿児島はまだ2022年なのかしら。
とは言っても私はマスクほど消毒が嫌ではなく、やったふりくらい付き合うのですが、夫は首を振って消毒を拒絶。まともな自己肯定感があれば「やってます感」の演出道具になるのは拒んで当たり前なんですが、なかなかきっぱり断れる人はいない。
さすがに職場でもノーマスクでやり通した人は強いですわ。

鶏飯とカレーとどっちも食べたいな、と迷っていたら
「どっちも食べたら」と夫。
そうだな。
そしてこの判断は後から考えるとつくづく、つくづくよかったです。

8時になっても電話はかかってこない。
無事整理券をゲットしたと思われます。
そして9時半過ぎ、ホテルから港まで自転車を走らせていたとき、ガーミンが着電を告げました。愛甲さん。私は歩道に自転車を乗り入れ、コールバックしました。つながりません。

結局愛甲さんとつながったのは錦江湾の上。フェリーに乗っているときでした。デッキに出て海風を浴びながら、診察がうまくいったことを聴きました。
愛甲さんがいたおかげで、神田橋先生は治療方針等かなり詳しくご説明くださったようです。ありがたいことです。
彼女は今後、健常者として生きていくのです。
その方が治るからです。治るためにこそ、健常者として生きていく。

というわけでほっとして、桜島を走り始めました。
といっても私は病み上がり。別に一周しなくても行けるところまで行くことに。「とりあえず長渕の像が建っている広場を目指そう」と言ったのですが、あっさり着いてしまいます。
もうちょっと先に行こう、もうちょっと先に行こう、と言っているうちに10キロくらいまでは来てしまいました

ここまでくるのもアップダウンがありました。
何しろここは火山なのです。ぐるっと島を囲む国道も、アップダウンが合って当たり前。坂が多いのは、誰のせいでもありません。
これから引き返すと、またあのアップダウンを逆にたどりなおすことになる。
ここで引き返せば往復20キロ。引き返さないとこの先30キロ。難しい決断でした。

グーグルさんに今後の展開を教えてもらいます。
山の裏側(大隅半島側)は山道が続く。そしてでかい山を一つ越えるとそのあとは平らな道で港に着く。
私たちは一周することを決めました。

以前桜島を観光したときに開いていた道の駅や売店、ずいぶんつぶれていました。
コロナ禍は本当に罪深かったですね。
私たちは水はたっぷり持っていたし、自動販売機はあちこちにありましたが、食料の補給はできませんでした。いやそのうち、そもそも食欲がなくなるくらい心拍数が上がったわけですが。
途中かろうじて仕入れた小みかんキャンディーをなめながら、山道を上る。
カーブも多い。

カーブがあると希望を持ちます。
このカーブの先には下り坂があるのではないか。少しは楽ができるのではないか。
それは当たっていることもあれば、上った先にさらに上り坂があって、がっかりしてしまうこともある。
でもこれが人生なのです。
そしてこれが脳の機能なのです。

次の本の著者のドクターに習ったこと。
脳の機能。それは「予測し、現実に直面し、誤差を修正していくこと」なんだそうです。
そうやって経験値を積み、脳は発達していく。
だから失敗は成長のもとなのだそうです。
失敗すると「チャンスだ」とドクターは喜ぶそうです。

これだなあ、と思いながら必死で山道を走りました。
あのカーブを曲がれば、ラクになるかもしれない。
でも、カーブの先も上り坂かもしれない。
そして、遠くから見ると、きつい上り坂に見えても、案外するっと上れてしまうこともある。

私がたどってきた道もそうだった。
ここを乗り切れば楽になる、と思っていたらさらに試練が待っていたり
大変だ、と思ったら案外するっと乗り切れたり。
それは異常なことでもなく、不幸なことでもなく
それが人生なのでしょう。

そして今、明日から健常者として生きる彼女にも教えてあげよう。
カーブの先にあるのは、さらなる上り坂かもしれない。
そこでがっかりする。そして誤差を修正する。それが発達なのだと。
TODOリストに終わりはない。でもそれが生きているということなんだと。

