治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

クリエイティブな世界はゴミ捨て場ではない

2013-03-31 07:21:10 | 日記
「脳みそラクラクセラピー」の御注文とともにいただくメッセージの中に
「花風社の本と出会って、医療や教育の現場で感じていた疑問、やっぱり疑問に感じていいのだと裏付けられた」という声が結構ある。

「頑張らなくていいんです」という呼びかけに
「本当に頑張らなくていいのか?」と疑問を抱いてきたという。
でも、当事者も保護者もやがて気づいていく。
実際には頑張らないとどうにもならないことに。

「自閉症者の犯罪を防ぐための提言」を読んで
「ああ、修行していいのだ」とわかったという声もあった。
要するに、それだけ「頑張らなくていいんだ」→「社会が合わせるべきだ」という洗脳が強力だったんでしょうね。



よく、「発達凸凹の人はそれだけ優れたところもあるのだからそこを活かしていけばいい」
ということを安易に医療の現場とかで言われてそれはそのとおりなのだが

なんか釈然としないものを感じる。

だってクリエイティブな世界でちゃんとやってる人って、たしかに変人ではあっても
きちんと社会人だし。
そこが知られていないんじゃないかな、っていう気がするのだ。

営業したり、締め切り守ったり、クライアントの注文を読み取ったり、ダメだしされてもまたラフ出したり、そういうことの繰り返しですよ。

そうしたら昨日画伯が面白いこと言っていた。

たしかに「アーティストは非常識」みたいなのはあるんだろうけど
「それなりに食べて行ける連中はその途上で社会に鍛えられる」んだそうだ。

そうかもね。

結果として食べて行けない人たちが非常識さを保ち続ける。

そしてきっと、医療にいる一部の人たちが簡単にクリエイティブな世界なら偏ってもやっていけるのではないかと言うのは
ある意味でクリエイティブな世界を低く見積もってるんだろうね。

そこもまた、社会であることに気づかないんだな。

皆さんの予防策としては
そういう世間知らずのアドバイスを真に受けないことです。
どこかの世界に入りたかったら、そこでちゃんと食べていっている人の意見を聞いて下さい。
医者でも心理士でもなく。
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仕事があるので行けません(青いお祭り)

2013-03-29 09:40:00 | 日記
ちゅん平が地元でやる青いお祭りに誘われていた。

「お誘いありがとうございます。残念ながら仕事があるのでいけません」と丁寧に言っていた。

かっこいいいいいいい!

「仕事があるのでいけません」

これをさらりと言えるような状態になるまでの、家族の悩みと支援、本人の頑張り、支援者の協力をずっと見てきただけに、感激もひとしおである。

「仕事があるのでいけません」

これ以上の啓発があるでしょうか?

青いろうそく持って歩くより、ずっと世の中に訴える力あります

いつかはお祭りがなくなる世の中になるといいね。

あ、でも自閉っ子たちが全員「仕事があるのでいけません」になっても
プロ市民は残るのね。

プロ市民がやる分には、まあしょうがないよね。


プロ市民じゃなく、自分や我が子の社会進出を真剣に考えている方は
青いお祭りよりこっちが役に立ちます。



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被後見人の選挙権喪失違憲判決に対する政府の控訴を支持します

2013-03-28 11:30:00 | 日記
この手紙を書いたとき、8歳だった少年には、当然あと10年ほど選挙権はない。
社会保障やら貿易協定やら
この国のかたちを決める国政選挙によって影響をうける度合いは私たちより大きいかもしれないけど
今度の参議院選挙にも選挙権はない。
そのように取り決められているからである。

線引きっていうのは、ないといけないものなのだ。
ただどこで線引きをするかが問われるのだと思う。
そしてこの国では、どんなに賢い少年だろうと20歳になるまで選挙権が与えられない。
実際には聡明で問題意識の高い十代もいるだろうし
無気力でなんの勉強もしていない40代もいるだろうが
とにかく20歳を線引きとしている。
そしてその理由は「判断力」っていうことになっている。

ならば20歳を過ぎても、判断力が8歳だったら選挙権はあるのか?

日本国民である以上ある、という判断をされてきた。

ただその人が、財産管理のために後見人をつけたということは
判断力がない、と公に認めたことになるので
選挙権を喪失する。それが今までの理屈だったと思う。

それに対して裁判を起こした人がいた。
財産管理が心配で後見人はつけたけど
政治には関心を持ち、新聞を読み、その都度自分で判断して投票してきたという。
記者会見などを拝見する限り、聡明なダウン症の成人の方。

ならば同じ障害者でも、聡明な人とそうじゃない人では変わってくるのか?
たとえばこの原告の方とは違い、判断力がないケースも中にはあるだろう。
その場合、周囲の意見が通ることになり
「一人一票」の原則が崩れる。

この国では、いい家に生まれようと、貧困な家庭に生まれようと、一人一票。
納税額にかかわらず、一人一票。
生活保護受けていようと、大金持ちだろうと、一人一票。
健康でも病弱でも男でも女でも、一人一票。
一票を得る権利はただ「20歳以上で日本国籍」これだけである。

そこが崩れるかも知れない線引き。
ただそれがあるせいで、後見人制度を使うのをためらう人が多かったら、その被害は大きい。
だからこそ、とことん議論を尽くしてもらいたい。
その上で法改正を検討してほしい。
だから私は、きちんと控訴した政府を今回は支持します。

