さて、番組の途中ですが、ちょっとゆるいネタを入れます。実はこのネタ、連載中のあとがきにも関係してきますのでそのつもりで読んでください。
まずは豆柿さんにいただいたコメントを引用させていただきます。
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ガールズトークとダジャレ (豆柿)
2017-03-20 21:01:02
私はダジャレは言いませんし、女子ですが、ガールズトークも元々しないたちで、「自閉っ子のための友だち入門」の愛甲さんや浅見さんの章を読んだ時、自分も浅見さんみたいに、遺伝子レベルでガールズトークが意味不明なたちなのかな、と思ったりしました。「友だち入門」は前から家にあったんですけど、最近初めて読んで、もっと早くに読んでおけばと思いました。
私自身は、ガールズトークもダジャレも好まないんですけど、周りのガールズトークやダジャレを話す人たちとどう関わっていくか、というのが悩みです。
同世代や年上の同性の人からガールズトークされたりして、というか、知らない間に巻き込まれていたりするので、
正直、浅見さんがどうやって、ガールズトークやダジャレをする人と距離をとっているのか、気になっています。(私の場合、おじさんにガールズトークされたことがないので、そういう人もいるんだなぁ、と思いました)
おじさんやおじいさんに、ダジャレをふっかけられるのは、自分の頭の中だけで喜んでおけばいいのに、他人を巻き添えにするなよと思います。特に、気に入られようとしてなのか、美人だったり、若かったりする女の人(特に接客業の人)にダジャレを言ったり、訳の分からないコミュニケーションの取り方をしたりする人は生体レベルで拒否反応が出ます。
幼稚園児の頃、そういうおじさんを見ていても、分からないまま見てたんですけど、大きくなるにつれて、ダジャレを言う側と言われる側の心理が分かって、そういうおじさんのことをうわっと思うようになりました。
また、最近テレビで、SNSに写真をアップして「いいね」をたくさん取るのが流行りとか言ってたんですけど、それを見て、なんだか親父ギャグを言って受けて欲しい人と似た心理なのかなと思いました。
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私は豆柿さんのこのコメントにひとしきり笑い、それからまず、「ダジャレとガールズトークでは私はどちらがより嫌いだろう?」と考えました。結論はガールズトークでした。ダジャレは道端の石ころのようなもので、無視すればいいし、あまりにでかくて道をふさぐようだったら蹴り飛ばしてやればいいのです。豆柿さんは「自分の頭の中だけで喜んでおけばいいのに」と書いていらっしゃいますが、あれは脳の老化に伴う生理現象みたいなもので、垂れ流しになってしまうようですね。そしておじさんなりの積極奇異的なコミュニケーション手段なのかもしれません。
一方でガールズトーク。これはうざいです。一つの対応方法として、「思い切り軽蔑する」というのがありますね。あるいはたしなめる。あるいは理論化してやりすごす。先日饗宴の席で居並ぶ美女の一人が職業的な美女(つまり女優さんたち)をあれこれ格付けする栗本さんに対し「先生がもこみちだったらそういうの言ってもいいんだけど」と一刺ししていましたが、そうやってカンチガイを指摘してあげるのもいいと思います。この美女はその他にも「中学にいたわこういう男子」っていう名セリフをはいてくれて、すかっとしましたね。
私は栗本さんのガールズトークは、一種の無教養の賜物だと思っています。栗本さんはなけなしの読書力を身体方面の知識習得に費やしてしまっています(褒めてます)。名残をなのこりと呼ぶような基礎学力のない人は文語と口語を関連付けることができず読書がかなり大変になります。そのなけなしの読書力で必死に自分の仕事に関する本を読んでいるので(褒めてます)、一般教養を構築するところまで至らないのです。貧乏な人は主食を買うのが精いっぱいで副菜が買えず食卓が彩豊かにならないでしょ。それと同じことが栗本さんの読書力で起きています(ブ)。
そうするといきおい、話題はくだらない芸能ネタになります。そうやって職業的な美女(=芸能人)たちの格付けを上から目線でやってもそんな話に興味がある人は他にいない。だからひんしゅくを買う。そして相手が見つからない。それを「金がない」せいにしていますが、本当のところは
話がつまらないからだと思いますし、話がつまらないのはなぜかというと本を読まないことからきているかもしれません。
こうやって理論化してガールズトークをしのいでいます、私の場合。もちろん先日の美女のように「もこみち」とか「中坊」とかのキーワードで刺してあげる手もあると思います。
そして私は今回「友だち入門」を読み返してみて、自分が「決まり文句を取り交わして成り立つ人間関係」から一歩引きたい人だときちんと分析していたことを思い出しました。そして「ていうか決まり文句で成り立つような人間関係の中に入るのは浅見さんには遺伝子レベルで無理」と愛甲さんに指摘されてぱっと明るい気持ちになったのを思い出しました。そうだったのか! と。ということは決まり文句で世の中乗り切る人はそういう遺伝子をもっているのでしょう。
画伯は決まり文句で世の中乗り切る人のようで、前回二回目の結婚のときにも「こんな自分のところに(バツがついているという意味)来てくれて」とか言ってました。私は変なこと言うなあ、と思っていました。その気持ちが本気だったのかどうかは知りませんが、とにかく前の奥様に尽くしてたしいろいろ我慢していました。何を我慢していたかというと、ご飯にサツマイモが炊き込んであるのに我慢して、奥様がいないとき一人で銀シャリを炊いて食べたらおいしかった、とか涙ぐましいことを言うのです。サツマイモご飯なんて、うちだったらちゃぶ台をひっくり返すと思います(これしかないけどね)。
そして今回も「こんな自分のところに~」とか言い出したのを聞いて、今度はこっちが我慢できなくなりました。アンタ前回もそれ言ってたじゃん。そして腹が立つ理由が今度は私も言語化できました。それは愛甲さんと「愛着障害は治りますか?」を作ったからだと思います。
決まり文句の人間関係は、(私には見えないけど)中にいる人にとってはメリットがあるのかもしれない。でも二者関係でそれをやってはダメじゃないかね。前の時私が「変なの」と思いながら言わなかったことを後悔したので、今度ははっきり言うことにしました。愛甲さんの本も出たし。採用するかどうかは画伯の自由。ダジャレはスルーできても、決まり文句がスルーできない私です。
そして私のように決まり文句をスルーできないからこそ、ギョーカイがおかしなこと言ってるのに気づくんだと思います。「改善するけど治りません」という決まり文句。みんなよく意味も考えずこれを信じています。でもよく考えてみてください。「改善するけど」「治らない」ってすごくおかしくないですか?
画伯に「よくこんな自分のところにとかいうんじゃないよ」と言ったら、本気でそう思っているわけではないということなので安心しました。奥様だって主体性をもって画伯と結婚することを選んだわけだしね。それをさー「こんな自分のところに」とか本人が言うなんて、まるでババを引かせて申し訳ない、みたいな風に私には受け取れて奥様に失礼じゃないかと思ったのです。でも画伯的には要するに、それが再婚のときの決まり文句みたいなものなので大して考えずに採用したというだけのことのようです。
多くのギョーカイ人もそうなのかもしれませんよ。
「改善するけど治りません」が「お約束」だから採用しているだけかもしれませんよ。
そんなもん、真に受けることないですよ。
ということで
あとがきまた続きアップしますね。
というか
世の中の栗本さんにも画伯にも興味のない人から見れば、この記事がガールズトークなんですよね。
私には二人とも大事なんだけど。
とくに今は画伯。ペン入れお願いね。週明けにできてたら最高。
というオチでした。