治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

応援される人

2017-03-31 09:43:26 | 日記





昨日は南雲さんと暑苦しい二人飲み会でした。
おみやげはこの雑誌。ありがたいことです。本屋さんで写真を見て、写真が一番いいのを選んでくださったそうです。千秋楽は、ご実家でご家族とみていたそうです。そしてご家族も稀勢の里を応援し、感動を分かち合ってくださったそうです。

横綱ご自身、応援は力になったたと言っていましたが、凸凹キッズもそうだと南雲さんは言います。全国回っていると、障害特性への配慮云々の前に、人として周囲に応援されているお子さんも多いそうです。どういう人たちかというと、前向きに頑張っている人たちです。働き者を排除する職場もなければ、頑張っている人を応援しない人もいません(除卑屈クラスタ)。発達障害の世界では「頑張らせてはいけない」というのが決まり文句になっていますが、それは一般社会とは違う地軸を中心として動いているからですね。だからギョーカイではなく一般社会とつながる志向を持つ人は、前向きに頑張ればいい。そうすれば配慮配慮の前に応援されますから。

そんな暑苦しい会話を交わし、立派な酔っ払いとなって新潟に帰る南雲さんを見送りました。楽しい一夜でした。

ガールズトークな一日

2017-03-30 08:42:06 | 日記
昨日は栗本さんと「ストロベリースフレパンケーキ」を食べながら棒人間会議、っていうかガールズトークをしました。
去年神田橋先生のところに行った時のメモが出てきて、「身体アプローチの唯一の副作用」っていうのを先生が教えてくださったのです。
なんだと思います?



























「教祖と信者になる」ことだそうです。
その点、栗本さんは教祖になる才能が全くない人なので、安心です。と褒めちぎりました。

そのあとは画伯の悪口になりました。
先日の山登り、その日は遠くから来た山城さんが主役だから、ある程度荒天でも登るつもりだった栗本さんでした。だから画伯にも装備をきちんとしてきてくださいと言ったそうです。レインコートとか。そうしたら全くしてこなかったそうです。そして自分は装備してこなかったくせに天気悪いからポーラ美術館行こうとか言う。困った人ですわ。
それそれそれ! 画伯って本当に人の言うことを採り入れない人なんだよ、という話になりました。レインコートなら本人が濡れればいいだけだから自己責任ですみます。でもお仕事はそうはいかない。仕事で描いてもらう絵にしても、必要なときには資料そろえて、メモでも渡して、ミーティングもして、それでもあさってのものを描いてくる。「いくらでも直しますから」と言うけど、お仕事だから直すのは当たり前。なるべく直さなくていいように色々資料用意しているのに全然参考にしている気配がなく、資料とあまりにかけ離れたものがあがってくるとどっと疲れるのです。こういう仕事ぶりなので、私は数年前から、認知症が始まったのではないかと心配していましたが、レインコートもってこいと言われてもってこないように、たんに人の言うことを聞いていないだけなのかもしれません。雨に濡れるのは自己責任ですが、お仕事の場では困ります。生きづらい。


夜は愛甲さんと電話で生きづらさを分かち合いました。
チケット大相撲先行予約、二人とも三つ申し込んで三つとも落ちたのです。
複数当たったら画伯ご夫婦にお祝いとして贈ろうと思っていたのですが、ひとつも当たりませんでした。ふらっと国技館に行って当日桝席買えた時代もあったのです。生きづらい世の中になったもんです。
本販売で頑張るしかない。ネットも電話もつながらないだろうなあ。母も最近、街を歩き回って足が強くなったので、椅子席でもいいかもしれません。なんとか確保したいものです。

決まり文句を言える人への対応策

2017-03-29 10:59:57 | 日記
さて、自虐と社交辞令の記事にいただいたふうりんさんのコメントから。

http://blog.goo.ne.jp/tabby222/e/b14bf367d1f544e27f2f3bb7cf356e3c#comment-list

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一から信頼を築く力、他の誰でもないただひとりの相手と対峙する力、自分の考えを説明する力などが特に家庭では大事です。それらは空気を読むような社会性では鍛えられません。

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私は最近、花風社が岩永先生に教えていただいたなかで五感+二覚という考え方だけではなく、「行動体力」と「防衛体力」も大きかったなあ、と考えていました。そして社交辞令について考えていて、行動社交辞令と防衛社交辞令があるなあ、と思いました。自虐が社交辞令として機能するのは、一種の魔除けみたいな感じで使うんだろうな、ということに気づきました。これが防衛社交辞令。

行動社交辞令はもっと「ご機嫌取りに行く」感じですね。そうやって社交辞令にも二種類ありますね。そして防衛社交辞令はその性質上、自虐的なかたちをとりがちですね。

そして決まり文句を言って世渡りしている人たちに私が違和感を感じてきたのは「私にとってはあの人たちは信用できない」から。でも愛甲さんに「浅見さんにはDNAレベルで無理」と言ってもらって、あの人たちはあの人たちであれが処世術なんだ、と納得した感じがしたのです。資質が違ってサバイバルスキルが違うだけ。自分の本心を表すのに言葉を使わず決まり文句で乗り切る方が有利な戦略である人もいるのでしょう。

そして私の場合には決まり文句を使わないほうが生存戦略としてかなっているわけです。そういう人もいるのに、なんで防衛社交辞令だけオウムのように教えることがSSTになっているのかが不思議だったわけです。ある種の人々はSSTによってかえって資質を押さえつけられているでしょう。だからSSTの二次障害が出るのでしょう。

決まり文句系の人を私がなぜ信用しきれないか。それは決まり文句で世渡りする人はどこかで思考停止しているからです。「改善するけど治らない」というありえない現象を語る言葉でも、それをみんなが共有し、共有することで成り立っているコミュニティにいる以上とりあえず使っておく。そういう風に決まり文句系の人は人に流されやすく、だからこそおそらくいさかいを起こさない。でも、どこか徹底しないところがあって、本質に働きかけるものは決して産み出さない。そういう人と通り一遍のつきあいをするのは面白いかもしれない。でも一緒につきつめて考えなきゃいけないところを借り物の言葉でその場をやり過ごしてしたり顔されるとすごく頭にくるんですね。私がしたいのは、つきつめることであって、その場をやりすごすことではないからです。