控訴自体を、差別的な行為と見るいつもの福祉テンプレ的な見方には
激しく違和感を感じます。
「健常者に人権なし」という言葉が浮かびます。
控訴することは、障害者差別の助長ではないと思います。
民主主義を守る行為だと思います。

むしろ障害者の社会における立場をとことん考えて法改正に結びつけるための手続きであり
「そこのけそこのけ自称弱者が通る」の前政権が続いていたら、と思うとぞっとします。

そして当然、一人一票の原則を守るのなら
同じように違憲判決が出ている一票の格差についても是正を望みます。
あれは大都市住民に対する蹂躙ですからね。
もともと都道府県という単位は、ファンタジーに近い。薩長がどさくさまぎれで決めた境界線です。死守するほどのもんじゃないと思う。
そこから考えなおしたら、飛行機の飛ばない無駄な空港とか
県が見栄の張り合いで作ることもなかったでしょう。

私は個人的な考えでは、後見人制度が使いやすくなるのなら
一人一票の原則崩れてもいいんじゃないの、と思ってます。
ただそれを、正直に認めてほしいんですよ。無理だろうな。

でも今の展開だと、それこそ障害者の中でも判断力で線引きされそうですよね。
だったらとにかく
「20歳以上で日本国籍」という線で正直に押すっていうのはダメなんですかね。
今回控訴されたケースなんかだと
「判断力認めろ」っていう感じに取れるんですけど。

だってねえ
実際別に障害者手帳持ってなくたって、票のとりまとめとかやってる人は、自分の判断力なんて行使してないわけだしね。

というのは通じないんだろうな、たぶん。

ともかく

控訴は正当な手続きなので
「差別ガー」には違和感感じます、っていうことです。
「正当な手続き」を「差別」に置き換えるのは
いつもの福祉的テンプレですけどね。



コメント

だいぶ風通しよくなってきたなあ

2013-03-27 18:30:00 | 日記
まあ、発達障害の世界も、だいぶ風通し良くなってきたなあと思います。
発達障害「発見」の頃の「(しばしば被害者意識に近いものを共有した)仲間作り」っていうのは、
まあ過渡的に必要とされたもんなんだろうけど、それなりにわずらしいところも多かった。
その頃から独立独歩でやっていた方も多かったわけですが
今はそれが、ネットの発展もあり、ゆるーいつながりになって
ほどよい距離がつかめてきたのかもしれませんね。

ある意味、情報の流通も風通しよくなってきたと思います。
最近、成人当事者でも「社会の理解ガー」とか「自分たちが生きづらいのは社会が悪いから」の
いわゆる「ルサンチマン系」の人たちに対し
「自分はそれに与するつもりはない」とはっきりいろいろな場で宣言する人たちが出てきましたけど
(ちゅん平の京都の講演会も、一部そういう話出ました)
こういう風に、成人当事者が「自分は社会に寄り添うことを選ぶ」という自分の立場をはっきり表明できるのも
風通しよくなってよかったな、と思います。

社会は障害だから排除するんじゃありません。
ルールを守らないから、一定の期待を満たさないから排除するんであって
その人に障害があるかどうかは関係ありません。
障害者のまんま、社会に寄り添うことは可能です。現に多くの人が実現しています。
しかも今は昔より、制度の後押しもあるのです。
そのことに気づく人が増えて、しかも遠慮せずそれを明言できるようになったことを、私はとても嬉しく思っています。

もう一個、「風通しよくなってきたなあ」と思ったのは
「脳みそラクラクセラピー」のご注文とともに寄せられたメッセージの中に
「この前のクローズアップ現代つまんなかった」とはっきり書いてきた人が結構いたことです。
昔は、とにかくNHK総合で発達障害が採り上げられたことだけで感激に打ち震えなきゃいけないのがお約束みたいなところがあり
とくに「大本営発表」みたいな内容には、あえて「つまんない」と正直に言う人がいなかったように記憶しています。
でも今は、支援を受ける側が「あれじゃあ、社会に通じないよね」ってさらりと言えてしまう。
時代は変わったな、と思います。

というわけで、去年の夏にした経験を今になって話す気になりました。
死んだふり祭り、自閉症協会の全国大会での出来事です。

就労支援のセッションに出ました。
セッション自体は、興味深いものでした。実際に雇用していらっしゃる企業の方のお話とか、地域支援している方々のお話とか。ふむふむふむ、と聞けるものでした。
見学に行きたいなあ、と思ったり、ここまでは大納得の内容でした。
別にギョーカイの集まりだったら、なんでもかんでも文句つけるわけではありませんよ、私だって。

ところがそこに「小沢チルドレン」のよい子民主主義系の政治家の人が(聴講者として)来ていて
その人が持ち出した問題に対するギョーカイ人たちの反応を見て
私は激しく違和感を覚えました。

サイコテスト、っていうのがあるそうです。
これは一応、人材派遣等、人材がいわば商品である企業向けへの展開とされていますが
労働者(候補)のメンヘルリスクをチェックするテストみたいなもんだそうです。
働きはじめて不調を起こしたり、社内でトラブルメイカーになったり、そういう被雇用者は生産性にとってマイナスです。
だからそういう人を雇わないように、事前にチェックしようという
そういう発想のものですね。

そしてその政治家の人は「こんなもの使われたら自閉症者は雇われなくなってしまう。人権問題だ」みたいなことを言いだし

それに対し、会場を埋めるギョーカイ人から「そうだそうだ」の声が上がり
そして私は「へえええええ」と思いながら、化外の民として、その様子を観察していました。

その後にね、医療のセッションがあったんですけど
そこでも貴重な時間が親学への批判という実にムダな使われ方をしました。
本当に医療の話、すなわち「目の前の患者をラクにすること」について話したのは長沼先生お一人でした。

