寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 韓愈 柳子厚墓誌銘 (四ノ一)

2014-04-01 08:37:17 | 唐宋八家文
柳子厚墓誌銘 (四ノ一)
子厚諱宗元。七世祖慶、爲拓跋魏侍中、封濟陰公。曾伯祖奭、爲唐宰相、與褚遂良・韓瑗倶得罪武后、死高宗朝。皇考諱鎭、以事母棄太常博士、求爲縣令江南。其後以不能媚權貴失御史。權貴人死、乃復拜侍御史。號爲剛直。所與游、皆當世名人。
 子厚少敏、無不通達。逮其父時、雖少年已自成人、能取進士第、嶄然見頭角。衆謂柳氏有子矣。其後以博學宏詞、授集賢殿正字。儁傑廉悍、議論證古今、出入經史百子、踔風發、率常屈其座人、名聲大振。一時皆慕與之交、諸公要人爭欲令出我門下、交口薦譽之。
 貞元十九年、由藍田尉、拜監察御史。順宗即位、拜禮部員外郎。遇用事者得罪、例出爲刺史。未至又例貶州司馬。居自刻苦、務記覽爲詞章。汎濫停畜、爲深博無涯涘。而自肆於山水。

子厚諱(いみな)は宗元。七世の祖慶は、拓跋魏(たくばつぎ)の侍中と為り、済陰公に封ぜらる。曽伯祖(そうはくそ)奭(せき)は唐の宰相と為り、褚遂良(ちょすいりょう)・韓瑗(かんえん)と倶(とも)に武后に罪を得て、高宗の朝に死す。皇考諱は鎮、母に事(つか)うるを以って太常博士(たいじょうはくし)を棄て、求めて江南に県令と為る。その後権貴に媚(こ)ぶる能わざるを以って御史を失う。権貴の人死し、乃ち復た侍御史に拝せらる。号して剛直と為す。与(とも)に游ぶ所は、皆当世の名人なり。
 子厚少(わか)くして精敏、通達せざる無し。その父の時に逮(およ)んで、少年と雖も已に自ら成人し、能く進士の第(だい)を取り、嶄然(ざんぜん)として頭角を見(あらわ)す。衆は柳氏子有りと謂(い)えり。
 その後博学宏詞を以って、集賢殿の正字(せいじ)を授けらる。儁傑廉悍(しゅんけつれんかん)、議論今古に証拠(しょうきょ)し、経史百子(けいしひゃくし)に出入(しゅつにゅう)し踔風発(たくれいふうはつ)、率(おおむ)ね常にその座人を屈し、名声大いに振るう。一時皆慕いてこれと交わり、諸公要人争って我が門下に出でしめんと欲し、口を交えてこれを薦誉(せんよ)す。
 貞元十九年、藍田の尉より、監察御史に拝せらる。順宗位に即くや、礼部員外郎に拝せらる。事を用うる者の罪を得るに遇い、例として出だされて刺史となる。未だ至らざるに、また例として州の司馬に貶(へん)せらる。
 間に居て益々自ら刻苦し、記覧に務め、詞章を為(つく)る。汎濫停畜(はんらんていちく)、深博なること涯涘(がいし)無し。而して自ら山水の間に肆(ほしいまま)にす。


拓跋魏 鮮卑族拓跋氏の興した北魏のこと。 侍中 天子の顧問魏では宰相にあたる。 曽伯祖 曽祖父の兄。 皇考 本来天子の亡くなった父。 太常博士 宮中の式典係。 侍御史 官吏の違法を弾係。 逮 及ぶ。 第 及第。 嶄然 抜きんでること。 集賢殿の正字 宮中の図書編纂所の校正係。 儁傑廉悍 儁は俊、廉悍は鋭く激しい。 踔風発 言論がすぐれて勢いがあること。藍田の尉 藍田県の警察事務を担当する職、正九品上。 監察御史 地方の行政状態を視察してまわる官、正八品下。 礼部員外郎 宮中の祭祀儀礼、教育を管掌した従六品上の地位。 事を用うる者順宗即位に務めた王叔文・韋執誼ら、順宗が一年で退位して失脚した。 儁傑廉悍 儁は俊、廉悍は鋭く激しい。 踔風発 言論がすぐれて勢いがあること。 例 一統とみなされること。 間 閑に同じ汎濫停畜 あふれ出るほど蓄えること。 涯涘 果て。

子厚は名を宗元という。七世の祖の柳慶は北魏の侍中となって済陰公に封ぜられた。曽祖父の兄の柳奭は唐の宰相となり褚遂良・韓瑗と共に武后の咎めを受け、高宗の時代に刑死した。父の鎮は、母に仕えるため太常博士の官職を棄てて江南地方の知事を求めて長安を出た。その後は権力と地位の高い人に媚びることが出来ず、御史の職を失った。権力者が死ぬとすぐに侍御史に拝せられた。そのため剛直と呼ばれるようになった。交わる人はみな当世の名士であった。
 子厚は若いときから精密にして敏捷で、何事にも通じていた。父の在世中に、少年と雖もすでに大人の風格を備えていた。進士の試験に合格して頭角を顕わし、柳家に男子ありと称えられた。
 その後博学宏詞の試験に合格して集賢殿正字の官に就いた。俊才にして鋭く、議論の際には古今の論拠をあげ、経書・史書・諸子百家を自在に引用して言論風発、ほとんど同席の士を論破したので、大いに名を挙げた。一時はみな子厚と交際することを求め、身分の高い人は争って自分の一門に取り込もうとして、口々に誉めそやした。
 貞元十九年(803年)に藍田県の警察事務官から、監察御史に任命され、順宗が即位すると、礼部員外郎に大抜擢された。政権中枢の人が罰を受ける事件に連坐して子厚も都を出されて州の長官となった。その上、未だ任地に着く前に、また処罰を加えられ、州の長官補佐に左遷させられた。
 しかし子厚は閑職にあってますます刻苦して読書に務め、詩文をつくり、あふれるほどに知識を蓄え、その深く広いことは際限が無いほどになった。そして山川草木の間に心ゆくままの生活を送った。


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