そしてふうりんさんのおっしゃるとおり「対峙する力」と「その場をやりすごす力」はまた別のものなのですね。それが二者関係と三者関係と言ってもいいかもしれない。空気を読む力と、誰かとしっかり関係を作る力は別物ですね。どっちも持っている人もいれば、どちらかが苦手な人もいるでしょう。でもピラミッド的には二者関係の方が土台なんですね。

そうか。ここまで書いてきて気づきました。巷のSSTに不満を感じるのは、二者関係が結べない人にいきなり空気を読んで防衛社交辞令ばかり教えるからかもしれません。そして空気を読む能力と、誰かと親密になる能力は別物ですもんね。

タイトルに戻りますが
私の「決まり文句を言える人への対応策」は

「心からは信用しない」なのかもしれません。
人を信用しやすい楽観主義者だけに、だまされやすいんですけど。
そして私が信用しない決まり文句を駆使できる人に無理やり育てるようなSSTはやっぱり支持できないなあ。
それで資質を潰される子もいるでしょう。




決まり文句軍団との距離の取り方

2017-03-28 09:14:15 | 日記
自虐と社交辞令の記事

に豆柿さんからいただいたコメントが面白かったので、とりあえず前半分だけ引用させていただきます。

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豆柿1

社会の理解ガーと遺伝子レベルで無理 (豆柿)
2017-03-26 13:05:19
私が花風社さんや浅見さんに惹かれるのは、ギョーカイが「発達障害の人はこういう特性で、だから○○がつらいんです。だから社会が理解してくれないと生活していけないんです。」という事に対し、理解するのにも、されるのにも限界を感じたからという部分があります。
というか、花風社さんの本を読んでその事に気が付き、今まで、知らず知らずのうちに悶々としていた心の一片が、爽やかな感じと朗らかな感じの入り混じった何とも言えない感覚に変わったからという所があります。

これは、私の勝手な解釈ですが、
浅見さんが愛甲さんに「決まり文句で会話してる人の中に入るのは遺伝子レベルで無理」と言われた時に、ぱっと明るい気持ちになった感じは、
発達障害の人が、ドクターに「あなたには発達障害という障害があります。発達障害の特徴にはこういうものがあります。」という様な話をされたり、それを聞いて、当事者や周りの人が当事者の困っている事、壁にぶち当たっている事やされて困惑している事を「これも障害特性だからじゃないか」と疑問に思ったり、肯定している時の感じ、
すなわち、発達障害の人がテレビなんかで「診断された事で、今まで生きてきて、しんどかった、つらかった理由が分かったので、診断がついてよかった」と言ってる時のこう言う事が現したいんだろう、と思う感じと同じようなものなんだろうと思いました。


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浅見回答

ああ、そうかもしれないなあ、と思いました。
そしてそれは双方向なんですよね。双方向とはどういうことかというと、自分は決まり文句集団になじめないけどそれは自分にとって自然なことだったのだ、という安堵の気持ちが一つ。もう一つ、自分にとっては気持ち悪くてたまらない決まり文句集団もちゃんと理由があって無意味な(と私には見える)決まり文句を取り交わしているだけなんだなあとわかって納得したという面もあるんです。つまり「あの人たち」と「私」は違っているし、違っていることがそれぞれにとってサバイバル上自然な手段なのだとわかった、っていう感じです。

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豆柿2

私は「友だち入門」の愛甲さんの章の「浅見さんには無理です。遺伝子レベルで無理なんです。イヤとかいうレベルじゃなくて無理なんです」というあたりを読んで、私もそういうたちなのかな、と思ったのと同時に、直感的に、あー壁にぶち当たったというふうに思いました。


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浅見回答

ここ、ちょっと理解に時間がかかったんですけど、大事なことを言っていると思いました。説明難しいけどしてみますね。

つまりね、巷のSSTとかは「決まり文句集団にどう適応させるか」に終始している印象が私なんかにはあるわけです。だからSSTを受けることでかえってつらくないのかな、とか思っていたら愛甲さんも療育でSST受けてきた子が見事に思春期で崩れているというお話をされ、そうだろうなと思ったわけです。決まり文句集団に適応することがその子の資質ではないことをやらされているわけだから。

私は「決まり文句集団に属さなくても社会でやっていける」ということが身体にしみつくレベルでわかっているわけです。それで五十過ぎまでやってきたのだから。そして「決まり文句集団に属さなくたってやっていけるのに、どうして決まり文句集団での適応というワンパターンの生き方をそれが向かない人にまで丸暗記させるのだろう」というのが巷のSSTへの疑問のひとつなわけです。

そういうSSTは施している方もそれに乗っかってる方も、「こうやって集団に沿うのが社会に参加することなのだ」と疑問なく思っているのかもしれません。だからそれが遺伝子的に無理だと宣言されている私を見て「そうなのか。自分もそうかも。だとしたら壁にぶち当たった」って思ってしまうかもしれません。

私はよく猿烏賊山に向かって、私を見て腹を立てるより「ああこんだけ他人の神経を逆なでしても社会でやっていけるんだ」と親切な提言をしていますが

本当にそうだと思うのです。君たちの大嫌いな私が幸せにやっていけるほど社会は広い。だったら君たちの子どもだってうまくいくかも、という方向に考えないのはなぜなのか、それは心底では「みんなちがって、みんないい」とは思ってないからじゃないでしょうかね。子どもには、自分たちの理想通りの人間になってもらいたい。だから治らないと思う。

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豆柿3

ギョーカイは特性なんかを説明する時に、遺伝的に無理、とか関係している遺伝子の特定の研究とか、医学的に無理と証明されてるのに理解しないのは人権侵害とか言って、社会の理解ガーに繋げることしかしない気がするんですけど、愛甲さんは遺伝子レベルで無理な人をどういうふうにして、社会に出られる人にしているのかなと思いました。