私が「メンヘラーを排除するためのサイコテスト」なるものを聞いて、最初に思ったのは
「人材っていうのは人材派遣会社にとっては商品だろう。そして商品チェックだから、人材派遣会社が使うのはまったく倫理的に問題ないだろう」ということでした。

それをいっぱんの企業が使うことを、並み居るギョーカイ人たちは気にしているようでしたが
それもまあ、民間がやることをどこまでギョーカイ団体が規制できるのか
やり方によってはまたいつもの「一般社会から見るとちょっと不思議な圧力活動」になるだろうなと思いました。

そして自分がもし保護者当事者だったら、ていうか別に障害がなくても
そもそもそういうテストを導入するところには近づかないという判断をするだろうと思いました。
そういうの安易に使うところは
人間関係のダイナミズムに鈍いところだし
人間の多様性に意識低い系であるという目印になりますからね。
働きやすい職場であるわけがないのです。だから最初から排除。こっちから。

だから私から見ると「サイコテスト」なるものはどっかの企業が考え、どっかの企業が使うことを選んだり選ばなかったりする一つの企画に過ぎず
使おうと使うまいとそれは企業ごとの判断で
障害者差別にまったく結びつかないものでした。
それを差別に結びつけてしまう小沢チルドレン、これは面白いもの見せてもらったな、と思いました。
こうやって差別をでっちあげてそれに抗議しているワタシ。
こうやって票を獲得するのが政治なんですかね? (まあこの前の選挙では、あんまり効果出なかったみたいですけどね生活のなんとかさん)

それよりも私が深く絶望したのは、勝手に差別でっちあげてアジテーションする政治屋さんに
あっさりとつられてしまい「これは差別だ」と同調するギョーカイ人に対してでした。

「ああ、この人たちは、自閉症者である以上このサイコテストなるものではじかれると信じてやまないんだ」という気持ちでした。

あんなものに引っかからない自閉症の人はいくらでもいます。
二次障害がない人
あっても克服した人。
社会を恨まない人
いくらでもいます。

そういう人を増やすのが支援じゃないんでしょうかね?
そのための早期介入、特別支援教育じゃないんでしょうかね?

「自閉症者とは、サイコテストなるものではじかれる存在である」と決めつけ
医療の限界もそこに設定しているから
貴重な医療の時間に親学の批判なんかやっちゃうんですかね?
言っときますけど
医療の時間に親学の批判されてがっかりした人は私だけじゃないですよ。
医療こそ、支援の核なんだから。

治らないと決めているから
治そうとしている長沼先生の実践報告を勝手に被害的にとった猿烏賊系の質問にへいこらご機嫌取りするんですかね?

親の会、どこも高齢化とか
診断される人が増えても、会員増えないとか
仕方ない気がします。

先日もある支援者の方が話していたこと。
「診断され、親の受容が大変で、そのために保護者の団結が必要とか
もうその発想自体が古いのかも知れない。
前の世代には、そこがもうわかってないかも」

ああ、そうかも、と膝を打ちました。

今の保護者が必要としている情報
それは「どうやったらよくなるか」です。
花風社の周囲には、有意にそういう人が多いでしょうが、
少なくとも一部には、「社会の理解を求める方法」より「障害があるなりに脳を健康にする方法」を求める
そういう人たちがいます。多いと思いますよ。
どうしてそう思うかと言うと
「脳みそラクラクセラピー」というコンセプトへの反応の早さからそう思います。
私が最初にここで発表したのは「タイトル」だけです。
著者もなんにも発表しなかった。
でもそのタイトルだけで「読みたい」と言った声がいっぱい上がった本です。

主な関心が「どうやったらよくなるか」にある人は
社会の理解ガーとか、青い東京タワーとか、あんまり興味ありません。
ABAとTEACCHとどっちが正しいかとか、まったく興味ありません。

サイコテストに抗議なんていうむなしい上にみっともないことをやるのではなく
サイコテストに引っかからないような子どもを育てる情報を欲しています。

それが提供できない親の会や支援者のもとに人が集まらなくても
それは不思議ではないと思います。
支援者の皆さん。あなたが今何歳で今後何年今の仕事を続けるかわかりませんが
「一生治りません」を受容してくれる人は減っていきますよ。どんどん。

そのあたり、需給のギャップがあるかもしれません。

もちろん、啓発やりたい人、特定の療法の布教をやりたい人はやればいいです。
支援者でも保護者でも。
エビデンスガーの馬烏賊さんたちは、「発達よりエビデンス」の海老踊り軍団と仲良くやっていればいいです。
海老踊り軍団は、嬉々として馬烏賊系支援者の生け贄となってくれるはずです。だって彼らにとっては、それが一番大事なようだから。

大事なのはどの立場を取っても、ちゃんとそれが表明できること。
そしてそこに、役立つ情報があることだと思います。

写真は瀧澤久美子さんが警察関係機関に啓発に行ったとき買ってきて下さった警察限定剣道キティちゃんです。


大事な啓発っていうのはそういうところにあるの。
地域支援の人が、警察に障害に関する講義に行ったり
そういうところにあるんです。

少なくとも
民間がリスク取ってやってることに議員(落選)がドヤ顔してプレッシャーかけるとこにはないはずです。
私の感覚では、すごくいやですこういうの。
でもそういう政治家が、ギョーカイではそれなりに大事にされちゃうんですね。面白いものを見ました。