「最後には平らな道になる」というグーグル情報にしがみついて走ってきましたが
最後の最後に漁村的な風景が出てきたとき
そうだこれがジャパンだった、と思いました。
山があり、たまには下りもあるけど、それは山の終わりじゃない。
漁村的な風景が出てきて初めて、本物の平らな道になる。それがジャパン。今後、どこを走ってもそうでしょう。
山の中の下り坂に、ほっとしないようにしよう。
こうやって私の脳みそは一つ誤差を修正しました。

港に着き、ふたりでどや顔2ショット自撮りをしました。
そして自転車をたたんでいると、地元のおばあさんが話しかけてきました。「それ自転車なの? どこから来たの?」「これで今島を一周してきたんです」「一周って・・・疲れたでしょう」おばあさんはぺちぺちと私を叩きました。島の人で、今船で帰ってきて、お迎えを待っているんだそうです。外から来た人にこんなに人懐こくて、でもなぜかマスクをしているおばあさんズがいっぱいいる令和五年の夏の不思議。

フェリーに乗る前、「ソフトクリーム食べる?」と夫がききました。いや、いらない。今は何も固体は食べたくない。とにかくホテルに帰ってお風呂に入りたい。
私たちはフェリーで本土に向かい、そこからまた自転車でホテルに帰り、お風呂に行く前に、一口だけビールを飲みました。乾杯。

それからまたお風呂&洗濯。湯上りの部屋でテレビを見ながら洗濯機が終わるのを待ちます。
そしてスマホでぽちぽちLINE。彼女の旅をスポンサーしてくれたご実家に診察結果のご報告です。
ご実家としても、長年悩んでいた。何かしてやりたかった。でも、医療は一生治らないとしか言わない。
それ、嘘ですから、と私は言いました。そして介入しました。その仕上げとして、鹿児島に行きましょうと言いました。
ずっと何かしてあげたかったから、こういうチャンスが出てきたときには、喜んで旅費を出してくれたのですね。
報われる方向に向かうようでよかったです。

ガーミンが記録していた当日の記録。





ごらんのとおり、島はただ丸くそこにあり、道はただその周りを走る。それにアップダウンがあるのは、誰のせいでもありません。
丸いのでカーブがあります。カーブの先に待っているのが上りなのか下りなのか、それはわかりません。
でもそれは残酷なことでもなんでもない。
ただこの世界が三次元なだけ。
そしてその空間を自力で移動するのが人生というだけです。

平らな道や下り坂はすいすい走れます。
上り坂はひいひい言いながら上ります。
ガーミンが私のすいすい・ひいひいを記録しています。
これを見てわかるのは
上りでも下りでも永遠には続かない。
普通に健常者をやっている私たちの脳は、日々の生活を通じてその学習を自然に積んでいるはずです。

洗濯も済み、やっとおなかが空いてきました。
夫は焼酎をボトルでとりました。さつまあげ、鶏刺、カツオたたき、黒豚餃子、きびなご、と言った薩摩の味で乾杯!
獲得標高はしまなみ海道を越えるサクイチ(桜島一周)。
思いがけず成し遂げてしまった私たちは祝杯を上げました。
美味しい、美味しいお酒でした。

続く


カーブの先の上り坂 ミッション×2の鹿児島旅行ご報告 その2

2023-09-11 09:48:17 | 日記
機内では、彼女と私が二列席に。
夫は近くで一人座ります。
私たちからは離れているけど、荷物の上げ下ろしは手伝ってもらえる微妙な位置(笑)。

離陸すると、相変わらずきったねえ羽田の海が窓の外に広がります。
やっぱり処理水は大丈夫だ、と私は思いました。
ここはこんなドブみたいな色なのに、三浦半島に行くとあんなにマシになっている。すぐ近くなのに。
そして奄美に行くとあの美しさなのだ。
海はすごい。
夏ばっばの言う通り、時々牙をむくけど。
そして甘えてはいけないけど。