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浅見回答

だからね、それが「資質の開花」なのです。

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豆柿4


また、浅見さんの場合は、無理と言われる前から、決まり文句系の人との距離を上手に保っている方なので、「遺伝子レベルで無理です」に対して、「そっか」と思っても上手くいくのだろうと思いました。


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浅見回答

距離を上手に取っている、というより「キライ」なんですよね。だから近づかない。「改善するけど治りません」というありえないことを共有している人たちは滑稽だし、言葉は本当のことを言うためにあると思っているから最大公約数の受け狙いの言葉を交わしているのが気持ち悪い。だから近づかない。そして自分に弱者意識があると、「あの集団に近づけないと生き残っていけないんだ」と考えてしまうかもしれませんが、不思議とそういう弱者意識が最初からなかったんです。それが愛着関係なのかもしれませんが。

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豆柿5

また、浅見さんみたいに原始反射をとっくに使い切っている人でも、脊髄反射を利用しているんだなと思いました。私はまだ、脊髄反射がバリバリ残っているので、上手く生活するためのテクニックにも脊髄反射を使っているところがあるんだろうと思っているんですが、私も、写真とか見せられた時、かわいいですねーとか言うんですけど、脊髄反射で言ってるから帰ってきて疲れるのかなーと思いました。

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浅見回答

私が原始反射使い切っているかどうかは知りませんが、モロー体操はやると落ち着きますよ。それと脊髄反射は生涯大事です。脊髄反射は命を守ります。私がいうお世辞もそうかも。豆柿さんはむしろ、脊髄反射で言えないから疲れるのだと思いますよ。心から言える人はいいんです。心にもないことを平気で言える人はいいんです。そして心にもないことを言いたくない人は、反射で処理できる方が疲れないと思います。これは仮説ですが、身体が弛むと脊髄反射で処理しやすくなるかもしれません。

ともあれ豆柿さんのコメントは示唆に富んでいました。


足は元気だから

2017-03-27 12:04:55 | 日記
13日目の日馬富士戦のあと、土俵下で稀勢の里関がうずくまる姿を見て吐き気がしました。痛くても痛がらない人ですからね、普段。それがあの悶え方、相当なもんだろうと思いました。
今場所は終わりかな、と思っていたら、次の日、出るというのでびっくりしましたが、横綱が決断すべきことと思いました。また無責任に出場はいかがなものか論を唱える人が贔屓の間にも出てきますが、これを聞くとまた私はギョーカイを思い出すのです。フィギュアの羽生選手のときもそうでしたが、並外れた肉体の持ち主が主体性をもって決断したことをどうして凡人がしたり顔で批判するのか。これってギョーカイの「頑張らせてはいけない」にも通じるし、ひいては一般社会が過敏性を理解しないことにも通じます。みんな自分の身体を相対化できないんだよ。強い人は弱い人の気持ちがわからないけど、弱い人もまた強い人の気持ちがわからないようです。

14日目かくりう戦。あっさり土俵を割ったときは「やっぱり力入らないんだな」と思いました。でもケガが悪化しない相撲だったのが唯一の救いでした。そして明日はつらいものを見る千秋楽だなあ、と思いました。

夫は週末も大体仕事なので、たまに空くと突然箱根に行きたがったりします。土曜日の夜にも「明日空く」と突然言い始め、宿を探したのですが安いところがありませんでした。私は温泉みたいにお相撲見られるところ以外は出かけたくないと言いました。横綱が頑張って出る以上、どんなにつらいものを見るとしてもきちんと見届けるのがファンの役目でしょう。

そして日曜日は雨でもありなんとなくまったりと過ごし、幕下あたりから見始めました。箱根に行けなかったので綱島温泉に行くことになり、本割でてるる関が勝った瞬間に出かけるつもりで用意していました。表彰式なんか見たくないもんね。

そうしたら本割。一回待った。横綱不成立の立ち合いで動いた。あれ、もしかして勝ちに行くつもり? と私は気を取り直しました。そして、突き落とし。左も使えてるし右も強い。そうだよ右だって普通の人よりは強いはずだよ。すごい子だ。涙が出ました。出かけるどころではなくなりました。

そして決定戦。手負いの身で二番はつらいだろう。そして勝利!

すごいすごいすごすぎる。一年前まで豆腐メンタルと言われていた人が、手負いの身で、初めての決定戦を制した。今場所の稀勢の里には確変を感じていたのですが、その矢先のケガ。ケガをしない稀勢の里を応援し続けてきた私たちにとっても初めての大怪我。悲しい思いをしていたのに、こんな感動的な最後を迎えるとは・・・。


なんて泣く暇もなく綱島温泉へ。そして帰ってきて、「サンデースポ―ツ」で横綱インタビューを見ました。
ケガに関しては明らかにしませんね。勝負の世界だからね。休場するのなら診断書を提出しますが休場はしない。そうしたら診断書は公にする必要はない。何が起きたのかみんな知りたいだろうけど、ただ知りたいだけなんだよね。そしてしたり顔して論評したいだけなんだよね。そんな無責任な連中の要請にこたえる必要はない。これは私も仕事で学んだこと。

横綱の言葉で心に残ったのは「足は元気だから」でした。たしかに。「右を使った! これで右も一層強くなるのでは」と思ったけど、足だって人並ではない。そして全身はつながっているのだから使えるところを使えばいいだけの話なんだ。神田橋先生の話にも通じるなあ。

ともかく、長年応援し続けてきたことを誇りに思います。
私は社交辞令を見抜けなかったりセクハラ事業者とかの本を出してしまったりするので自分の人を見る目には自信がないところもあるのですが
肝心なところは抑えているのだと思います。
岩永先生はいい人。優れた研究者。ただ男気がなく私を切っただけ。
服巻先生はすぐれた支援者。ただ健常者に人権なしなので私と合わなくなっただけ。
過去は大事に。ただ未来を共有しなくなっただけ。