でも、そういうでっちあげ差別とそこへの抗議で拍手喝采。
それは国民の「総意」ではありません。
いえ、障害者関係者の「総意」ですらありません。
(まあ国民の選択を見誤ったからこそ、あのひとたちは惨敗したんだろうけどね)

そんなつまんないことやっている間に
やることいっぱいあるはずです。

私はサイコテストなるものに抗議したりしません。
そういうものに引っかからない人を増やす活動をします。

その活動の帰結がこの本たちですけどね。

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馬烏賊の見分け方 その1

2013-03-26 09:07:23 | 日記
さて、「癒やすよりエビデンスガー」の馬烏賊系支援者について書いた記事を見て
生存報告をしてくれた人がいました。
本当にいるんだって、馬烏賊。
「コントロール群作れ」っていとも簡単に言うそうですよ。
つまり、意図的にある群の子どもの未来より、実験を優先させる研究者は本当に実在するらしいですよ。

怖いねえ。
ぶるぶる。
そういう支援者に引っかからないといいねえ。

お願いだから馬烏賊の皆さん。
発達重視の花風社の本をご愛読くださる皆様には、手をつけないでくださいませ。
おたくらにはうってつけのパートナーがいます。
そう、海老踊り集団。
我が子の発達より、再現性のある方法を見つけて親仲間に吹聴するのが大事。
だいたい発達しろなんて差別!
発達より大事なエビデンス。
そういう気の合う一群も確実に存在しますので、実験群にも統制群にもそういう人たちを使ってね。

でも心配ないみたいだ。
ある地方で、ペアレントメンターの講座やるらしいんだけど
興味持った人がいたんだけど、参加条件が厳しいんだって。
それで透けて見えたのは
「これは親を助けたいんじゃなくてなんかの実験をしたいんだな」ということ。
だから参加やめたって。
発達援助を大事にする人には
馬烏賊よけセンサーも備わっているみたいです。

皆さんの地方にも来るかもしれないから気をつけてね。
いや、もちろん実験に協力したい人は別。
どんどん協力すればいいと思う。なんかのためになるんでしょ。
馬烏賊の論文のためとか。

そう。馬烏賊に引っかからないための見分け方。
それは、癒やす職業でありながら、どっちかというと癒やすより
「社会の理解ガー」系の発言をたくさんしている人。
そういう人はそういう人できっと(私の知らない)使い道があるのだと思いますが
発達援助志向の皆さんのお役には立ちませんので

とりあえず
「社会の理解ガー」系の人は
遠巻きにしてみてた方がいいと思います。
外に向かって仲人口利くのは、黙って見ててもいいけど
(社会もそれ信じるほどバカじゃないけどね)
内側の人間が仲人口を真に受けるとダメージ大きいのでお気をつけて。
「あれは仲人口なんだ」と自分に言い聞かせておいたほうが無難です。

*それにしても、画伯が描くと猿烏賊も馬烏賊もかわいいよね。今度はこれ絵はがきにしようかしら(ウソ)。
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あの感動はなんだったんだろう

2013-03-25 10:20:02 | 日記
新刊出し終わって、京都の講演が済んだら、ちょっとはゆっくりできるはずだったのです。
でもそうはいかない。
本ができても、そのあと営業マターがあるし
それが終わったら、なんだか「どうしても」ということで頼まれることとかあるし。
お相撲も、あんまりきちんと見られない日々でしたよ。

というわけで、お花見&お相撲のウィークエンド。
それなりに近所でお花見する時間やお相撲見る時間も確保しながらも
仕事から手が離せないのでした。
んでも、なんとか13:00過ぎにはノルマ終わらせて
それからご飯、お花見。そうするともう十両の途中。
ふ~。

でも仕事って、ごくごく単純に「その日にやらなければやらないことは絶対やる」の繰り返しでできているので
やっぱりここを守れないと、社会人としてはダメなのよ。
それがやれないのなら、社会の理解ガー以前の問題よ。
ルサンチマン系の皆様には、百年経ってもわからないと思いますが。

さて

そうやってようやく見られたお相撲。
雅山関の最後の死闘を見られました。
好きなお相撲さんだったよ~。引退に涙涙。
でも性格が男前だから、きっと親方としても活躍なさるに違いない。
ありがとうございました! これからもよろしくお願いいたします!

んで、どんどんどんと取組は進んでいき

我らが稀勢の里。
○●○●○●○●○○○●○○○

でなんと中日で四勝四敗のあと
六場所連続二桁に乗っけました。
なんという帳尻合わせ能力!
そして前半のあまりのていたらくを見た後で
二桁で安心する私たち贔屓。場所前は優勝を期待していたんだけど。
つくづく稀勢の里は贔屓を操るのがうまいと思います。
最後にこんな強いとこ見せられたらまた五月期待しちゃうじゃないかああああ。
たぶんご本人には操っている気持ちはなく、ただ必死なのだと思いますが。