雲を上から見るだけで、心が洗われるようでした。
考えてみたら私、久々に飛行機に乗る人を連れて、窓際に座ってしまっている。
席を変わってあげようかな。
と思ったら彼女は、夢中でモニターを見ていました。ヘアスタイルの作り方とかやっていた。もともとおしゃれに関心が深い人なのです。

鹿児島に着陸寸前、きれいな虹がかかりました。
私は「ねえみてみて」と窓の外をさしました。
「わあ、きれい!」
いい予兆だといいな。

降り立って預けていた自転車を引き取り、バスへ。
夫が切符を買ってきてくれました。
鹿児島空港にはサイクルステーションもあり、ロードバイクの人たちはそこで組み立てしています。
ブロンプトンの私たちは輪行袋に入れたままバスで運びます。
「これなあに? 自転車?」と係りのおじさん。
「そうです」
「どこ走るの?」
「桜島」
「じゃあフェリーでうどん食べるといいよ!」
「あれ、食べたことないです。15分で食べるの大変そうですよね」
「乗ってすぐに注文しないとね」

なんていう会話を交わしました。

それから鹿児島中央駅に着き、ホテルへ。
フロントで、彼女の部屋一泊分、私たちの部屋二泊分の部屋代を前払いします。入湯税も払います。
彼女が財布を出そうとしますが、大丈夫です。
ご家族から旅費は預かってきているのです。
当初私の分も払うと送金してくださったのですが、夫が一緒に来ることになり私の旅行はたんなる家族旅行になりましたので、返金しました。

そして彼女に今後の説明をし、オプションを出しました。
「明日。7時には伊敷病院に着いている必要があります。6時半にタクシーを呼ぶか、駅からタクシー等に乗るか、決めてください。交通費は先日お渡ししましたね。あれはご実家から預かってきたお金です。
 伊敷病院は有名ですから運転手の人は知っていると思いますが、知らないときのために、念のため住所はこちらです。
 鹿児島中央駅の付近はにぎわっています。これから遊びに行くのは自由です。ただしお買い物するのなら、自分の貯金から払ってください。
 夕食はいつも早いですか? うちは夫が遅めに食べたがります。明日も早いから一人で早く済ませてもいいし、遅めでいいのなら一緒でもいいです」
 ここで夫が「19時はどうだろう」と言いました。彼にしては譲歩してくれています。19時で一緒でいいというので、それまで自由行動としました。彼女は街に飛び出していきました。
 元々華やかな生活をしていた彼女。ウインドーショッピング等は大好きです。
 だけど今の生活ではそういうこともできないのです。GHでは「外出は週に二度、含通院」と決められているから。コロナ禍では週一回だったので、通院があるとあとはずーっとGHと作業所の往復しかできないのです。
これでは治るものも治らないのですよね。

あと、温泉も入れるよと言いました。
実は焼酎風呂も勧めたことがあるのですが、無理だと言われました。
なぜならGHでは2人一緒にお風呂に入らなければならず、お湯に何か入れることなど許されず、そもそもすでに汚れたお湯なので、身体をつける気にもならないということ。
だいたいが知的障害のある女性と一緒に入るので、ほぼ介助に終われ、規定の時間(20分)が終わってしまうということ。
だから私は、ぜひ今回は温泉付きの宿にしたかったのです。
ゆっくりと手足を伸ばしてお風呂に入ってもらいたかった。
「気持ちいい」を取り戻してもらいたかった。

そもそもGHではお風呂の最終時間が16時半。
なので、今通っているB型も本来16時までなのに、一人だけ15時上がりにしてもらっているそうです。じゃないとお風呂に入れないから。

もちろん職員の生活もあるので、利用者のお風呂を早く済ませたいのはよくわかります。
でも皆さんに知っておいてほしいのです。
「支援された暮らし」はこういうものであることを。
だったら、知的障害のない人はなるべく自由度の高い暮らしを選べるように小さい時から準備した方がいいし、そういう人がリソースを食わないことで、本当に支援が必要な人への支援が少し自由度の高いものにできる余裕ができるかもしれません。
つまり「治るが勝ち!」なのです。
支援乞食になるより、治った方が自由な人生を送れるのです。

彼女が街で遊んでいる間、私たちは温泉(&洗濯)。
湯上りの部屋で洗濯機が終わるのを待っている間、ジャニーズ会見をワイドショーでやっているのを見ました。
社名変えないのか。すげえな(褒めてない)。
っていうかなんでテレビ突然この問題やりだしたのだ?