私は最近、本当に大事にしなければいけない人間関係は夫と母だけで、あとは考えが合わなくなったら切れていいんじゃないかと考えるようになりました。
そうしたら、すごく気が楽になりました。
これはむやみやたらと関係を断つというわけではないのです。
ただ、「考えが合うかどうか」を最優先にするだけのことなのです。関係をつなぐことではなく。

そして私は、ちゃんと人としてきちんとした人を見抜いていたじゃないの、弱かったころから。
自分の仕事をきちんとやる人だと、わかっていたじゃないの。

横綱、優勝おめでとうございます。

そして

後援会の一員として五月の昇進披露宴にお声がけいただきとてもうれしく思います。

愛甲さんもお誘いしました。
初優勝を一緒に溜席で見届けたのですし
お相撲さんの生の姿を愛甲さんに見せたかったのです。
愛甲さんなら、きっといろいろなことがわかると思うのです。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

自虐と社交辞令

2017-03-26 08:22:11 | 日記
さて、昨日一つ公開しなかったコメントがありました。アンチだし、HN汚いし。そしておそらく私をけなしているのだと思いますが、コメント欄では公開しなかったけどここに貼り付けます。なぜなら、私が言いたいことを展開するための踏み台になるからリサイクル活用しようと思ったのです。アンチとはさみは使いよう。こんなコメント。

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社交辞令と本音を使い分けるなんて当たり前の話が分からないというのが不思議だのう。
> 再婚の場で「こんなダメな私にも来てくれた」なんて自虐ネタを言うのは本音ではないシャコジなのは普通は読める。そこで自慢げに「私のようなすごい人間にはそぐわない前妻がいなくなり、新たな嫁さんが来てくれた」なんてシャコジでも言ったら9割方ドン引きするのが見えるしな。

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私は社交辞令を否定していないです。社会の潤滑油だと思っています。自分だってうまくはないかもしれないけど使うしね。子ども・犬・猫の写真を見せられたら脊髄反射で「かわいい」って言うし。まあたいていかわいいから無理なく言えるしね。今回びっくりしたのは「自虐が場を和ませるため」っていうそっち方向をふうりんさんに教えてもらったことです。たとえば心にもなく誰かの身内をほめるのは社交辞令だと理解できる。でも誰かが自虐していてもヒクだけなので、それが社交辞令になるとは思っていなかったのです。

そこで考えたのです。おそらく自虐が社交辞令だと思える人たちって、民度の低い(暴言)人たちとつきあってきたのだな、って。だって誰かの自虐をきいて溜飲を下げるって、それだけ卑屈な人たちじゃないですか。その人たちの中で自虐してこそ自虐は社交辞令になるのであって、愛甲さんや私のように自虐している人をみるとヒク人たちの中では自虐は社交辞令として作用するどころか逆効果になるわけです。

私はようやく最近になって、ニキさんが恐れてきたのは猿烏賊チックな人たちに叩かれることではないかと気づくようになりました。他人がうまくいっているとずるがる人たち。私は発達障害の仕事始めるまでそういう人たちの存在が身近にいなかったか気づかなかったかしたのだけど、ニキさんは育ちの中でそういう人に遭遇してきたのかもしれない。それでなまはげを作り、怯え、そのなまはげをなまはげだと納得させるというルートをたどってそれが著作になってきたのかもしれない。

おそらく民度の低い(暴言)人たちの間で生きていて、しかもそれをやっつけることではなくそこに合わせるサバイバルスキルを知らず知らずのうちに選んでいると、自虐=社交辞令なのでしょう。でもそれが通じない人たち、自虐されると本気にして「そんなに自分を卑下することないのに・・・」方面に考えてしまう人がいて、それが私だったり愛甲さんだったりしたっていうことです。

そして画伯の場合には自虐が社交辞令というより、パターン会話なんだと思います。ダジャレと同じ脳の働き。ダジャレもしじゅうでてるけどパターンにしてみたら百種類もないでしょ。口数の多い人ってパターン会話を採り入れないと言葉が足りなくなっちゃうんですよね。そして、とりあえず再婚した時「こんな自分のところに」みたいなこと言っとけばあまり責める人はいないんじゃないでしょうかね。でも私の場合にはそのセリフを聞くのが二度目で、前のときは芋ごはんまで我慢してしまったから心配になったんですな。

そしてこのパターン会話って、ギョーカイでも盛んなんですよ。
・社会の理解があれば生きやすくなる
・改善するけど治らない
なんて実はギョーカイ人が「みんな言うし、これ言っとくと仲間はずれにならないから言っておこう」みたいなパターン会話に過ぎないんじゃないのかな。それをわが子が診断されてぴりぴりしている状態の親御さんが聞いてしまうと藁にすがってしまうのではないのかな。

でも画伯に本当は自虐の気持ちなんてなかったように、ギョーカイ人のこの決まり文句にもたいして気持ちは入ってなかったのかもよ。

・社会の理解があれば生きやすくなる

って唱えていれば、とりあえず自分たちの無力さを正当化できるうえに理解ガーだけで仕事をやっていられる気になる。便利なフレーズだから使っていて、本当は「社会の理解があれば生きやすくなる」なんて信じてないかもしれませんよ。いっくら社会が理解しても、睡眠障害治らなければ生きやすくなんてならないよ。でも睡眠障害を治す方法を薬以外に知らなければ負け惜しみもこめて「社会の理解ガー」になるかもしれない。

・改善するけど治らない

も昨日の記事に書いたように本当にありえないことですからね。ただこれは、ギョーカイを成り立たせる魔法のフレーズですね。改善するーと言って官から金をせしめる。治らないーと言っていったん発達障害の診断がついた人を固定資産化する。

決まり文句がどうして発生するかというと「最大公約数を狙う」からです。
あるクラスタの中でできれば誰も文句つけなそうなことだけ言っていて、誰かが文句言いそうなことを言わないと、会話は決まり文句の羅列になる。