でも疲れるよほんと。

そして千秋楽の結びも死闘。
日馬も最後に意地を見せました。
まあ今日あたり、横審からまたおとがめが来るのは想定内ですけど。

そこでまあ、ジム行こうかなと思ったけど
一応表彰式の最初の方だけ見ることにして

そして優勝者インタビューのときに、いきなり白鵬関が
「皆さんで大鵬さんへの黙祷を」と言い出され

私もテレビの前で黙祷しました。
涙が流れた。

あの感動はなんだったんだろう。

なんか、自分を越えた大きいものへの配慮を、ちゃんと持っているんだな、っていう感じかな。

そして思い出したのは
木下音感楽院の木下麻奈さんが先日書いていらしたこのブログです。

私はフィギュアはそれほど熱心に見ませんが
まあ見てきれいなものだし、日本は強いし
見るのが楽しい競技の一つですよね。

そして、採点やなんかが取りざたされていて
そりゃもちろん、2002年のことを振り返ると、なんかあったのかもとか思うし

ブランクを作っていたキムヨナ選手は、安全策で
それに比べ浅田選手は、難易度の高い技に挑戦していて

とか言われると「ふ~んそうなのか」と思う素人ですが

それにしても現実の演技を見せられると
キムヨナ選手のオーラはすごいですよね。

私はご存じのとおり、けっして親韓のひとじゃないけど(婉曲表現)

でもやはり技とかよくわからない素人目だからこそかもしれませんが
やはり(悔しいけど)オーラの違いが際立っています。

そして上記の麻奈さんのブログを読んだとき、その謎が解けて

「あああ、やっぱり他人のためにやっている人は強いなあ」と思いました。
たぶん昨日の白鵬関に感じたのもその感動だったのかも。

今朝起きたら、元朝青龍関が
「朝青龍と日馬富士はモンゴル人、白鵬は日本人」とかつぶやいていましたが
それは日本人を買いかぶりすぎです。
今の日本人で、あれだけの人はいません。

自己実現、っていう言葉に私は一抹の小ささを感じることがあるんですけど

こういうことなのかなあ。

自分が好きでやっているだけの人より
天に命じられてやっている人って強いと思います。
天が味方しているからね。

写真は「脳みそラクラクセラピー」の直販おまけについてくる
「花風社オールスターズ」の絵はがきです。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
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合理的な選択ですか?

2013-03-24 08:20:06 | 日記
「脳みそラクラクセラピー」を通じてもう一つわかったのは
私が売られた喧嘩を買うことができるのも
別に嫌われたっていいという前提で行動できるのも
基本的な愛着の土台に不自由してこなかったからだということです。

どこかで見捨てられ不安とか感じたことがある人は
「正しい」と思っても嫌われると思ったら口をつぐんだり
そういうことがあるのかもしれません。
私は心のどこかで
「いくら嫌われても、私を好きな人は絶対いなくならない」っていう安心感があるのだと思います。

家族との愛着はアプリオリに与えられたものだとしても
たとえば読者との関係は
後天的に築いてきたものです。

先日ある場所で、ある出版業界関係者(わりと障害関係の本を出しているところ)に出会ったのですが
「浅見さん、最近本あまり出さないで講演に忙しいんじゃないですか?」と言われました。

自分としては、本作りに携わらない日はないので
(原稿に直接着手してなくても取材とか下調べとかはしている)
そんなに本を出していなかったっけ、と思ったのですが
よそに比べて点数が少ないことには変わりはありません。

本というのは金融商品ですから
とにかく数出さなきゃいけない面があります。
それを避けてやってこられたのは
うちの場合、売れない本がないからです。

どうやら「これはいまいち」と思っても、金融的に出さなければいけない本がある会社もあるようで
そういうことを、とりあえずうちはしなくていい状態です。
そう申し上げたら
「しなくていいのならしたくないけど」とおっしゃっていました。

花風社の本が出ると、必ず買って読んでくださる読者層が一定数いる。
それは私が「これはいまいち」と思う本を出すようなまねをしてこなかったからです。
数あわせの本を出さないことで
「読めば必ず実りがある」という読者層を得てきたわけですので
つまり、長年かかって築き上げてきた財産ですのでね。

一方で、このブログやついったーでの私を見てそりがあわず
「絶対に読まないぞ」と決意している人もいます。
それはそれで、決断ですからいいのではないかと思います。

けれどもそのひとたちが
そういう花風社に一定数の読者がいるのが腑に落ちず
かといって試しに読むだけの根性もなく(あるいは吉川センセイ的にみみっちいのかもね)
あれこれ酸っぱいブドウして
時には読者をバカ呼ばわりしていると、腹が立ちますね。

ブログやついったーを見て(なぜか嫌いなわりに一生懸命見に来るんですけど)
自分がそのノリが嫌いだからどうやら役に立てている読者もいるようだけど花風社の本は読まないというのなら
それは「子どもがよくなる可能性より自分の嫌悪感を優先させた選択行動」であり
エビデンスガーでもクリティカルシンキングでもなく
きわめて感情的な選択をしているということです。
それを自覚したほうがいいですね。

別にそれが悪いとは思わない。
けれどもその決断を自分に納得させるために、好んで読んでる読者をバカにするのはやめればいいんじゃないかと思います。人として、みっともないから。
だいたい保護者とはいえ、スペクトラム入っている人とか機能不全家庭とか抗うつ剤のんでるとか眠剤ないと眠れないとかそういう人が他人の読書傾向までぶつぶつ文句つけているようですが
脳汁の都合で、自他の区別がつかない状態なのかもしれません。
スペクトラム入ってたり機能不全家庭育ちあるいは現に機能不全家庭だったり抗うつ剤のんでたり眠剤ないと眠れない人をバカにする者ではありませんが
そういう人の読者に対する越権行為的な無礼行為は無礼だとはっきり指摘しておきます。
不健康なこと、不幸なことは、越権行為の正当化の理由にはなりません。