ローカルニュースに目を向けると「豚熱が逼迫しているので、ワクチンの説明会に、豚専門獣医だけではなく牛専門獣医も招集」みたいなのやっていて「産地の分業はすごい!」と感心したりしました。
犬猫ばかり見ている横浜の町医者獣医とかはここでは役に立たないんだろうか?
もっと逼迫すると馬の人とかも呼ばれるのだろうか?

そしてレストランへ。
彼女は先に待っています。
「なんにしようか~」とか言い終える前に、注文するものを決めていたようでした。海鮮漬け丼定食です。
精神病院から刑務所的GHに送られた彼女は、ほぼほぼ、生ものを口にする機会がないのでした。だから生ものを食べると決心していたのです。魚の美味しい鹿児島でよかったです。
私たちは刺身定食にしました。



繰返しになりますが
支援される人生とはこういうものです。
外出の自由、お風呂の時間、食べるもの、すべて他人に指図され、管理され、ただただ福祉法人の売り上げとなるだけの人生です。
皆さんはご自分のお子さんにそういう人生を送らせたいですか?
だから「治るが勝ち!」なのです。

施設の食べ物だから、PFCバランスは考えてあると思います。
でもサラダは週に一回くらい。たいていは玉ねぎの煮たの。牛肉はまず出ないし、豚肉もほとんど出ない。肉は鶏肉のみで魚介類はほぼ魚肉ソーセージ、ということでした。
彼女は小さいころから小食だったし、精神病の薬を飲み始めてから必ず下剤も処方されるので、腸内環境は悪く、主治医に「体重増やさないと」と言われています。それでがんばってGHの食事はお漬物一枚残さず食べるけれど、増えない、ということでした。
夫はそれをきいて、追加できびなごとか、さつま揚げとか、注文していました。
ゆっくりだけど、全部食べていました。
そして小さい頃私が遊びに来ると彼女の母が「淳子ちゃんはなんでもおいしいおいしいと言って食べてくれる。なのにあんたは食べてくれない」とぐちっていたというエピソードを披露してくれて
夫は大笑いしていました(笑)。

「明日神田橋先生にはみていただけるんですよね?」というので「とにかく早く行って順番取らないと」と言いました。
かつてと違って今は午前中先着15名。8時からの整理券配布ですが、7時には行かないといけないみたいだ。
だからとにかく病院にたどりついて。
病院に行くと、愛甲さんが待っていますよ。

神田橋先生には彼女が行くことはお知らせしてありました。
愛甲さんからも私からも。
でも病院のルールはルールです。遅く行って整理券に間に合わなかったときにごねることは愛甲さんも私もできません。
幸い毎日早起きな人なので、とにかく早く行ってくれと言いました。

結果的に彼女は5時半に病院につき、一番だったそうです。
なぜかというと、眠れなかったそうです。
「あなたは一生障害者だ」と言われるのが怖かったそうです。
でも結果は真逆でした。

続く

カーブの先の上り坂 ミッション×2の鹿児島旅行ご報告 その1

2023-09-10 10:38:52 | 日記
9月7日から9日まで、二泊三日で鹿児島に行ってきました。
今回の鹿児島旅のミッションは二つでした。
第一のミッション、大事な方。
これは去年の6月に話が遡ります。

子どもの頃、よく一緒に遊んだある女性。
消息不明になっていました。
うっすらと「結婚後病んだらしい」「精神病院に入っているらしい」みたいな噂を聞くことがありました。
それをきいて思い出すのは、子どものころからものすごく小食だったり偏食だったりしたこと。
おそらくなんらかの発達の基盤に何かが重なったのだろうと思っていました。
「どうしてるんだろうなあ」と時々考えていました。

