治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

愛着障害に気づいた理由。

2017-05-31 07:16:56 | 日記
さて、けいさんのコメントを引用させていただきます。

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浅見さん、こんばんは。

私はここ2、3年ずっと無職だったのですが、最近やっとアルバイトを始めることが出来ました。
仕事という面ではまだまだ出来ないことも多いですが、アルバイトが出来る状態になったこと自体が、私にとっては「愛着障害が治った」であり、自信です。

治ったと自覚すると、「実は愛着障害を抱えている人はとても多い」ということに次第に気が付くようになるのですが、そういう人たちとどう接し、距離を取っていくのかも、これからの課題だなぁと感じています。

治ると生きやすくなるので、治った人を見て『羨ましい』と駄々を捏ねる、その人こそ愛着障害を治せたら良いなぁって感じます。


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よかったですよね。
『人間脳の根っこを育てる』の中で目標とした

「やりたいことができる身体」に近づいたわけです。

このコメントを拝見しても、「治った」と自分で言うことが癒しになっているのがわかります。そこを客体化してホンモノ偽者論争をする人たちは本当に無礼ですね。そして負け惜しみが強い。

そうこの負け惜しみの強さ。

臆病で卑怯なこと。

これが私の見る「愛着障害」のひとつのあらわれです。

ギョーカイ猿烏賊がかかげてた「ありえない恐怖感」は彼らにとってはありえる恐怖感だったのでしょう。私は共有できませんでした。

でも「人間脳を育てる」で恐怖麻痺反射を知り、ギョーカイ猿烏賊の戦略が胎児のまんまだと知りました。「死んだふり」ではなく「生まれてなかった」のですね。そしてその状態像は私から見ると「臆病で卑怯」なんです。

そして「治療のための精神分析ノート」で胎児性の愛着障害について改めて学んで「これかあ」と思いました。胎児性の愛着障害の人が支援職を選ぶメカニズムとそれでも治さない理由は臆面もなく神田橋先生がここに書いてあります。腑に落ちました。

発達障害にせよ愛着障害にせよ治るコツのひとつは、愛着障害のある支援者を頼らないことです。それには愛着障害の薄い支援者を見つけるか、あるいは自分で自分を治すか。その際には身体アプローチ、言葉以前のアプローチが役に立ちますね。

そのあたりのことを6月18日目黒で話します。
かなり思い切って話します。
ご興味のある方はどうぞお越しくださいませ。





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愛着障害とはどういう現象か?

2017-05-30 12:12:33 | 日記



さて、岡山で講演が済んだあとはすぐに戻って、翌日東京で講演を行います。
たくさんの人にとってアクセスしやすい東京。そこで、「発達障害」と「愛着障害」のおさらいをします。
こちらの団体は、支援者・保護者の方たちのお勉強会だそうです。
今回は特別講演だそうです。皆さん大歓迎です。

チラシに使っていただいてあるキャッチコピーは「愛着障害は治りますか?」のものです。

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自分が自分であることを
祝福されなかった。

つかみどころのない不安と
いつも一緒に生きてきた。

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最初から原案として使われていたところを見ると、これがたぶん、主催者的にはぴんとこられたのでしょうね。
このコピー、これだけで泣いた、と言ってくださる読者も多い。
そして私にとってはこの四行を書くだけでも相当勉強しなければいけなかったのです。

長らく、私は愛着障害というものと接していながら、それをそれと認識していなかったと思います。
いや、実を言うと
愛着障害の示す状態像は、私にとっては多くの場合「フユカイ」でした。

私は発達障害の世界の端々で出会う「ありえない恐怖感」に腹を立てていました。いや、「ありえない恐怖感」だけだったら「変なの」と思いながら腹も立てなかったと思います。その「ありえない恐怖感」を持つ人々が、勝手に私の言動に恐怖を抱き、全く理解できないこっちに同じようにそれを共有しろと迫られることが多く、それが不快でした。こちらはその恐怖感を共有していいない以上、完全にいちゃもんにしか思えなかったからです。

そして愛着障害を持っている人の方は、自分の「ありえない恐怖感」が愛着形成のヌケに由来すること、それを共有しない人がいること、に気づかなかったのだと思います。
それが支援の世界と一般社会のズレであり
逆のベクトルで、私がギョーカイに適応できない原因となっていました。

愛着障害は発達障害者を取り巻く環境の中でどういう現象を取るでしょうか。

まずは「社会が理解すれば生きやすくなる」。
この集団誤学習が愛着障害の産物です。
先日栗林先生がいいこと言っていました。あまりいいこと言っているのでスクショとらせてもらいました。ここには貼りませんが自分の記録用に。こういうことをおっしゃっています。

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理解されれば幸せになるのなら、あまりにも簡単な話です。
(中略)
将来を明るくするには、他力本願だけでは満足できない人たちが大勢いることを、もっと切実に理解してほしい。

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栗林先生も基底充実の方ですから、当然これが見えるわけです。社会の理解がいくら進んでも、本人の充実がなければ幸せになるはずがない。そしてそれに気づいている当事者保護者も多いのに、相も変わらず社会の理解だけ、つまり他力だけでなんとかしようとし続け、それこそが支援だと説き続ける支援者たち。この人たちは、自分のヌケを埋めようと支援職につき、そこから修行の進まない人たちなのでしょうね。自分の修行の進まなさに、人を巻き込んでいるわけです。

でも愛着障害を抱えているのは、このギョーカイ支援者だけではありません。
保護者の中にもあります。そして親の会なんかではこの愛着障害が強化されていきます。

私がギョーカイの言動、一番初めに覚えた犯罪報道へのいちゃもん。「加害者の診断名を報道するのは偏見を広げる。差別だ!」。
一万回くらい書いたと思いますがこれが一切理解できません。加害者の診断名を報道して広がるのは偏見ではなく事実です。一般社会の知る権利を制限しようというのでしょうか? そして、同じ診断の人を同じ目で見るとしたらそっちの方がおかしいのです。でも今思うとこれは、見張り合い社会の産物だったかもしれませんね。

そして「治る人はいる。でもあまり話題にしないようにしている。人心が安定しないから」という支援者による保護者の子ども扱い。わけがわかりませんでした。でもこれも、支援者保護者双方の愛着障害の産物だと今ならわかります。人心が安定しないとはどういうことか? 「治る人がいると自分たちが努力不足だと思われる」という被害者意識。猿烏賊方面ではこれを大真面目に私にぶつけてきました。これも基底欠損がもたらした被害感です。