なぜ花風社の本を読んでくださるかたがいるか。
単純に、いい本だからです。
そう思ってくださっているから、このブログを熱心に読み、
新刊情報を知ったら買ってくださるのです。
役に立つ。
よその本も読むけど、やっぱり一番考えさせられる。
毎回目からうろこ。
読んですっきりする。
そういう読者の声が、私のもとには届いているのです。

花風社が発達障害の本をやめるのは、いつでもいいと思っていますが
ここ最近、私が信頼している支援者(まったく別々の地域の人たち)お二人から偶然別々に
こういう言葉を聞きました。
「いろいろある福祉の世界。それでもここで頑張っていられるのは、花風社の存在があるからです」
私はいなくなってもいいかもしれないけど
この人たちを発達障害の世界から消してはいけない。
じゃあしばらく発達障害やろうかな、と思わされた出来事でした。

これだけ口が悪いっていうことは
それだけ問題に気づき、本質をえぐり、それだけ言語体力があるということですから
いい本が作れるっていうことです。
読んでいる人はそれがわかっているから
「わ~また暴言」と思うこともあるでしょうけど
「本とブログで毎日勉強しています!」とお便りをくださるのです。

別に猿烏賊諸君にそれを確かめてほしいとは思いません。
読書力も時間も意欲もふんだんに持っていないのならなおさら
限りあるリソースを思うところにむければいいでしょう。

けれども「花風社の本は読まないぞ!」という固い決意は
決して合理的じゃないことは、
「もしかしたら子どもがよくなる可能性」より自分の嫌悪感を優先させているきわめて感情に支配された選択であることは
自覚してほしいですね。

海老踊り軍団と違って、私は感情的であることが、悪いことだとは思いませんよ。
ただ感情的であることをバカにしている人たちが
きわめて感情的な判断を自分がしていることに気づかない様子を見て滑稽に思っているだけです。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆

あれれ九勝。
ていうか圧勝でした。
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苦しいときと順調なとき

2013-03-23 11:01:08 | 日記
「神田橋先生の本を作ったときは、頭が良くなったような気になりました。
愛甲さんの本を作って、性格が良くなった気がします。たぶんどっちも誤解です」

と、神田橋先生に愛甲さんの本に載せるマンガのチェックをしていただくときのお手紙に書きました。



続々と「脳みそラクラクセラピー」について
「癒やされる」とのお声をいただいていますが
私にとっては、癒やしもさることながら

「あああ、私は結構屈託なく育てられてきたんだなあ」という事実の確認の本でもありました。
家族からの愛情というものを、疑ったことがないからです。
家族に見捨てられる不安を、感じたことがないからです。
愛甲さんが中で使っている言葉を使うのなら
「祝福されて生まれてきた存在」だと(意識はしなくても)ごく自然に考えてきました。

でも、世の中はそういう人ばかりじゃなくて
ものすごく多くの人たちが、親や配偶者に不満持っていますね。
根拠が確かな場合も、思い込みの場合もあるのでしょうが。
その人たちは、人はみな自分と同じような屈折を味わっていると思い込み
いろいろつまんない素人心理分析して暇つぶししているわけですね。

もっとも別に、屈託なく育ったからっていって、苦しいときがないわけじゃないのは当たり前の話。

「こころの科学」、去年の7月号、読んでない方がいたら、たった一本の記事だけのためにでも買う価値があると思うんですけど

ここに神田橋先生による「もっと笑顔が見たいから」の書評が載ってます。
これは情報の宝庫です。



神田橋先生って、名文家というか
とにかく文字数当たりの情報量がすごいですよね。
典型的なのが「発達障害は治りますか?」のあとがきだと思いますが。

この書評には、発達障害に関する大事な情報がてんこもりですが
私がとくに「そうだったのか!」と思ったのは
順調なときと苦しいときと、それぞれ発揮される能力の違いのところです。

考えてみればその通りなんですよ。
一人の人の中でも
順調なときと苦しいときと、発揮される能力が違う。
そしてどちらも成長には必要なんだろうなと思います。

きっとどっちも資質の現れなんだと思うのです。

ところで愛甲さんの本も、「癒やし」の部分だけじゃなく
元から持っている資質の見ぬき方(親だからできるやり方)っていうのが貴重な情報ですよね。
「資質の棚卸し」っていうのは、この本の大きい要素だと思うんですけど
(子どものときの遊びから向いている仕事を探る、とかね)

お読みになった皆さん、ご自分の「資質の棚卸し」始めましたか?

私は去年、神田橋先生の書評を読んでから
自分の苦しいときの能力と、順調なときの能力を棚卸しするようになりました。

私は基本的に
「乗り越えられないトラブルはない」と自然に考えていていますが
どうしてそういう風に考えられない人がいるのか、ずっと不思議だったんですが
愛甲さんの本を作って
それは私が家族からの愛情を疑わずに育ったことと関係があると知りました。
(これは、家族と争いがなかったということではありません。
争いさえも健全だったということです。)

そして神田橋先生の書評を読んでから、
実際にトラブルを乗り越えるときに、自分が出す力がどういう方面かも
以前より言語化して把握するようになりました。

それをつかんでいるとね
トラブルがやってきても「おお、またやってきたか」と受け止められますよ。
「いつものあれ」を使って乗り越えればいいだけだからね。


というわけで今場所の稀勢の里ですが(そこかい)

