さて、先日読んでいた本によると
人間の脳みそはふつう、入ってきた情報を適宜各部署に「よきにはからえ」と振り分けて保存しておくそうです。
それを必要に応じて持ってくるのが実行機能。
私が「自閉の神様が降りてきた」と呼ぶ状態はこれじゃないかと思います。
神田橋先生との対談を二日間分とって、脳みそぎゅうぎゅうになって、どうやって整理すればいいかうんうん悩んで寝て
起きると脳内目次が出来上がってくるような。
これはたぶん「実行機能」じゃないかと思います。
岩永先生にはよく、浅見さんの実行機能はすごい、と言われます。
ただし仕事場面限定(笑)。部屋の掃除とかには不思議なほど回りませんね~。
やはりリソースには限りがあるのでしょう。
で、自閉っ子の場合には
入力された情報の振り分けと、それを必要に応じて呼んでくるところにバグがあるのでしょう。
そしてトランジションエリアとかの工夫は、自閉の脳みそが苦手なところを外注しているわけですね。
人は朝起きてからの手順を、意識してやるわけではありません。
皆さんがご自身を思い出してもそうじゃないでしょうか。
朝食にいたるまでに、いくつかやることがあって、それはあまり意識せずにこなしている。
その日により、微妙に順番は入れ替わっていると思います。それでもとりあえずやるべきことはこなす。
それは「よきにはからえ」と各部署に振り分けられた記憶が戻ってきて仕事をしているのです。
意識してやることではないから、覚醒しきっていなくても身体がこなす。
そして朝食を食べることを忘れないのはなぜか。
空腹だからです。
でも自閉っ子は体感が弱いかもしれないし、空腹感が強くないかもしれないし
そうすると朝食にありつくまでのモチベーションが低いかもしれません。
そこにもってきて、「今やるべきこと」を意識しないことには思い出せない。
「よきにはからえ」と振り分けた手順がちゃんと部署についているかも怪しいし
自然に呼び出せないのですね。
だから自主的に動かず、指示が入るまでパジャマでテレビを見ることになる。
スケジュールや構造化は、だから自閉の人にとっては「支援」というより
「脳みそのバグっているところを外注している」感じなのではないかと私は思いました。
スマホは私たちにとっても外付け脳みそです。助かってます。
それと同じようなものなんじゃないのかな。
じゃあ、
TEACCHのTがTreatmentのTなのに
いまいちそれがぴんとこないのはなぜなのか。
それはやはり、日本での自閉症支援の広がりが
「治らない」ということを強固に信仰していることと関係があると思います。
アメリカにはそれほど治らないという思い込みはないように思います。
「自閉っ子と未来への希望」にも書きましたが。
私はTEACCHの予算削減とかの動きは、アメリカが本気で「治す」方向にむかおうとしている証だと思います。
治っちゃえばまどろっこしいものに予算はいらないと考えるのは自然。
それよりも遺伝子研究とか、そっちのほうにアメリカは進んでいるんでしょ?
そもそも「発達障害はスペクトラムである」ということと「絶対治らない」って両立不可能だと思うのです。
だってどっかに線があるわけじゃないわけだから。
だけど日本では、絶対に治ってしまっては困る人々がいる、
そういう人は、自分が治りたくないだけではなく、他人も治るのがきらい。
だから余計なツッコミを入れてくるわけですね。
TEACCHの試みの中には
自閉脳の苦手を外注しているという意識が当然あって
そして神田橋先生と同じように、脳をラクにするという営みが発達に結びつくという前提があるのなら
当然TEACCHは治療なんでしょうね。よく知らないけど。
TEACCHは発達援助なんでしょうね。
ただの支援ではなく。
よく知らないけど。
NCではそうとらえているんじゃないでしょうか?
違う?