治そうよ、と赤心から屈託なく発言する私。それをたたく猿烏賊。そして本当は治りたい、治る方法があると知りながら私が叩かれるのは見て見ぬふりをして本だけ読む意気地なしの隠れ読者。これも愛着障害の産物です。賭けてもいいけど(賭け事はお相撲見に行けなくなるのでだめだけど)、大っぴらに私をかばう勇気があった人の方が予後がいいはず。

私から見ると「そんなもんにつきあってられるか」、という卑屈さ。それが発達障害の世界には渦巻いています。そしてそれをなぎ倒していかなくては治りません。だから私は愛着障害について勉強し、そして自分には縁遠い愛着障害について想像して先の四行をひねり出したのです。

ならば愛着障害は当事者においてはどのようなかたちをとったでしょうか?
親の悪口を言う? そんなの一形態にしかすぎません。逆に言うと親の悪口とは別のところで愛着障害は濃く見られます。
「治るなんて差別!」だという言動。
「努力しろなんて差別」というやる気のなさ。
治る人がいると「あれは偽者」と理屈をこねる往生際の悪さ。
当事者に見られる愛着障害はそんなもんです。

そしてそういう卑屈で努力せず社会的には受け入れがたい当事者に死んだふりし
「ありのままでいいんだ」
「社会が理解すればいい」としか言わない支援者の「死んだふり」。
これも自分が丸ごと受け入れてもらいたかったけど果たせなかったヌケが埋められない支援者の愛着障害がもたらすやっつけ仕事です。税金から給料もらって死んだふりするな、ってなもんです。

いや、やけに力が入る記事になってしまいましたが
まあとにかく、発達障害と愛着障害の関係について語り、治す方法が出てきたことまで言及するつもりなので、ご都合のつく方は6月18日の目黒講演に来てください、というのがお願いだったのです。
お申し込みはこちらへ。
前日の岡山では「借りてきた猫」だと思いますが(予定)、目黒では本領発揮しますよ。
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ギョーカイは二次障害を治すか?

2017-05-30 08:41:02 | 日記
このアンケートに皆さんよりお答えいただきました。私の見解を書く前にちゅん平さんの話が出てきたのでそれに絡めて書きます。
ちゅん平さんが二次障害(のようなものがあるとして)治ったのは支援者の力もあるんです。それだけやはり、それいゆは当時突出していたんだと思うのですね。はっきり言うと、よこはま発達クリニックとかよりずっと優れていたと思います。大雑把に言うと、よこはま発達クリニックはよりギョーカイ成分の濃い「ありのまま系」。ビフォアアフターでかかればかかるほど障害児らしくなっていくのは有名な話です。それに比べ服巻先生はばりっばりの修行系でしたよ。ちゅん平さんにも「自己認知支援」と「世界観の塗り替え」はよく効いた。ただその先、主体性が出てきたところでそれを抑えこんじゃうんですね。それが何だったのか、きっと「発達障害、治るが勝ち!」をお読みになったあと、みなさんは私の見解を知ると思います。

二次障害に関してはね、だから私はギョーカイ人が100パーセント治さないとは思わないんです。ただめったに治らないでしょうね。ただ私自身はちゅん平さん以外にも治る人は見てしまったんで、ギョーカイは治さない、とは言い切る気がないです。ある種のソーシャルストーリー的なこととある種の構造化的なことと自己認知支援で立ち直っていくタイプの人はいます。とくに藤家さんみたいにお利口さん系の人はね。

そしてABAは絶対二次障害を治さないですね。だからABAを成人支援に取り入れている地域で成人支援がはかどらず挙句の果てに成人にも支援者が見捨てられてるのは不思議じゃないですね。こうなると「クマも通らない道」並みに役立たずの公共事業です。

ABAは思いっきり悪口言えますね。何しろ「問題行動は無視」すると治ると思っているんでしょ? だから私が何言っても(そもそも読んでないだろうし)無視し続けてくれますね。

ソーシャルストーリーですけど、ある意味このブログもある種の人にとってソーシャルストーリーになっているわけですね。でもライセンスビジネスとしてのソーシャルストーリーズはあなた、親子の会話に一生有料で支援者が割り込もうっていうことなので、得するのは支援者だけ、っていう構図は明らかで、気づかない人いるんですかね。有益どころか愛着障害製造装置だと思いますね(個人の意見です)。

そもそも親が子どもを客体化し出したら絶対に治りません。ブログパパとか、支援を仕事にしちゃった人とかがしくじるのもその構図ですね。

さて、二次障害に話を戻しましょう。
「発達障害、治るが勝ち!」から引用します。ここは没にはならずに、もっとくどく加筆すると思います。

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ギョーカイが二次障害を治せず「寛解」しかもたらせない理由

 そもそも私が「治る」という言葉を使う理由の第一のものは(そしてこれが唯一ではない。他の理由はおいおい説明する)それが普通の日本語だからである。皆さんもご自分が、あるいはお子さんが診断を受けたとき、とっさに思い浮かんだのは
「治るんだろうか?」という言葉ではないだろうか。
「改善するんだろうか?」より「治るんだろうか?」の方が真っ先に、自然に脳裏をよぎる日本語であろう。
 そして診断を下した医師に「治りますか?」ときく。即座に否定される。「改善するけど治りません」と言われて「改善するけど治らない」という状態があるかどうかよく考えず納得する(あるいは納得しようとする)というのが現実に多くの人が通ってきた道だろう。
「改善」という言葉でさえとっさには浮かばないのだ。ましてや診断を下されたとたん「寛解するのだろうか?」なんていう言葉を思い浮かべる人はまずいないだろう(私のパソコンはとりあえずカンカイと入力してもこの言葉を変換しなかった)。ところがギョーカイでは治せるはずの(そしてめったに治る事例がない)二次障害にさえ「治る」という言葉を使うなと真顔で主張する人たちもいるのである。よくよく「治る」という言葉が嫌いらしい。
 だが、よく考えてみたらそれも当たり前かもしれない。私は少数だがギョーカイ人の支配、じゃなかった支援のもとにあっても二次障害が治るというある意味レアな人を見てきた。カウンセリングや薬物といった誰にもトンデモ扱いされない方法でも治る人はごくまれにいた。そしてその人たちの治り方は、なんだか中途半端なのである。どこか揺らぎがあり、何かトリガーがあれば(ショックな出来事とか身体状況とか、あるいは天候とか季節の変わり目とかたんに担任が変わったとか)もとに戻ってしまう脆弱性のある治り方。いつでも揺り戻しに翻弄されるような治り方。薬物方面と認知方面に頼ると、どうもそういう心もとない治り方で終わるのである。だから、この二つしか手段のないギョーカイ人は「寛解」という言葉にこだわっても仕方がないかもしれない。

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ここには薬物療法とカウンセリングだけを上げていますが、その他自己認知支援とかもそうですけど、言葉以前を治せないアプローチは、しょせんうわっつらしかいじっていない。だから調子よくいってたとしても新学期とかにがくっと崩れる。土台から治る人、言葉以前のアプローチをした人はそういう節目で崩れないでしょ?
ある意味ギョーカイがカンカイガーになるのは仕方ないんですよね。
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意気揚々と支援を離れたと思いますか?