その彼女が、本を手掛かりに、会社に手紙をくれたのが去年の6月。
結婚、出産後統合失調症の診断。症状が強くなって入院したのを機に夫に離婚され、子どもとも会えなくなった。どうしても会いたいと電話したところ、家裁で調停になったこと。「24歳になるまでは一切連絡しないこと」「その後、子どもには連絡先を教えるが病気が治らないうちは会わせない」等の条件を押し付けられ、実印を手にためらっている彼女の手から元夫が実印をとり捺印してしまったこと。そんなことがつづられていました。

つまりその元夫氏は、「統合失調症なんて一生治らない病気」という凡医療業界の公式見解に洗脳され「病気が治らないと会ってはいけない」と言質をとっておけば一生厄介払いできると思ったわけですね。

ところが花風社がやってきたことをちょちょいと応用すれば、統合失調症は治る病気です。

「要するに統合失調症が治ればいいんでしょ」と私は思いました。
そして本人にその気があるのなら、治すためのプロジェクトを組んであげるといいました。ただし、費用はかかります。愛甲さんにお願いするつもりでした。いくら親しくても、無料でお願いするわけにはいきません。ただ愛甲さんは、心理士にはめったにいない「治す心理士」だけど、法外な吹っ掛けなどはしません。だいたい相場がわかっているので、大丈夫だと思っていました。本人には今障害者年金しかなくても、バックグラウンドを知っていたので、実家と交渉すればいいと思っていたのです。

そしてプロジェクトが始まりました。
自分は一生病人だ、と思い込んでいた彼女は、病院を出てGHにいましたが、絵にかいたような人権侵害の嵐をされていて、そしてそれに一言も抗議することもなく暮らしていました。「病人だからやられても仕方ない」という、自己肯定感の欠如した状態でした。

私たちは、病気は治ること、薬は減らせること、薬を減らすことによって治っていくこと、を伝えました。どれも彼女にとってはびっくりする情報のようでした。

そして、人権侵害されたままでは治るものも治らないので、GHにもがんがん申し入れをしてだいぶ自由を確保したりしました。というか、最初から超法規的な人権侵害を福祉がすることはわかっていたので、正論を言えば相手は譲らざるを得ない。

そして一年。
色々ありましたが、結論から言うと、統合失調症の診断は取れました。
どうやったら診断が取れるか。それは次回の花風社の本でも詳しくわかると思います。

ここに寄与してくださったのは愛甲さん、神田橋先生のご紹介くださった関東に来ているお医者さん、そして遠方からいろいろアドバイスくださった神田橋先生でした。

人権侵害GHは自法人の生活介護に彼女を囲い、30万円ほどの売り上げを上げていました。GHの売り上げも含めると、彼女は年に
600万円生む金のめんどりだったので、「他に行くところはない」と思い込ませることは、彼らの経済的原理に合っていました。
自社GHから自社生活介護に通わせ、重度認定して加算をつけ、「あなたには就労Bは無理だ」という刷り込みをしていましたが、元々有名企業に勤めていた人です。本人に合ったB型に移れるように個別支援会議が開かれ、そこには愛甲さんも(お仕事として)出席してくださり、人権侵害GHに対し本人の権利擁護をしてくださいました。

そしてとうとう、その刑務所的GHを出る算段がつきました。
そういうタイミングでの初めての神田橋先生受診でした。
神田橋先生の判断も「健常者として生きていく方が健康」ということでした。
今後一時的には生保に頼ったりするかもしれませんが、外国語という武器もあり、なんらかの仕事ができるといいなと思っています。

治療の仕上げとして、今までさんざん遠隔からお世話になっていた神田橋先生の元へ向かうことになったとき、私は夫を誘ってみました。
ブロンプトンを買ったときから、これで桜島を走るのが夢でした。
島っていうか山である桜島はミニベロで走るにはきついと夫は言っていましたが、平らなところだけでも走りたい。
というわけで「私、彼女を鹿児島に連れていくけどいかない?」と言ったら「いいね」とついてきました。

そんなわけで三人+二台のブロンプトンで、私たちは鹿児島に向かったのです。

続く