NCで診断治療を受けてきた方の経験なんかきくと
どうしてもそういう気がしてしまうんですけど。
けっこう修行みたいだし。
でも日本にはTEACCHを「支援」にとどめておきたい人たちがいる。
自閉症が治っては困る人たちがいるみたいですね。
その人たちにとって、TEACCHはあくまで支援でしかない。
発達援助とは見なさない。
人は誰でもでこぼこを持っています。
だからもともとのでこのところは伸ばすのも限りがある。
でもまったく打てる手がないわけじゃない。
本質的な改善。
私はそれが「治る」ということだと思っています。
神田橋先生は、ちゅん平の上に起こったことは本質的な改善だと言われましたね。
だから今になって本当に
「治らないという考えは治りませんか?」っていう神田橋先生の言葉がしみじみすごいなと思うのです。
本に書いたように私は「治るかもしれない」というスタンスです。
それと「治る人と治らない人がいる」と思っているし
「治ってもまだ自閉症の人はいる」と思っているし
まだこの国には、治したくない人は治さないでいる自由があるのでしょう。
私がいやなのは
「治った」と喜んでいる人に、自分たちの勝手な「治らない信仰心」を満たすために証明せよと迫る人々です。
とくに医者が編集者にやるのはサイアクだと思っています。
人間の脳みそはふつう、入ってきた情報を適宜各部署に「よきにはからえ」と振り分けて保存しておくそうです。
それを必要に応じて持ってくるのが実行機能。
私が「自閉の神様が降りてきた」と呼ぶ状態はこれじゃないかと思います。
神田橋先生との対談を二日間分とって、脳みそぎゅうぎゅうになって、どうやって整理すればいいかうんうん悩んで寝て
起きると脳内目次が出来上がってくるような。
これはたぶん「実行機能」じゃないかと思います。
岩永先生にはよく、浅見さんの実行機能はすごい、と言われます。
ただし仕事場面限定(笑)。部屋の掃除とかには不思議なほど回りませんね~。
やはりリソースには限りがあるのでしょう。
で、自閉っ子の場合には
入力された情報の振り分けと、それを必要に応じて呼んでくるところにバグがあるのでしょう。
そしてトランジションエリアとかの工夫は、自閉の脳みそが苦手なところを外注しているわけですね。
人は朝起きてからの手順を、意識してやるわけではありません。
皆さんがご自身を思い出してもそうじゃないでしょうか。
朝食にいたるまでに、いくつかやることがあって、それはあまり意識せずにこなしている。
その日により、微妙に順番は入れ替わっていると思います。それでもとりあえずやるべきことはこなす。
それは「よきにはからえ」と各部署に振り分けられた記憶が戻ってきて仕事をしているのです。
意識してやることではないから、覚醒しきっていなくても身体がこなす。
そして朝食を食べることを忘れないのはなぜか。
空腹だからです。
でも自閉っ子は体感が弱いかもしれないし、空腹感が強くないかもしれないし
そうすると朝食にありつくまでのモチベーションが低いかもしれません。
そこにもってきて、「今やるべきこと」を意識しないことには思い出せない。
「よきにはからえ」と振り分けた手順がちゃんと部署についているかも怪しいし
自然に呼び出せないのですね。
だから自主的に動かず、指示が入るまでパジャマでテレビを見ることになる。
スケジュールや構造化は、だから自閉の人にとっては「支援」というより
「脳みそのバグっているところを外注している」感じなのではないかと私は思いました。
スマホは私たちにとっても外付け脳みそです。助かってます。
それと同じようなものなんじゃないのかな。
じゃあ、
TEACCHのTがTreatmentのTなのに
いまいちそれがぴんとこないのはなぜなのか。
それはやはり、日本での自閉症支援の広がりが
「治らない」ということを強固に信仰していることと関係があると思います。
アメリカにはそれほど治らないという思い込みはないように思います。
「自閉っ子と未来への希望」にも書きましたが。
私はTEACCHの予算削減とかの動きは、アメリカが本気で「治す」方向にむかおうとしている証だと思います。
治っちゃえばまどろっこしいものに予算はいらないと考えるのは自然。
それよりも遺伝子研究とか、そっちのほうにアメリカは進んでいるんでしょ?
そもそも「発達障害はスペクトラムである」ということと「絶対治らない」って両立不可能だと思うのです。
だってどっかに線があるわけじゃないわけだから。
だけど日本では、絶対に治ってしまっては困る人々がいる、
そういう人は、自分が治りたくないだけではなく、他人も治るのがきらい。
だから余計なツッコミを入れてくるわけですね。
TEACCHの試みの中には
自閉脳の苦手を外注しているという意識が当然あって
そして神田橋先生と同じように、脳をラクにするという営みが発達に結びつくという前提があるのなら
当然TEACCHは治療なんでしょうね。よく知らないけど。
TEACCHは発達援助なんでしょうね。
ただの支援ではなく。
よく知らないけど。
NCではそうとらえているんじゃないでしょうか?
違う?
NCで診断治療を受けてきた方の経験なんかきくと
どうしてもそういう気がしてしまうんですけど。
けっこう修行みたいだし。
でも日本にはTEACCHを「支援」にとどめておきたい人たちがいる。
自閉症が治っては困る人たちがいるみたいですね。
その人たちにとって、TEACCHはあくまで支援でしかない。
発達援助とは見なさない。
人は誰でもでこぼこを持っています。
だからもともとのでこのところは伸ばすのも限りがある。
でもまったく打てる手がないわけじゃない。
本質的な改善。
私はそれが「治る」ということだと思っています。
神田橋先生は、ちゅん平の上に起こったことは本質的な改善だと言われましたね。
だから今になって本当に
「治らないという考えは治りませんか?」っていう神田橋先生の言葉がしみじみすごいなと思うのです。
本に書いたように私は「治るかもしれない」というスタンスです。
それと「治る人と治らない人がいる」と思っているし
「治ってもまだ自閉症の人はいる」と思っているし
まだこの国には、治したくない人は治さないでいる自由があるのでしょう。
私がいやなのは
「治った」と喜んでいる人に、自分たちの勝手な「治らない信仰心」を満たすために証明せよと迫る人々です。
とくに医者が編集者にやるのはサイアクだと思っています。