2017-05-29 11:05:00 | 日記



昨日はブログ書いてから五本指シューズで海と山と温泉がある町に遠足に行きました。
温泉に入って船盛を食べました。今朝は向島電機の倒産をロビーで見知らぬおじいさまおばあさま方と見届けました。「あらまあ大変」と心はひとつ。

その間にも昨日のブログに関する反応をいくつかいただきましたが
これは言っておかなければならないな、と思うことがあったので書きます。

皆さん今のちゅん平さんみてると誤解するかもしれないけど、「それいゆ」(当時)の支援を切ったとき、「やった―治った治った! 前途洋洋だぜ」って思ってたわけじゃないですよ。
まだまだ予断を許さない状況でしたよ。身体も弱かったしね。たぶん切られた支援側は「いったいどうするつもりだろう」って思ってたんじゃないかな。「どうせろくなことにならない」とまで思っていたんじゃないかな。その後の快進撃は予測していなかったんじゃないかな。いや、快進撃というのは少したってからのこと。それまでは反動で家から出にくい時期もあり、ようやく出かけた職安ではけんもほろろにされ、ということから就労移行支援、作業所、ハローワーク、実習、みたいにつながったんです。そして就職してからも雇止めされたり。っていうかみんな「30歳からの社会人デビュー」読んでよそのへんは。読まないであれこれ言うのは怠慢だよ全く。


まだまだ不安定なことを重々知りながらなぜ私は「やめなよ」って言ったのか。藤家さんはやめようと思ったのか。
それは私の中にはもって生まれた(あるいは育ちの中で育まれた)自己肯定感があって、「こんだけ本人をバカにする支援者にこの先もろくな支援はできないだろう」と思ったからですね。

つまり、たとえ治ったとはまだまだまだ言えない状態でも、少なくともその人をばかにする、めんどり扱いする支援者から離れた方が治る、っていうことです。自分を貶めるやつからはきっぱり離れる。たとえどんなに社会的に評価が高い人でも。私がそれをやるのを皆さんは目撃してきたわけですね。そしてYTの件を知っててぽかんとしていたのがギョーカイである以上、ほぼギョーカイの全部が私にとってはいつでも離れていい死んだふり野郎なんです。だから思ったことはどんどん言います。

それに対して多くの人が支援者の人間性に疑問を持ちながら、「ここを離れたら行く場所がないから」とかしがみついてるんじゃないの? だから治らないんだよね。支援者の人間性に疑問が出てきたということはそれだけ成長したということ。主体的に利用するか、あるいはきっぱり離れればいいんです。勇気のない人は知らないことだけど、何かを手放すと必ず次に何かを得られるんです。

これが、若いころから「その生き方では損をする」と言いながらなんだか結構トクしてる私がやってきたことじゃないかな。自分を貶める支援者にしがみついてるなんて、DV夫から離れられない殴られっぱなしの妻みたいだよね。私は自分を貶める人からはきっぱり離れるしきっちり落とし前つけるからたくさんの人と喧嘩してきたけど、一方でそのきっぱりさのおかげで私生活は幸せなわけです。


そもそも「それじゃあ損するよ」っていう人ってみみっちいよね。損得が人生の目的なのかよ、っていう。同じように「無駄な努力」っていう言葉も大っ嫌いです私。南雲さんがうまいこと言ってた。

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「無駄な努力」という言葉自体、おかしな表現ですね。

そもそも、成果は約束されていなくとも、成長は約束されているのが「努力」です。

種を蒔き続ければ、思わぬ所から芽がでる。これを人は「運」と呼ぶんです。

だから、誰が何を言おうと、成長の種は蒔き続けることが大切ですね。

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本当に暑苦しいですね(ほめてます)。そして本当のことです。

なんだっけ。

そうそう、損得ばっかり考えるからうまくいかない人が世の中多いねっていうこと。得しようと思って自分の魂を押し殺して我慢する。そういうやり方を踏襲していたらね、ちゅん平さんはまだまだそれいゆにしがみついていたでしょう。そして治らず、在宅で、めんどり人生を歩んでいたでしょう。毎月それいゆに貢いでいたでしょう。それいゆがまだあるかどうかもよく知らないけど。

自分をバカにする人からはきっぱり離れる。
それが健全な人間だと思います。
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あれは悪口じゃなかったんだね。あのとき治りかけていたんだね。

2017-05-28 08:48:31 | 日記
ちゅん平のブログ読んで、数年経ってやっとわかったことがあった。



あれは悪口じゃなかったんだ。
治りかけていたんだあのときすでに。

とわかったのである。

ちゅん平が「それいゆ」(当時)の支援から抜ける前。

私はちゅん平を佐賀市内のアパートに一人で住まわせるところまでは愚かにもそれいゆに同意していた。今なら本人が決めることだと思うけど、当時は親御さんのレスパイトも考え(だって本当に手がかかる子だったんだもの)一人暮らしするのもいいだろうと思っていた。ところがその先が気にくわなかった。頻繁に実家に帰ってしまうちゅん平に、それいゆが帰宅禁止を命じたときだ。

なんの権利があってそんな命令出すのだろう。
私は何度も書いたが
私が発達障害の世界で目撃して一番悲しかったのは、支援者が支援の名のもとに当事者から主体性を奪うことだった。

その出来事のひとつだった。
今度「治るが勝ち!」」を書く意味もそこにある。
支援者っていうのは、治せもしない割にはドヤ顔で当事者の主体性を平気で奪う生き物である。そこから離れられるだけでも治る価値はあるのだ。
主体性がなくなればなくなるほど、治らなくなっていくのだから。

そしてさらに私を怒らせたものがあった。
それは服巻先生によるちゅん平の悪口が止まらないことである。
私は最後にこういってやった。「藤家さんは先生が思っているよりずっといい子です」
そうすると先生は驚いたようだった。「悪い子だと思ったことはありません」