中日終わって四勝四敗。
星数もさることながら、冴えた相撲がありません。
これは困った、と思いました。

でもわりとゆったりと構えられていたのは、私もファンとして成長したのかも。
何しろ鍛えてくれましたからね~。平幕と三役を行ったり来たりしていたころから。

もちろん勝ち越してはほしいけど
「初めての角番」になったらそれはそれで飛躍のきっかけにすればいい、と思っていました。

そしてやはり「困ったときに出る能力」というのは何度も見てきているので
それが出ればいいなと思っていました。

昨日の勝ち越しを賭けた相撲も、二分近く。
長いといっても、大相撲というより膠着相撲という感じでしたけど
長い相撲になったとき、勝てるだろうなと思いました。
こういうときは稽古量の差が出ますからね。

なんとか勝ち越し。
ほっとしました。

調子が悪いときは、調子が悪いなりにやっていかなければいけませんよね。
この点では私の方が馬齢を重ねているとはいえ一応年上なだけに先輩ですから。

(自分が見てるの苦しいから)もう休場すればいいのに、というファンの声もありましたが
それって稀勢の里っていうお相撲さんの資質を応援してないでしょ。
あるのは「自分がもう見るのいやだ」という気持ち。
わりとこういうこと、堂々と言う人が増えましたね。
ギョーカイの「社会の理解ガー」もそうだけど。だからきっと、社会に訴える力がないんだと思うんですよ。
「うちの子の不登校のリスクが高くなるから休み時間の外遊び義務化やめてくれ」って、気持ちはわかるけど、実は全然説得力ないでしょ。
「官がそこまでする権利があるのか。だったらカリキュラムに組み込むか、家庭を強化しろ」って言ったほうが「自分だけの利益」じゃないから、私ならそういう言い方しますけど。

人を応援するっていうのは(おそらく子育ても含めて)
そういうことではないですね。
自分の気持ちは相対化して
自分の弱さはあえておさえて
「どうすればこの人がこの機会を成長に使えるだろう」と考え、見守ることでしょう。

土俵に上がるときは、誰しもたった一人ですから。

まあともかく

「脳みそラクラクセラピー」を読んで、皆さんお子さんの資質だけではなく
ご自分の資質も棚卸ししてみてください。

そうすると自分がきっと、危機を乗り越えやすくなり

自分が危機を乗り越えやすくなると、子どもの持っている強さにも気づくと思います。
そうしたら、その子にふさわしい修行も見えてきます、きっと。

私としては「修行が残酷だ」と言う人を見ると
「ああ、この人はきっと大人として苦労してこなかった人なんだな」と思ったりするわけです。
おそらく、家族への不満というのは、私の何十倍持っているんでしょうけど。

というわけで、昨日は稀勢の里の勝ち越しを見てほっとして寝込みそうになりましたが
結びの一番のごじょごじょぶりを見て、怒りがわいてきて、
そうするとしゃきんとして
さっさと筍ご飯を炊きながら仕事を続けました。

「怒り」も私にとっては大事な原動力ですね。


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自閉症と私11 (米は大事)

2013-03-22 12:26:05 | 日記
海外旅行すると、タブレット端末がどんどん普及していく早さにびっくりする。

別に障害のあるお子さんじゃなくても
飛行機の中で、あるいは空港で、動画を見せて静かにさせている、なんていうのはもう当たり前に見られる光景になってきた。
端末で読書している人も多いし。

年末行ったタイのリゾートホテルでは、朝食ビュッフェに並ぶバラエティ豊かな料理の数々を、
iPadかざして動画で撮っている人がいた。
ぶつぶつとナレーションも入れている。
おそらくこれから、FBかなんかにアップするのだろう。今ここ来てるぜ、みたいに。

あんまりお行儀よくないが、でも仕方ないかも、と思った。
東西の人間が集う場での朝食は、タイ自体が持つ豊かな食文化と合わせて
かなり彩り豊かだからだ。

各種卵料理から、パンケーキ、ベイクドトマトなど、しっかり食べたい西洋の人向けメニューもある。
もちろんコーンフレークみたいな軽いもので済ませることもできる。
新鮮なサラダもあれば、東洋の人の好む点心やおかゆ、野菜炒めやチャーハン、ジャスミンライスに日本の白米、お味噌汁、キムチ、のりも置いてある。
カレーだってタイ風、インド風、とそろえてある。
そして色とりどりのフルーツ。

もともと寒冷で物実りがよくなくて
それゆえ食文化が単調な国から来ると
びっくりする光景には違いないのだ。

そういう寒冷な国の朝食も、私は知っている。かつてよく行ったからね。
バラエティが少ないわけではない。数十種類用意されている。
ただそのほとんどが、加工肉か乳製品なのだ。
ソーセージが何十種類、ハムが何十種類、チーズが何十種類。
それをずらりと並べて「選び放題ですよ」(ドヤ)という食文化の国ってある。

現地の人はそれになじんでいるんだろうし、不満にも感じないのだろう。
「なんだ肉とチーズばっかり」と不満を感じるのは、日々おうちで食べる朝ご飯のほうがおいしいからだ。

さて、発達障害の支援について。

「支援がない支援がない」という時代が長く続いた。
そして支援らしきものの体制が一応できてみれば
今度は「支援はできて、行ってみたけど別に生活に変化は何も起こらない」という現状の場所も多いのではないかと思う。
一つは、支援者に(学校の教師も含めてね)専門性がない。
専門性をつけてほしい。そう希望する当事者保護者は多い。

じゃあ専門性って何?