それに対して私は「自閉っ子のための友だち入門」で自分の社会性の棚卸をしてみて、「決まり文句を交わして成り立っている集団になじめない」という結論を出して。

つまり「ギョーカイの化外の民」みたいなのは私にとって実に心地よいポジションなんですね。決まり文句に疑い持てること、決まり文句を決まり文句と指摘できること、が私にとってはとても大事。


身体アプローチから言葉以前のアプローチへ  浅見淳子 その3

2017-03-25 10:14:07 | 日記
 本書で栗本さんは、発達障害児者の持つ動きの困難が「無意識の領域」にあることを指摘しています。目的を持った随意運動以前の無意識の動き。排泄や発汗や睡眠もここに含まれます。無意識の領域がうまく育っていないのは、ヒトとしての発達だけではなく、進化の過程で脊椎動物が獲得してきた「動きの発達」をやりそこねているから。これが発達のヌケです。ヌケならば埋めればいい。あとからでも埋める方法はある。それは負荷をかける方法ではない。むしろやっていて充実感がある動き。それを具体的に提言しています。

 さて、ここまで読んできて読者の皆様は、私が「治る」という言葉と「改善する」という言葉を混ぜて使っていることに気づくでしょう。私は以前、「治るとは言えませんが改善します」という専門家の言葉を素直に受け入れていました。今も、私が「治る」という言葉を使うと、「それって改善するっていうことですよね?」という疑問を投げかけてくる方もたくさんいらっしゃいます。けれども、私は「治る」と「改善する」を違う言葉として使っています。
 お子さんに障害がありますと宣告を受けたとき、「治らないのだろうか?」と一瞬でも思わなかった親御さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか。私が使う「治る」という言葉は、そのときの親御さんの脳裏に浮かんだ「治る」とかなり近いものがあると思います。
 そして、「治るとは言えませんが改善します」という専門家の言葉を、やすやすと受け入れることはやめました。

 なぜでしょう?
 脳は、そして神経は、命だからです。
 命である以上、「改善するけど治らない」はありえません。
 改善する以上、治ってしまう人はいる。私はそう考えています。
 たとえ治ってしまうことが、誰かにとって都合が悪かったとしても。
 
 発達障害の人たちの周囲にはどうやら、「改善するけど治らない」と都合のいい人たちがいるようです。
 だから、この決まり文句がまかり通っているようです。
 そしてとてもたくさんの人が「改善するけど治らない」ということを信じ込まされているようです。

「改善するけど治らない」と皆が信じることは、誰にとって都合がいいのでしょうね?
 少なくとも、発達障害を抱えたご本人たちではなさそうです。

 この問題はさらに追求していきたいのですが……紙面がつきましたので、ここまで。

 いずれまた、機会を改めて。

 ぜひ、「今日から何をすればいいのか」という具体的な提案に満ちた本書を存分にご活用くださいますように。
 

二〇一七年 三月                    浅見淳子

ダジャレとガールズトークのどちらがよりうざいか?

2017-03-24 09:22:23 | 日記



さて、番組の途中ですが、ちょっとゆるいネタを入れます。実はこのネタ、連載中のあとがきにも関係してきますのでそのつもりで読んでください。
まずは豆柿さんにいただいたコメントを引用させていただきます。

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ガールズトークとダジャレ (豆柿)
2017-03-20 21:01:02
私はダジャレは言いませんし、女子ですが、ガールズトークも元々しないたちで、「自閉っ子のための友だち入門」の愛甲さんや浅見さんの章を読んだ時、自分も浅見さんみたいに、遺伝子レベルでガールズトークが意味不明なたちなのかな、と思ったりしました。「友だち入門」は前から家にあったんですけど、最近初めて読んで、もっと早くに読んでおけばと思いました。

私自身は、ガールズトークもダジャレも好まないんですけど、周りのガールズトークやダジャレを話す人たちとどう関わっていくか、というのが悩みです。

同世代や年上の同性の人からガールズトークされたりして、というか、知らない間に巻き込まれていたりするので、
正直、浅見さんがどうやって、ガールズトークやダジャレをする人と距離をとっているのか、気になっています。(私の場合、おじさんにガールズトークされたことがないので、そういう人もいるんだなぁ、と思いました)

おじさんやおじいさんに、ダジャレをふっかけられるのは、自分の頭の中だけで喜んでおけばいいのに、他人を巻き添えにするなよと思います。特に、気に入られようとしてなのか、美人だったり、若かったりする女の人(特に接客業の人)にダジャレを言ったり、訳の分からないコミュニケーションの取り方をしたりする人は生体レベルで拒否反応が出ます。
幼稚園児の頃、そういうおじさんを見ていても、分からないまま見てたんですけど、大きくなるにつれて、ダジャレを言う側と言われる側の心理が分かって、そういうおじさんのことをうわっと思うようになりました。

また、最近テレビで、SNSに写真をアップして「いいね」をたくさん取るのが流行りとか言ってたんですけど、それを見て、なんだか親父ギャグを言って受けて欲しい人と似た心理なのかなと思いました。

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私は豆柿さんのこのコメントにひとしきり笑い、それからまず、「ダジャレとガールズトークでは私はどちらがより嫌いだろう?」と考えました。結論はガールズトークでした。ダジャレは道端の石ころのようなもので、無視すればいいし、あまりにでかくて道をふさぐようだったら蹴り飛ばしてやればいいのです。豆柿さんは「自分の頭の中だけで喜んでおけばいいのに」と書いていらっしゃいますが、あれは脳の老化に伴う生理現象みたいなもので、垂れ流しになってしまうようですね。そしておじさんなりの積極奇異的なコミュニケーション手段なのかもしれません。

一方でガールズトーク。これはうざいです。一つの対応方法として、「思い切り軽蔑する」というのがありますね。あるいはたしなめる。あるいは理論化してやりすごす。先日饗宴の席で居並ぶ美女の一人が職業的な美女(つまり女優さんたち)をあれこれ格付けする栗本さんに対し「先生がもこみちだったらそういうの言ってもいいんだけど」と一刺ししていましたが、そうやってカンチガイを指摘してあげるのもいいと思います。この美女はその他にも「中学にいたわこういう男子」っていう名セリフをはいてくれて、すかっとしましたね。