ちゅん平がブログで書いている援護射撃というのもそのことだ。
実家にいるお母さんに電話して言ったのだ。「それいゆはたしかに寛子さんをよく支援してくれました。でも引き時だと思います。悪口がひどすぎる。私は寛子さんは智子先生がおっしゃるよりずっといい子だと思っています」

そしてあれは本当に悪口ではなかったのですね。
数年経って気づきました。

あれは「逃げそうなめんどり」に支援を受け続けてもらうためのケチをつけていただけだったのですね。要するに営業だったんだ。

つまり、当時ちゅん平さんは治りかけていたんでしょうね。
支援者の目にはそれがわかっていて
だから「あれもだめ」「これもだめ」のオンパレードなんです。

それを聞いて私は、「この人は佐賀のおしんのだんなの実家みたいな家にちゅん平を嫁がせてそこで完璧にお姑づかえできるような、そういう完成像を目指しているのだろうか」と思ったもんである。私の理想像はそうじゃなかった。多少変わり者でもいいから少しでも健康に幸せに生きがいのある毎日を送ってもらいたかっただけ。

でも理想が高かったんじゃないんですね。
「このめんどり、逃げそう」と察知したから引き留めるために「まだできないこと」を並べたてていただけなんですね。ただの営業だったんだ。なあんだ。

そして「治る」という言葉を嫌う人たちが「治る=(ありもしない)完全な健常者になる」といちゃもんつけるのも同じ原理に発するかもしれない。
おしんのだんなの実家で姑仕えできるのが「治った状態」なら、自信ありますか皆さん。

これをここに書いたのは、同じような目にあっている人がいるかもしれないから。
支援者が「まだまだまだ」というときは、本当にまだまだな場合もあれば、卵を産んでくれる(つまり自分のところに売り上げをもたらしてくれる)めんどりを逃がしたくなくてケチをつけてることもあるっていうこと。だから支援を受けるも逃げるも主体的に決めないとだめ、っていうこと。
自分の人生なんだからね。

「治るが勝ち!」では随所で、読み手に主体性を持てと迫っています。
「愛着障害は治りますか?」を読んで愛着障害が治った人がいたように、「治るが勝ち!」を読んで、主体性を養ってもらいたいのです。
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海老踊りdis二部作 その2

2017-05-27 15:04:55 | 日記
さて、今のうちに貼っておかないと没に(以下同文


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 そしてそもそも、エビデンスがあるという人たちのエビデンスの内容を私たちは重要視できない。
 私たちが「よくなった」というとき最大の判断材料にするのは「本人の主観」である。本人が健康で、ご機嫌で、それを私たちは「効果があった」とみなす。大事なのは本人の主観――ご機嫌――であって外から見た行動ではない。本人のご機嫌がよくなった結果、知能検査等の数値が上がったり、就職してその状態が続いたりすることもある。でも一番の土台は、本人のご機嫌なのだ。

 ところが「自分たちの方法にはエビデンスがある」と威張っている人たちの効果測定は「行動」を基準としている。望ましくない行動を消し、望ましい行動を引き出すことに終始する。ある意味、当人をこっちの都合に合わせるということだ。そして、その行動を取ることが当人の中で葛藤をもたらしているか否か、当人が何を感じているかは度外視される。当人の主観などというものは、科学的ではないと一蹴するのだろう。
 自分たちが「当事者をラクにしてそのQOLを上げる」という本業そっちのけで開発した各種アセスメントツールを売るためには外から見た指標が重視されなければ困る、という事情もあるかもしれない。

 客体化するのは科学者として当然だ、と言うのなら、人生をわたっていく上では、本人の主観が客体化をはるかに凌駕することを科学者の人たちには謙虚に受け止めてもらいたい。
 もっともあくまで科学的でありたいという人々を、止める人はいないだろう。ただ「治りたい」ということが多くの人の本音であるとすると、現実とかい離していくその「科学」に、ついていく人たちがいつまでどれくらいいるかというだけの話である。

 私たちは、
・自分でできて
・金がかからなくて
・できたら身体の中に何も入れない
方法を見つけて実践してきた。一円の公金も使わなくても、保険診療などあてにしなくても、支援者がいなくても、家で今すぐできる方法で「一次障害が治った!」と喜んでいる人たちが出てきた。どちらを選ぶのも個々の自由なのである。エンドユーザーである当事者保護者が決めるべきことなのである。

 そしてたしかに、「彼ら」はエビデンスを必要とするかもしれない。

 一時間四千円のセッションを売るとすれば、公金の助けがないと苦しい。一般家庭には負担が重すぎて、公的扶助がなければ思ったようには広がらないだろう。勢い、エビデンスを強調することになるだろう。
 けれども私たちが広めている方法に、お金はいらない。『自閉っ子の心身をラクにしよう!』で提唱してある方法で多くの人々の睡眠障害と感覚過敏が治っていったが、そこに提言してある手法は一円のお金も必要としなければ、いったん覚えてしまえば支援者すら不要になる。ということは無駄に食べさせなければいけない人材を抱えていないから、やりたい人だけやればいいとゆったり構えていられる。そういう自由度の高い私たちの身体アプローチに対し、お金がかかる療育を勧める人たちはエビデンスにこだわざるを得ないだろう。

 エビデンスエビデンスの人たちは一面切り取り型の療育方法を広め、一面切り取り型マインドを持った後進を育てる。そこで中途半端に育った人材には就職先も必要だろう。だから攻撃的に、エビデンスを振り回す。
 ところがよく観察してみると、エビデンスエビデンスか姦しいわりにはそのエビデンスもあまりエンドユーザーには具体的に提示されない。なぜなら、エビデンスを取る途上の倫理的問題をクリアしているとは言い切れないから、との話だ。誰も見たことのないエビデンスを振り回す支援者と具体的に見たこともない「エビデンスのある方法」という支援者のセールストークに乗っかって、いつまでも改善が見えなくても、あるいは改善が見えてもまたすぐ崩れやすくても、唇かみしめてしがみつく保護者。「エビデンス」という言葉は実はただの枕詞だと気づくと、その姿は滑稽である。
 そしてその「エビデンス祭り」に参加するもしないも、個々人、個々の家庭の主体的な選択なのである。