いろいろな先生が本を書き、講演や勉強会を開いているけれども
なんだか今ひとつすっきりしない
なんだかどの道を選べばわからない、という人がいたらそれはたぶん

「ソーセージ、ハム、チーズの山」を前にして
本当は「米が食べたいな」という気持ちに気づいていないのかもしれない。

だって祖先から、私たちの身体を作ってきたのは米なんだし。

ところがこの世界では、米の大事さってわざわざは強調されない。

それは四つ理由があって
一つは自閉っ子が「エキゾチックペット」(by ニキさん)であるために
ことさら「私たちと同じものを喜ぶとは限らないんです」と強調されることだ。
「ソーセージ、ハム、チーズ」の普及員たちは、とくにこれを強調するね。

こうやってソーセージ、ハム、チーズの普及員からその素晴らしさを説かれた支援者が
いくら専門性を身につけていっても
一次障害に改善が起きるケースはレアだと思う。
「そもそも私たちはどう成り立っているか」という設問がないから。

米の大事さがことさら語られない二番目の理由。
それはあまりに当たり前だから。
自閉っ子っていったって、人間の子だからね。

そして三つ目の理由。
「見えないものは、ない」認知の人は、その語られなさを誤解して喧伝する。
「そうか。ソーセージ、ハム。チーズの中から選ぶんだ」と誤解する。
米の品質、ご飯の炊き方に工夫を凝らしている人を見ると
「トンデモ」とか言ったりする。

まあ花風社がやろうとしているのは

「ソーセージ、ハム、パン」は舶来品で華やかに見えてたしかに一定の効果はあるんだけど
それよりおいしくて栄養になる食事があるよ、っていうこととか

「まずは米を食べましょう、それが先祖から築き上げてきた私たちの身体に合ってるんだから」

ていうオプションの提供なんですよ。
そのとき食いしん坊の私が思い浮かべているのはね
タイのリゾートホテルの朝食ビュッフェなのです。
あれいいよね。いろいろ選べてさ。

そして、米の大事さが強調されない第四の理由。
それは、米を炊く親とそうじゃない親という差が明るみに出てきてしまい
ギョーカイのご本尊「親のせいではない」が危うくなることじゃないかな。

米の大事さについては口をつぐんでおいたほうが
ソーセージ屋さんとしては仕事がやりやすいかもしれないし。
「家で米炊かないとダメ親というんですか! きーっ!」って猿烏賊スペクトラムの人々に糾弾されるのも面倒だろうし。

それに

とにかくご本尊を守るためなら、真実を隠すギョーカイなので
そのあたりは気をつけた方がいいと思うのです。

写真は夕焼けじゃないです。朝焼けです。
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やる気スイッチ 続き

2013-03-21 09:56:25 | 日記
さて、もう一度やる気スイッチの話題です。
新刊「脳みそラクラクセラピー」はもちろんのこと
大地君の本にせよ、花風社の本は「やる気スイッチ」のヒントがいっぱいです。
でもやる気スイッチが入る条件ってあって
それを欠いている場合には、いくら押したって入りませんよね。

一つは○○○が足りないこと。
大地君が教えてもらっているのは
・先に生まれた人は先に死にます。ママとパパはいつまでも面倒をみてくれません。
・身体を動かして遊ぶのは子どもの仕事です。
・将来自分でご飯を食べられるようになるには、他の子とは違った修行が必要です。

あたりで
このあたりの情報がないと、やる気スイッチを入れるのはなかなか難しいかもしれません。

あと、藤家さんの「自閉っ子は、早期診断がお好き」を読んでいただきたいですね。



なぜかというと

「巨人」がいる間は、努力なんてなかなかする気にならないからです。
巨人のいる世界の話を聞いたとき、私は「ありえない。わっはっは」と笑い飛ばしましたが
驚くほどたくさんの成人ASDの人が、似たような世界観を持っているので逆にびっくりしました。
もしかしたら「社会の理解ガー」ばかり言っている人の世界には、まだ巨人がいるのかもしれません。
自分が努力の主体なのだと今ひとつ理解しきれないのは、巨人まかせだからかもしれません。
巨人がいる限り、自分は頑張らなくていいのです。巨人に文句言っていればいいのです。
けれども実際には巨人はいないので
巨人の存在なんてはなから知らない定型発達者から見ると、ただの怠け者です。
巨人を消すのは大変なことのようですが
ぜひ藤家さんの例を参考にしてください。
藤家さんが診断前に、定型発達者としてきちんとしつけを受けてきたことが
実はマイナスではなかったことがわかります。

ニキさんと「自閉っ子のための努力と手抜き入門」を作ったのは
やはり「20歳になった瞬間、大人ができることは自然にできるようになる」(それまで練習を積み重ねなくても)
という不思議な世界観を持っていたニキさんが、努力の必要性に気づいた経過が面白いなあと思ってのことです。やはりここでも、世界観そのものが、やる気スイッチが作動しない土壌を産んでいたのです。
人は、「どうやら自分が動かなければ、望みのものは手に入らないらしい」と気づいたとき
初めて努力ができるようになるのだけれど
自閉の世界観ではそれが見えにくいということのようです。



同じように
定型発達者の努力も見えにくいのが自閉症の人の特徴です。
だから「ずるい」と思うのです。
ここのコメント欄に来て時々吠える人もいますね。人のことずるがってる人。
ああ、他人の努力は見えない認知の人なんだな、と哀れに思います。

やる気スイッチをいくら押しても
「あなたが努力の主体である。あなたが努力しないと自力で生きていけない。そして自力で生きていかなくてはならない」ということを知らなければ
作動するはずがありません。
そして花風社の本は、どの本も
そのことに触れていると思います。

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