私は栗本さんのガールズトークは、一種の無教養の賜物だと思っています。栗本さんはなけなしの読書力を身体方面の知識習得に費やしてしまっています(褒めてます)。名残をなのこりと呼ぶような基礎学力のない人は文語と口語を関連付けることができず読書がかなり大変になります。そのなけなしの読書力で必死に自分の仕事に関する本を読んでいるので(褒めてます)、一般教養を構築するところまで至らないのです。貧乏な人は主食を買うのが精いっぱいで副菜が買えず食卓が彩豊かにならないでしょ。それと同じことが栗本さんの読書力で起きています(ブ)。

そうするといきおい、話題はくだらない芸能ネタになります。そうやって職業的な美女(=芸能人)たちの格付けを上から目線でやってもそんな話に興味がある人は他にいない。だからひんしゅくを買う。そして相手が見つからない。それを「金がない」せいにしていますが、本当のところは話がつまらないからだと思いますし、話がつまらないのはなぜかというと本を読まないことからきているかもしれません。

こうやって理論化してガールズトークをしのいでいます、私の場合。もちろん先日の美女のように「もこみち」とか「中坊」とかのキーワードで刺してあげる手もあると思います。

そして私は今回「友だち入門」を読み返してみて、自分が「決まり文句を取り交わして成り立つ人間関係」から一歩引きたい人だときちんと分析していたことを思い出しました。そして「ていうか決まり文句で成り立つような人間関係の中に入るのは浅見さんには遺伝子レベルで無理」と愛甲さんに指摘されてぱっと明るい気持ちになったのを思い出しました。そうだったのか! と。ということは決まり文句で世の中乗り切る人はそういう遺伝子をもっているのでしょう。

画伯は決まり文句で世の中乗り切る人のようで、前回二回目の結婚のときにも「こんな自分のところに(バツがついているという意味)来てくれて」とか言ってました。私は変なこと言うなあ、と思っていました。その気持ちが本気だったのかどうかは知りませんが、とにかく前の奥様に尽くしてたしいろいろ我慢していました。何を我慢していたかというと、ご飯にサツマイモが炊き込んであるのに我慢して、奥様がいないとき一人で銀シャリを炊いて食べたらおいしかった、とか涙ぐましいことを言うのです。サツマイモご飯なんて、うちだったらちゃぶ台をひっくり返すと思います(これしかないけどね)。



そして今回も「こんな自分のところに~」とか言い出したのを聞いて、今度はこっちが我慢できなくなりました。アンタ前回もそれ言ってたじゃん。そして腹が立つ理由が今度は私も言語化できました。それは愛甲さんと「愛着障害は治りますか?」を作ったからだと思います。

決まり文句の人間関係は、(私には見えないけど)中にいる人にとってはメリットがあるのかもしれない。でも二者関係でそれをやってはダメじゃないかね。前の時私が「変なの」と思いながら言わなかったことを後悔したので、今度ははっきり言うことにしました。愛甲さんの本も出たし。採用するかどうかは画伯の自由。ダジャレはスルーできても、決まり文句がスルーできない私です。

そして私のように決まり文句をスルーできないからこそ、ギョーカイがおかしなこと言ってるのに気づくんだと思います。「改善するけど治りません」という決まり文句。みんなよく意味も考えずこれを信じています。でもよく考えてみてください。「改善するけど」「治らない」ってすごくおかしくないですか?

画伯に「よくこんな自分のところにとかいうんじゃないよ」と言ったら、本気でそう思っているわけではないということなので安心しました。奥様だって主体性をもって画伯と結婚することを選んだわけだしね。それをさー「こんな自分のところに」とか本人が言うなんて、まるでババを引かせて申し訳ない、みたいな風に私には受け取れて奥様に失礼じゃないかと思ったのです。でも画伯的には要するに、それが再婚のときの決まり文句みたいなものなので大して考えずに採用したというだけのことのようです。

多くのギョーカイ人もそうなのかもしれませんよ。
「改善するけど治りません」が「お約束」だから採用しているだけかもしれませんよ。
そんなもん、真に受けることないですよ。

ということで

あとがきまた続きアップしますね。

というか

世の中の栗本さんにも画伯にも興味のない人から見れば、この記事がガールズトークなんですよね。
私には二人とも大事なんだけど。
とくに今は画伯。ペン入れお願いね。週明けにできてたら最高。

というオチでした。

身体アプローチから言葉以前のアプローチへ  浅見淳子 その2

2017-03-24 07:27:26 | 日記
 私がもともと身体アプローチに興味を持ったのは、「週五日、年間を通して働ける身体になったら(多少変人でも)つぶしが効くだろう」というのが理由だったのですが、その目標に向かって様々な実践家と出会いその都度本にしていくと、読んだ読者から「治った!」「よくなった!」等の声が上がってくるようになりました。それは本を出している本人が逆にびっくりするほどだったのですが、栗本さんと出会ってそれがなぜだかわかりました。
 身体の不具合がなくなると、芋づる式に治っていくのです。たとえば睡眠障害。睡眠障害が治ると日中活動の質が上がります。情緒も安定し、学習もはかどります。「自閉症だから睡眠障害は仕方ない」で終わらせず、「自閉症の人は関節の不具合を抱えていて、その結果『眠れない身体』になっていて、関節を育ててあげると眠れる身体になる」と理解して「関節を育てるワーク」をすると眠れる身体になり情緒も安定し学習もはかどり、その結果生まれつきのものと思われていた障害特性に困らなくなっていくのです。「眠れない身体」の持ち主にいくらスケジュールを導入しトークンを用意したところで「眠れる身体になっていない」のならご本人には不全感が残っているはずです。結局、本人をラクにするのが一番の近道のようでした。ご本人にとっても、周囲で支える人たちにとっても。