 エビデンスがある、とドヤ顔して、私たちが「治った」と喜ぶのを「エピソードにすぎない」とこき下ろす人たちに指摘しておきたい。
 あなた方のやり方に惹かれないのはその「エピソード」がないからである。あるのはエビデンスがある、という主張だけで、実際に良くなった人のエピソードがない。むしろ、エビデンスにしがみついている人はそろって成果を見せていない。それが私たちの目に映っている現実である。
 エピソードがない。だから信用できない人もまたいるのである。
 みんなちがってみんないい、なのだから、エビデンスを選ぶ人もいれば、エピソードを選ぶ人もいるのである。

 悔しかったらエピソードを出してみろ!
 てなもんである。

【付記・枕詞としてのエビデンスとは?】

 そもそも、発達障害の世界で支援者たちが「エビデンスのある~」と言いながらどこかから(そのほとんどが欧米である)新しいプログラムを引っ張ってくるときは、「枕詞」と考えておうとさほど見誤らないですむ。どんな「枕詞」かというと、「これからこのプログラム持ってきて日本での元締めになるつもりですけど一応エビデンスあるのでよろしく~」というギョーカイ内のご挨拶がわりなのである。
 最近は「エビデンスのある友だちづくりプログラム」というのを見つけて大笑いした。どこかから補助金を受け外国から来た講師の講座を行い、最後は自分のところの合宿(有料)でフィニッシュするらしい。「エビデンスのある」という言葉に引っかかる保護者がいて、「このプログラムに出たらうちの子も友だちができるかも」とすがるような思いで子どもを合宿に送るのだろうか。考えただけでイタい。
 なんで枕詞を用いるかというと、どうも支援者たちは、「自分の療法こそ日本一!」という桃太郎ごっこをしてつばぜりあいをしているからのようである。そして発達障害者支援が始まる前も始まったあとも厚労省に呼ばれたりして、一生懸命自分の療法を売り込んでいる。彼らにとって「エビデンス」は「この方法の拡大に公金つけてね」と申請用紙にある印紙みたいなものなのである。
 橋を作れ道を作れと与党議員にロビー活動する土建屋。それを発達障害支援ギョーカイにもってくると、エビデンスエビデンスの人たちになる。そして、クマしか通らない山奥の道よりもなお経済効果は薄い。
 そのばからしい活動に当事者保護者として自分がまきこまれるかどうかは個々が主体的に決めればよい。

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本当にギョーカイが死んだふりでよか(以下同文
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海老踊りdis二部作 その1

2017-05-27 09:00:55 | 日記




昨日は「発達障害、治るが勝ち!」だだだっと原稿が進んだ日でした。
だいぶ骨格が見えてきた。

二部構成です。

第一部は「問題提起編」
これはほぼ完成。

第二部はまず
・改善するけど治りません
という摩訶不思議なフレーズの背景を徹底的に探ります。

次は
健全なる分断を促すため、皆さんに選択肢を提示します。

私は連帯ではなく健全なる分断が発達障害者の社会参加につながると思っているので、「分かれ道」をいくつか提示してあります。
たとえばさ、将来働いてもらいたいか福祉の枠で生きてもらいたいかとかはそのおうちによって方針が違うでしょ。
違った方針の人は違った道を歩んだほうがいいもんね。
凸凹っ子育ててるとこういう分かれ道がありますよ。
どっちを選びますか? どっちも自由だし、第三の道を行ってもいいんですよ、と提示してあります。

この中に海老踊りdisが二章ほどあります。
昨日午前中にこれ書いて、ランチ食べて読み直して笑って、高安関が大関昇進を確実なものにしたのを見届けてもう一度読み直しました。そして汗を流してきて、晩酌しながらタブレットで読んでやはり笑いました。これは公開しておいたほうがいいかな、と思います。何しろ今後没になるかもしれないしね。

海老踊りdis二部作です。
その1

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第三の分かれ道
エビデンスと心中しますか? 

 身体へのアプローチを広めていく途中、一番ありふれたおせっかいは「エビデンスがない」であった。エビデンスのある療育方法は他にあり、身体アプロ―チにはない。だからそれを広める花風社もそれを試してみる人たちも「トンデモ」「エビデンスがない方法にしがみついている情弱」と非難されたもんである。

 医療にはエビデンスが大事。それはよくわかる。日本のように高度に医療保険が発達している国では、皆から集めた資源を検証された方法に費やすのが当然であろう。
 けれども現行、医療は発達障害に手も足も出ないのである。おまけに、ギョーカイのオピニオンリーダーたちは「治らない。社会が理解すべき」という路線を曲げない。付き合っていられない、という当事者保護者が出てきても非難される筋合いがあるだろうか?
 
 エビデンスがないと言われている身体アプローチでも、目の前のわが子には効果があり、めきめき変わっていったとしたら、親としてはその方法をあきらめる気になるだろうか?
 親にとって大事なのはエビデンスのある方法にこだわって、目の前のわが子がラクになっている方法を捨てることか? そうではないのは火を見るより明らかであろう。よその子百人に効果がある方法であってもわが子に効かなければそんなものは無駄。よその子に効果がなくてもわが子に効いたらその方法は最強。それが当たり前の親心である。
 そして一応今のところエビデンスのあると言われている方法を見てみよう。
 
 治っていないのである。
 少なくとも一次障害は治っていないのである。
 エビデンスエビデンスとやかましい支援者は得てして言論活動に熱心。そのSNSを見てみるとどこそこで研修会の講師を務めたどっかの外国人と会ったどこそこでギョーカイ仲間と飲み会したという話ばかり。問題行動がなくなった人の話、生きやすくなった人の話など一切出てこない。エビデンスエビデンスとうるさく言う大物周辺でも、診断される人が増えるばかりでよくなって卒業していく人がほとんどいないという全国的な状況は変わらない。そしてエビデンスのある療法にこだわり活発に発言する保護者は療育の成果において親平均を下回る(当社調べ)。おそらく、その焦燥感からより強くエビデンスにこだわるようになるのだろう。そして「治った治った」という私たちに、「治るのなら検証せよ」と言うのである。結果が出るか怖がりだからエビデンスに頼る。努力が実らないと悔しいくらいケチだから検証に頼る。自分で子どもの状態を見る目がないからエビデンスがある方法にこだわる。他人の子に効果があった方法を「再現性がない」とけなす。彼らがしたり顔で言う「再現性」とはずばり、「うちの子にも効くのかよっ?」という絶望的な問いかけをお利口そうに言っているだけだ。何しろ、何をやっても成果をあげてこなかった歴史の長い人たちだから切実なんである。

 エビデンスエビデンスうるさいんですよ、と言った私に「検証は他の人間がすればいい。治すのに忙しい」と神田橋医師は言った。私が「正規医療と代替医療の線引きはどこにあるのですか?」と質問したところ「検証法がまだ見つかっていないもの。それが代替療法だ」というコペルニクス的転回の答えが返ってきてなるほどと思った(『発達障害は治りますか?』)。エビデンスのない方法でも子どもの様子を見ながら試す勇気のある人もいる。その勇気がない人もいる。そしてその勇気がない人のために時間とエネルギーを割くことを私たちはしない。その勇気のなさに、どうしてこちらが巻き込まれなければいけないのだろう。検証しないとやらないのなら、誰かが「治った!」と喜んでいる話だけではやる気にならないのなら、ずっと自分の信じる方法にしがみついていればいいのだ。「治った!」と喜ぶ人たちを、唇かみしめて悔し紛れに「どうせエビデンスがない」と言って自分たちの信じる方法にしがみついていればいいのである。そうしたら望み通り、「発達障害は治らない」ことを身体を張って証明できるだろう。

 身体アプローチでよくなっていく人々が体験談を語ると「体験談にすぎない。エビデンスがない」などと負け惜しみを言う。救ってくれない医療の論理にすがりつき、本当は羨ましい相手を「リテラシーがない」とこきおろして溜飲を下げるのだ。ほんの一瞬。
 勇気がなくてエビデンスのない方法に乗り出せないのならそれでいい。ただ、その結果は自分で引き受ければいいではないか。よそのうちはよそのうちで決断し、その結果を引き受ける。
 たった一度しかないわが子の人生。それが空しく過ぎていってもじっと待つエビデンスとの心中。
 それを選択するのは自己責任。
 そして無理心中は犯罪である。

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これが没になるかどうかわかりませんが、ギョーカイの「死んだふり」に私は今助けられていると思います(ブ)。

私の暴言(講演)を生で聞きたい方は6月18日目黒へGO!
ポスター貼っておきます。
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絶妙なマリアージュ

2017-05-26 09:17:54 | 日記




「発達障害、治るが勝ち!」には「絶妙なマリアージュ」という言葉が何回か出てきます。まず出てくるのは(いまのところ)特別支援教育の場面です。引用しておきます。没になるかもしれませんから今のうちに。

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 始まりたての特別支援教育では、人材を育てなければならなかった。そして勢い、その役目はギョーカイが担うことになる。そしてギョーカイの説く「頑張らせてはいけない」と現場の教師がしばしば持っていることなかれ主義の小役人的メンタリティはあまりにも相性が良すぎた。大義に目を向けず、自分の保身を優先させる小役人メンタリティ。小役人たちはギョーカイの説く「頑張らなくていいんだよ」を乾いたスポンジのように吸い込んで自分たちのことなかれ主義を是とした。こうしたギョーカイ×小役人の絶妙なマリアージュの結果、発達障害児の未来を消化試合とみなす風潮が出来上がったのである。

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このあと出てくるのは

ギョーカイ人の利権大事・教祖症候群×証明されてないものを選択するのが怖い立ちすくみ系当事者保護者

のマリアージュかな。
このマリアージュが海老踊りをする。そしてこんなことが起きる。また引用。今のうちに引用しとかないと没(以下同文

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 私自身はこれまで大病の経験がなく、服薬もほとんどしないので、急性症状には西洋医学の薬が即効性があり、漢方などはゆっくり効くという思い込みがあった。ところが発達障害に関しては、東洋的なアプローチに即効性があるのを目撃した。東洋医学に詳しい人によると、慢性症状にはむしろ東洋医学の方が効果が(あるときには)早く出るらしい。そしてもちろん、発達障害は慢性症状の最たるものである。
 ところが東洋的な手法、というだけでごちゃごちゃ言う支援者も保護者当事者も多いのである。東洋的な手法を使うくらいなら、治りたくないらしい。未知のものへの不安か、東洋人なのに東洋を蔑視しているのか、欧米コンプレックスか、自分たちが西洋から持ってくるライセンスビジネスが商売あがったりになるからか、理由は人による。支援者の中のオピニオンリーダーたるギョーカイ人たちは、何かの教祖になりたい。自分でメソッドを生み出すほどの創造性はないので、外国、とくに自閉症を先に発見した欧米からデジタルに切り取られたやり方を持ってきて日本での胴元になるのが教祖として君臨するには手っ取り早い。何しろ発達障害者の現状の生きづらさは「専門家がいないこと」という集団誤学習がいきわたっているので、講座を開けば高額でもどんどん客がやってくる。こうやってまたデジタルなやり方だけが行き渡り、役に立たない支援者が増える。
 一方で保護者・当事者の中にも、立ちすくんでしまっている人がいる。何かを選択して万が一「はずれ」だと怖い。だから実は利権と家元制度を保守するためにエビデンスのあるやり方といううたい文句を振り回しているギョーカイ人の腹の底に気づけない。一方で証明されていないやり方でも果敢に選び、中には効果があったと喜んでいる人がいる。そういうときに出るのは発達障害関係者の十八番、負け惜しみである。「あれはしょせん、東洋医学だから」「たんなる健康法」「本当は治っていない」東洋医学だと、治ってもいやなのだろうか? だいたちきみたち、健康にすらしてないじゃない、きみたちの支援下にある凸凹キッズを。
 利権のために治す方法を考えたくない支援者と、立ちすくんでしまい選択が怖い保護者当事者。この二つがまた絶妙なマリアージュを生み出し、臆病卑怯者路線を走っていく。その中で子どもが健やかに育つはずもない。
 私が神田橋医師の『発達障害は治りますか?』を出版する前から「神田橋処方」という漢方によるPTSDがすでに知られていたので、「漢方を出す医者だ」というだけで大バッシングが巻き起こったものである。バッシングって言ったって、その対象は神田橋医師ではない。私であり花風社である。弱者の味方であることを再三強調する発達障害関係者は、度胸がないからカリスマ医師である神田橋医師は叩けない。神田橋医師ではなく私を、匿名で脅してきた医師もいた。そしてその医師は今、某県の発達障害者支援センター長を務めているようだ。その程度の人間が、トップに座っているのがギョーカイの実情なのである。
 実に底の知れた「弱者の味方」である。そのころはさんざん、「もう花風社の本は読まない」と脅されたもんである。「わかった。絶対読むなよ。死ぬまで読むなよ」と言い返したもんである。「花風社はもうおしまいだ」と言われたもんである。でもまだ花風社は存在し「他に発達障害の人のことをこれほど考えてくれている出版社はない」と支持者を増やしている。なぜか? ギョーカイとそれに利用されている立ちすくみ系の当事者保護者がどういおうと、治りたい人はいるからである。