 そして『人間脳を育てる 動きの発達と原始反射の成長』の著者灰谷孝さんと出会い、「発達はピラミッドであり、発達障害とはピラミッドのヌケであり、それを埋めればいい」ことを明確に示していただきました。それまでも私たちは「発達障害者は発達する」と考えてきたわけですが、灰谷さんの説明により、それがなぜなのか明瞭に言語化されました。発達の障害とは、発達のヌケである。ならば埋めればいいだけ。それに気づかせてもらい、指針がはっきりしてきました。
 このころになると、「鍛えるのは残酷」と考え、それを私にぶつけてきた人たちの多くの心の底に「自分も、そして障害のある子たちも、訓練など施さずこのままで社会に受け入れてもらいたい」という思いがあるのに気づきました。発達障害の当事者にもその支援者にも、他者との愛着関係を築ききれていないという問題を抱えている人が多いことを神田橋條治先生の著作で学びました(『治療のための精神分析ノート』創元社)。人間は努力してこそ多くを得られるのに、そもそも努力すること、努力しろと呼びかけることが「いけないこと」だとみなす発達障害をとりまく人々の一般社会と隔離された感覚は、愛着の問題を抱えているからではないかと考えました。
 そこで心理士の愛甲修子さんに『愛着障害は治りますか?』を書いていただきました。愛着関係の発達もまたピラミッドであり、段階を追って発達していく。言葉で癒せる愛着障害と言葉では癒せない愛着障害がある。原初的に背負った愛着障害は、言葉では癒せない。けれどもあきらめる必要はないこと、深いレベルの愛着障害には身体からの働きかけが効果があること、というか、それしか効果がないことを学びました。

 そして気づいたのです、なぜ身体アプローチに効果があるか。
 それは、身体アプローチこそが「言葉以前の領域に働きかけるアプローチ」だからです。
 人間の発達は言葉のない世界が土台となってやがて言葉と出会います。
 発達障害の人たちは言葉以前の領域に不具合を抱えている人たちなのだから、それを治すために言葉以前のアプローチ、大脳皮質よりもっと下にある領域に働きかけるアプローチが必要なのは考えてみれば当たり前でした。

 そしてDSМが改訂されました。発達障害は「神経発達障害」という大項目にくくられることになりました。神経発達障害なら、身体全体の問題であることは自明の理です。神経は身体中に張り巡らされているのですから。
 身体アプローチを追求してきたのは間違いではない、と自信を持つようになりました。そしてこれまで使ってきた「身体アプローチ」という言葉をじょじょに「言葉以前のアプローチ」に置き換えていこう、と今は考えています。
 身体アプローチは身体を丈夫にするから効果があったのではなかったのです。
 
 本書で見てきたとおり、発達障害の人たちの困難さは言語能力以前の発達から始まっています。発達ピラミッドのところどころを抜かしながら育っていき、言語が出るころになってようやく定型発達者との違いが明らかになります。だから、言語能力より後に芽生える能力を伸ばそう、矯正しようとする。それでも効果がない。当然です。不具合は大脳皮質の機能だけにとどまらず、そこに至るまでの過程にもあるからです。そして大脳皮質だけの働きかけるアプローチや言葉によるアプローチでは、発達ピラミッドの土台には届きません。
 そして言葉以前の領域に働きかけたいのなら、身体に働きかける以外の方法があるのでしょうか?


続く



身体アプローチから言葉以前のアプローチへ  浅見淳子 その1

2017-03-23 09:23:43 | 日記



次作のあとがき、公開します。
長いので連載になります。

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あとがき

身体アプローチから言葉以前のアプローチへ  浅見淳子

 発達障害をテーマに出版活動をするようになり、すぐに身体面に注目し始めたのはいくつかの偶然の賜物です。
 そのひとつ目は、たまたま最初のころに出会った自閉圏の人たちが愛すべき人たちだったことでしょう。
 つきあってみると、愛すべき人たち。努力家でもあります。なのに、社会でなかなか居場所を得られない。働く場に定着できない。なぜだろうとつぶさに見ていくうちに、発達障害の人たちが抱える身体感覚の不思議さに気づいたのです。
 体温調節といった普通なら頑張らなくてもできることができていない(自律神経の不調)。自分の身体がどこからどこまでかわからない(ボディイメージの問題)。様々な過敏性があり他人と場を共有するのが困難。手ごわい睡眠障害がある。季節の変動にも翻弄されすぎる。
 そもそもこの社会で家庭の外に居場所を得るには、週に五日働く体力があるとつぶしが効く。ということで「この人たちが週に五日働ける身体になる方法はないのだろうか?」という問題意識は、二〇〇〇年代の初頭から抱いてきました。自閉症が社会性、コミュニケーション、想像力の障害とされ、実行機能障害としてのADHDが注目され始めたころです。
 二つ目の偶然は時代の流れです。私が発達障害と出会ったのは発達障害者支援法施行前夜で、なんとかこの人たちを就労の場につなげようと政治も動いており気運も高まっていました。支援制度も構築されつつありました。私自身は仕事から生活の糧、やりがい、社会参加、人とのかかわりなど多くを得てきた人間ですので、この愛すべき人たちにも仕事の場が得られるといいな、と単純に考えそのために貢献したいと思いました。
 三つ目の偶然は、私自身の事情です。私はたいした才能もなく人付き合いがうまいわけでもないのに、仕事場とそこでの評価には恵まれてきた人間でした。とくに際立った長所がなくても自分が仕事で成果を得られるのは、とにかくよく働くからだろうと考えてきました。だから社会性の障害があると言われる人たちでも一生懸命働けば、生きる道はあると考えました。働き者を拒絶する職場はないからです。そしてそのための資本は、なんといっても身体です。
 けれども発達障害の世界では、あまり身体に注目していませんでした。発達障害は生まれつきの脳の障害であり、一生治らない。そして社会性の障害である。これがほぼ統一見解でした。