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さてこの文章のどれくらいが生き残るでしょうね。
書いたものはたぶん、相当削ると思います。

それよりもさあ


偶然だけどマッチするのよね、この二群は。
でも見てて「やだなあ」と思う人もいるはずなの。
その人たちのための選択肢を、花風社は用意しているのよ。

そして「社会の理解ガー」もマリアージュの結果広まったね。

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ギョーカイ側 治せないので先送り。治せないのでやることない。ので啓発を支援と言い張ることにする。

×

当事者側 他人にわかってもらいたい(愛着形成のヌケ)。とにかく飢餓感があるだけで、本当にその先何が起きるかはあまり真剣に考えていない。

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この二つが絶妙なマリアージュを引き起こし「社会が理解すれば生きやすくなる」という誤学習が広がっていったのね。

そしてそこで

「そんなわけないだろ」って言ってるのが花風社クラスタです。

*こんな私の暴言講演を生でききたい方は6月18日目黒にGO! ポスター貼っておきます。


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支援じゃなくて接待なんです。

2017-05-25 08:58:10 | 日記
さて、今日も「多様性を許容する社会を作るための提言」と「ギョーカイは二次障害を治すか」は後回しになってしまいます。nonmamaさんと発芽玄米さんのコメント(部分)を引用させていただきますね。

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努力しなくていいなんて (nonmama)
2017-05-24 17:49:17
NHKの2つの番組はどちらも見ていませんが
4月から高校生になり頑張っている息子を毎日見ていると
努力しなくていいなんていう言葉は到底言えません。
親だってもっと頑張らなきゃと思いますよ。
年月が経ち何も変わっていない事柄を見聞きすると
本当に残念に思います。



同感です (発芽玄米)
2017-05-24 19:59:45
今朝の“あさいち”、私も浅見さんと同じ箇所で、クスッと笑ってしまいました。
「努力しない人はどうするんですか?」のところです。
あの梅永さんという人がどういう方なのかは存じ上げませんけれど。

そして、nonmamaさんのコメントに、全く同感です。
私の息子も4月から高校生になりましたが、高校入学するまでも、
入学後もほんとうに頑張っている様子を見ると、
親ももっと頑張ろう!って思います。

「努力しなくていい」という部分だけを鵜呑みにして、
学校や周囲に、理解してよ、支援してよ、と騒ぐ親がますます増えなきゃいいけど。

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あの先生を存じ上げない、というところに時代は変わった、健全にセグメント化された、ということを感じます。連帯ではなく健全な分断の向こうにしか当事者の社会参加はない、と私は言っていますがその方向に進んでいるのだとうれしくなります。
十数年前、あの先生のことを知らない人はいなかったと思います。就労支援の第一人者でしたから。

先生が当時教えていた学校のゼミの集まりに私も参加したことがあります。ちゅん平さんを連れていきました。そのころはちゅん平さんに経験値を積ませたくて誰かと会う機会を探していたのです。特別支援教育を学ぶ学生たちと学食で大学生にありがちな乾きものビュッフエの懇親会でした。「光とともに」の故・戸部先生もいらしてました。ギョーカイがちいさくてみんな仲良くてという牧歌的な時代です。
当時のちゅん平さんは二の腕が今の半分くらいで、顔が青白くて、ほっぺがへこんでいて、学食独特の油のにおいにやられたり、ビュッフェだけど自分では選べなかったりしました。でも特別支援教育を学ぶ学生さんたちはちゅん平さんに優しかったです。選べないちゅん平さんに食べ物をとりわけてあげて、ちゅん平さんを囲んでお話をしていました。健全な学生の姿でした。それでも彼らには悩みがありました。教員免許をとってもなかなかその大学からは採用されないというのです。採用されるのは、いわゆる有名大学の人です。有名大学の人はある程度偏りなくお勉強できる人ですから、凸凹な人たちの気持ちがわかりにくいかもということでした。本当にそうだ、と思いました。

今の先生は教員採用試験でも有利そうな有名大学に移り、ボス猫烏賊としても高額のセミナーやって免許を下す立場におられるようですから、ギョーカイ活動は先生ご自身には実り多いものだだったようですね。
昨日こういうつぶやきを大久保さんがしてました。
これを地で行ったギョーカイ人のおひとりではないでしょうか。

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「自閉症の人達に努力させるのは残酷だ」と言い、環境調整を推進し、「支援者の質がー」と研修とライセンスに引っ張ってきたギョーカイ。
その結果、大量の治せない支援者を作り、自閉っ子達の努力と成長する機会、力を奪い、自立の目を摘む。
誰のための言葉だったのか?
「敵は味方のふりをする」

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私はあの時であった教員採用試験で不利な大学の学生さんたちにはなんら反感を感じませんでした。
反感を感じたのは就労支援講演でした。ルサンチマン系の各種飛び道具を揃え、社会への恨みつらみをぶちまけさせ、この人たちに努力をさせてはいけない努力でカバーできることには限界があると公衆の面前でいうのです。まともな人なら発達障害者を雇いたくなくなるようなセミナーです。


そしてその後、私はこの先生のやってることにさらに疑問を感じるようになります。
私は当時、積極的に当事者の人たちに会っていました。会いたいと言われれば会いました。そして中には、この先生のもとで自助会的な何かをしているという人がいっぱいいました。私は裁判を起こす前であり、支援者は教育者でもあると思っていたので、有名な支援者のもとで自助会などやっている人はそれなりに物事を教えられた人たちだと思っていました。

逆でした。
そうした自助会活動をやっていない人の方が、ずっと常識がありました。
先生のもとで活動している人たちは、非常識で、そして高飛車でした。臆面もなくいろいろな要求をしてきました。今なら「支援を受けるほどだめになる」のはわかります。でも当時は内山医師がYTを治すのを期待していたほど私はバカでしたから、先生のもとで自助活動しているはずの人たちにどうしてこうも社会が受け入れにくい人が多いのか謎でした。

でもあたりまえですね。
自分の誤学習に基づいたうらみつらみをぶちまけてもたしなめられない。
そればかりか、「社会が理解すればいい」と言われる。
「社会が理解すればあなたたちは生きやすくなるのだ」とウソを教えられる。
「努力をしなくていい。努力でカバーできることには限界がある」と言われる。

そういう環境にいる当事者の人たちが、社会で生きることを目標に修行をしていた人たちと状態が違ってくるのは当たり前なのです。

だから昨日、柳沢アナウンサーが「努力しない人はどうするんですか?」ときいたとき「よく言ってくれた」と快哉を叫んだのでした。

「努力でカバーできることには限界がある」と当事者が言うのも、多くの場合ただのオウム返しでしょうね。木っ端ギョーカイ人が「生まれつきの脳障害で一生治らない」とオウム返ししているのと同じです。
ほとんどの当事者は限界まで努力したことなどないでしょう。したこともない努力を無駄だとオウム返ししているだけ。そしてそれが伝言ゲームでくるくる回るだけです。
そして支援者のもとではそれが正当化されますよね。
正当化されて努力しない。その結果を引き受けるのは当事者です。
そしてその間にギョーカイ人は、他人に努力しなくていいいと説くことで出世して金儲けしていきます。そういう仕組みです。

私がギョーカイに愛想をつかし、このブログを始めてからも、先生は講演で集合写真など見せて、そこにはちゅん平さんと私が映っていて、面識があることを好意的に語られていたらしい。
ということは花風社が「治す」「修行」路線をやっていることも、このブログの存在もご存じないのでしょう。
某所で十年ぶりに講演を受けた人の話によると、レジュメは十年前と同じもののひ孫コピーみたいなもんだったということなので、人は変わらないと思っているのかもしれません。

でも人は変わります。
今の私はわかるのです。
ギョーカイ人にとっての「支援」は「当事者接待」だったのだと。
なぜかというと、固定資産になってくれる当事者たちが、ケージの中で卵を産み続けてくれるめんどりだからです。鍛えるよりダメにしておくほうが彼らの利益になるのです。

皆さんは生涯をめんどりとして暮らしたいですか?
自分のお子さんをめんどりにしたいですか?
お子さんが四十になったとき、クマ抱いてテレビに出てたらうれしいですか悲しいですか?

一人一人が決めればいいのです。
ギョーカイとは違うオプションを、花風社は用意しておきます。


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努力には限界があるからどーした(あさイチ、発達障害特集速報)

2017-05-24 10:14:12 | 日記


さて、今日のブログは「多様性を許容する社会を作るための提言」もしくは「ギョーカイは二次障害を治すか」のどっちかにしようかなと考えていたら「あさイチ」が始まって発達障害の特集をやっているので見ることにしました。

率直に言って私はこの番組あんまり好きじゃありません。よほど興味あるゲストが出ているとき以外はだいたい、ひよっこ終わって数分たったらテレビ消して仕事します。ましてや先日のよるのクマのあと。期待しないで見ました。

結論から言うと、この前よりはずっとマシでした。クマいないし。私的には「努力しても限界がある」という梅永先生に「努力しない人はどうするんですか?」ときいて梅永先生が「努力するように促す」と答えていたのがツボでした。そうかあ、じゃあ努力を促すのも支援なのですね? それをギョーカイ人の口からきいたのは初めてです。あなたの飛び道具だったけどどっかに行ってしまった人たちは努力しなかったんですね? だからポイ捨てしたんですね?

私がギョーカイの論調でどうしてもわからないのは、努力には限界があることが努力をしない言い訳になっていることです。限界があってもやらないよりやったほうがましなわけだし、一人の人間の中には得意不得意があって努力が実りやすい資質もあると思うので、それを伸ばすためにもある程度の努力癖がついていた方がいいと思うのだけれど。ただ「普通」幻想を持ってると努力はきついんでしょうね。人間できないこともあるから。「普通」とか「人並」を強く理想としているときついです。「普通」とか「人並」に縛られているんだったら、まずは背骨を育てたらどうでしょ。

要するに白か黒か思考だと努力が実らないことが残酷に思える。だったら治すべきは白か黒か思考の方で、それも背骨が育つと変化があるでしょうね。そうすれば、たくさんの努力のあと努力が少しだけ実っても努力しなかったよりずっと気分がいいことに気づけると思うのです。

努力しているけど報われない、というより発達障害の人は、努力できない人が多いですね。(はい炎上)ニキさんに語ってもらった子どものときの世界観を読む限り、努力しないための土壌はそろっていますね。(参考図書『自閉っ子のための努力と手抜き入門』)おまけに努力をしなくていい言い訳を支援者がたくさん与えてくれますね。

一方でそういう支援者のウソに気づいた発達障害の人は努力しますね。そしてその努力は報われています。やってもやっても報われないように見えても、ある日一気に報われたりします。

頑張っている人を高く評価する、っていうことで私は猿烏賊方面に「差別者」とか言われたりします。でもね、頑張っている人を好ましく思うのは社会人として当たり前のことですよ。診断が告げられた時、「治ってほしい」と思うのが親として当たり前のことであるように。ギョーカイは親心の廃用性委縮を引き起こして自分たちの固定資産を確保します。そして私は「頑張っている人が好き」という自分の本能をたかがギョーカイごときに潰されるつもりはありません。

テレビ見てたら速報のテロップが入りました。横綱稀勢の里休場。

ほっとしました。昨日の相撲見て、相当悪いんだろうなと思ったから。

昨日は稀勢の里クラスタも荒れてました。休場したほうがいい、しないほうがいい、で。

私は遠巻きに見てました。だって私が決めることじゃないしね。横綱が決めることだしね。ただひとつ思ったのは、中には「自分が見ててつらいからもう休んでくれ」という方面の人たちがいて、この人たちが猿烏賊やギョーカイとかぶったということです。休む休まないはご本人の決めること。私たち贔屓は応援するだけです。

クマよりましじゃん、と思いながら見てたんですけど、稀勢の里休場、のテロップが入ったら「こんな番組より臨時ニュースやってほしい」と思いました。そして入りました、臨時ニュース。

初日に行って、あの神々しい土俵入りを見ておいてよかったです。
ゆっくり休んでまた活躍する姿を見せてください。
あれだけのことを乗り越えてきたのだから、これをどう乗り越えるかわくわくしつつ見守ります。

臨時ニュースやるほどのことか! という声もありましたが

当たり前ですよ。
一般人にとって、発達障害より稀勢の里の方が関心高いに決まっています。

どうしてか?
頑張っている人を見るのが好きなのは、人間として大事な大事な本能だからです。
努力しても努力しても報われず報われずそしてやっと最高位についた人に関心を持つのは人としての本能だからです。
15人に1人発達障害の人がいようとも
横綱一人には勝てないですよ。
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