 私は「一生治らない」という専門家たちの統一見解はすんなりと受け入れましたが、社会性の障害というところには疑問を持ちました。社会性の不具合と見えているものは、実は身体の不具合ではないのだろうか。これだけ身体感覚がずれていたら社会参加が難しくて当たり前なのではないだろうか。私たちがうるさくない音をうるさいと感じ、まぶしくない明かりをまぶしいと感じるのなら、同じ場にいるだけで相当つらい思いをしていることでしょう。自分の身体がどこからどこまでかわからなかったら、街中に出るのは恐怖を伴うでしょう。引きこもっていることは問題ではなく、むしろ自然なことなのではないでしょうか。
 社会性やコミュニケーションというつかみどころのないものを一挙にどうにかするのは難しいことかもしれません。けれども身体を丈夫にすることはできるのではないかと単純に考えました。それと、身体感覚のずれから一見社会性に問題がありそうな行動をこの人たちが取るとき、「心の問題」と深読みすることは不当なことなのではないかとも思いました。社会性の問題だと思うのは自閉症の人たちとも心を通じさせたい「こちら側の問題」をクローズアップしているだけで、ご本人たちにとっては「身体がしんどい」障害なのではないでしょうか。まずはこれを知ってもらおう。そう思って私はニキ・リンコさん、藤家寛子さんという二人の当事者の方たちと一緒に『自閉っ子、こういう風にできてます!』という本を出しました。
 そして大きな反響がありました。保護者からは「子どもがなぜこういう行動をするのかわかった」という声が多く、「よくぞ出してくれました!」と言ってくださる方たちもいました。その中に感覚統合の専門家の方たちがいました。発達障害の人々が抱える身体的な不具合に早くから注目してきた方たちです。
 私は感覚統合の専門家たちにききました。「自閉っ子たちが抱えているこの身体的な不具合。これって治るんですか?」。彼らは答えました。「治るとは言えませんが改善します」。
「治るとは言えませんが改善します」とは日本語として不思議な言い回しです。けれども発達障害の世界ではすんなり受け入れられているいわば「決まり文句」です。そして当時の私もすんなり受け入れました。「改善するのか。よかったよかった」という感じです。そして感覚統合についてお勉強し、何冊か本を出しました。

 数年経って気づいたこと。感覚統合は自閉症の人たちの不具合をよく理論的に説明している。そして介入して改善している(ところもある)。保護者の中にも感覚統合の効果を実感し、他の療育方法では改善しなかった特性が改善することに驚いて喜んでいる人たちもいる。
 けれども私が最初に「これが社会に出るうえでバリアになっているのではないか」と考えていた特性のいくつかを感覚統合は治せていない。睡眠障害。汗がかけないこと。そして季節に翻弄されること。こうした問題を感覚統合は解決しませんでした。さらに別の身体アプローチを探す必要がありそうでした。
 私がこうやって身体アプローチを追求している一方で、身体へのアプローチに全く興味のない人たちもいました。けれども身体性を考慮に入れない支援を受けていても、事態はあまり動いていませんでした。不登校の人は不登校のまま。家庭内暴力をする人は行動障害が止まらない。支援があれば支援があればと唱え、支援が出来上がってみたらそのほとんどが役に立たない。支援の場にすら居場所を見つけられず、長年社会から隔離されるうちに強いルサンチマンを抱くようになり、それが時には行動化する人もいる。私が最初に出会った自閉圏の人たちは愛らしい人たちでしたが、こうやってこじらせた自閉圏の人により家族ともども法的被害に遭ったこともあります(参考図書『自閉症者の犯罪を防ぐための提言』浅見淳子著 花風社)。なぜこれほど治せない支援が行き渡っているか不思議に思っていたときに「この先生は治す」という評判の精神科医神田橋條治先生との出会いがあり、書籍を一冊作らせていただき(『発達障害は治りますか?』神田橋條治著 花風社)、「やはり治す医師は身体に注目しているのだ」ということを知りました。そして実際、先生の外来に行った人たちが「運動とも言えない負荷のない身体アプローチ」で治っていくのに感心して数年が過ぎました。

 仕事となると一生懸命体力の限界まで取り組んできた私にとって、「よくなるために鍛える」という考え方はごくごく自然なことでした。けれども発達障害を抱えた人たち、その支援者を名乗る人たちの間では「鍛える」という概念自体が「残酷だ」と非難されることも多く、こちらに悪気が全くないだけに、何が残酷なのかわからず戸惑いました。また保護者の中には身体アプローチを一生懸命勉強し、なんとか子どもにやってもらいたいのだけれど子どもにその気がないことに焦っている方も多く見られました。
 そんなときに出会ったのが本書の著者、栗本啓司さんでした。障害児者向けの体操教室をしているというので見学に行き、自分も参加してとても楽しかったのですぐに「うちの読者の方たち向けに講座をやってみよう」と思い立ちました。募集をかけてみると、当時無名の講師だったにもかかわらず一日で満席になりました。それが二〇一四年のことです。つまり『自閉っ子、こういう風にできてます!』がベストセラーとなって十年経ったころには、身体アプローチに全く興味のない人とある人がきっぱり分かれていて、取り組んでいる人たちは無名の講師でも講座があれば行ってみたいと思うほど、その効果に確かな手ごたえを感じていたということです。

 そして一挙によくなる人が増えました。
 神田橋先生の治療にも東洋的な知恵が豊富で、西洋的なアプローチより東洋的なアプローチの方が「一挙に変わる」ことにびっくりしたのですが、それは栗本さんの実践、コンディショニングも同じでした。
 そしてなぜ一挙に変わるのか、本書をお読みの方にはご理解いただけだと思います。
 栗本さんは、新しい視点を教えてくれました。発達障害の人は「関節」や「内臓」にも発達の凸凹・遅れを抱えていることがある。それが情緒や学習にも及ぶ不具合の原因となっている。けれどもこれを今からでも育てる方法はあり、それはどこか療育機関に行かなくても家でもできるしお金もかからない。
 それを習って多くの人が家庭や支援の場でやってみて、生活の質をあげ、驚くほど短期間のうちに、長年困っていた一次障害的な特性すら治っていくのを目の当たりにしました。感謝の声が次々と届くようになりました。

続く(不定期)