孝愍皇帝名業。呉王晏之子、武帝孫也。封秦王。洛陽既陥、荀藩奉王趨許昌。時年十二。已而索綝迎入雍州。刺史賈疋等、奉爲皇太子、建行臺盗殺疋。麹允領雍州。懐帝凶問至。王即位於長安
石勒遣石虎攻鄴、陥而撽之。
漢屢寇長安。麹允・索綝屢敗之。未幾漢兵連陥諸郡逼長安、先陥外城。麹允・索綝退守小城、内外斷絶。城中饑甚。帝出降。漢將劉曜送平陽。聰享羣臣、命帝著青衣、行酒洗爵、又使執蓋。後遇害。帝在位四年。改元者一、曰建興。西晉自武帝至是凡四世、五十二年。瑯琊王立於建業。是爲中宗元皇帝。
孝愍皇帝名は業。呉王晏(あん)の子、武帝の孫なり。秦王に封ぜらる。洛陽既に陥り、荀藩(じゅんはん)、王を奉じて許昌に趨(はし)る。時に年十二。已にして、索綝(さくちん)、迎えて雍州(ようしゅう)に入る。刺史賈疋(かが)等、奉じて皇太子と為し、行台(こうだい)を建つ。盗、疋を殺す。麹允(きくいん)、雍州を領す。懐帝の凶問(きょうぶん)至る。王、長安に即位す。
石勒、石虎を遣わして鄴(ぎょう)を攻めしめ、陥れてこれに拠(よ)る。
漢、屡しば長安に寇(あだ)す。麹允・索綝屡しば之を敗る。未だ幾(いくばく)ならずして、漢の兵、連(しきり)に諸郡を陥れて、長安に逼(せま)り、先ず外城を陥れる。麹允・索綝、退いて小城を守り、内外断絶す。城中饑(う)うること甚だし。帝、出でて降る。漢の将劉曜、平陽に送る。聡、群臣を享し、帝に命じ、青衣を著(つ)けて、酒を行い爵を洗わしめ、又蓋(がい)を執(と)らしむ。後に害に遇(あ)う。帝、在位四年。改元する者一、建興を曰う。西晋は、武帝より是(ここ)に至るまで、凡(すべ)て四世、五十二年。。瑯琊王(ろうやおう)建業に立つ。是を中宗元皇帝と為す。
行台 臨時朝廷、行在所。 雍州 陜西省南部。 盗 賊。 凶問 凶報。 享し 酒宴を開くこと。 青衣 身分の低い者の衣服。 爵 さかずき。 蓋 日よけの傘。
孝愍皇帝名を業という。呉王晏の子で、武帝の孫にあたる。秦王に封ぜられた。洛陽が陥落したので、荀藩が秦王を奉じて許昌に逃れた。時に業は十二歳であった。やがて索綝が王を迎えて雍州に入った。刺史の賈疋等も、王を立てて皇太子とし、行在所を設けた。後に賈疋が賊に殺されたので、麹允が雍州を統治した。やがて懐帝殺害の報が入ったので、秦王は長安で即位した。
石勒は、石虎を遣わして鄴を攻めさせ、陥落させた。そしてここを根拠にした。
漢軍はたびたび長安を攻めた。麹允・索綝、はその都度撃退していたが、間もなく漢軍は諸郡を陥れて長安に迫り、外城を陥落させた。麹允と索綝は退いて小城に立てこもったが、内外の連絡が絶え、すまじい飢餓が襲った。愍帝は遂に城を出て降伏した。漢の将軍劉曜は帝を平陽に送った。劉聡は戦勝を祝って、群臣を饗応した。その折、帝に命じての青い衣を着け、酌をさせ、杯を洗わせたり、日よけの傘を持たせて、さんざんに辱めた上ついに殺した。
帝は在位四年で改元すること一回、建興といった。西晋は武帝からここにいたるまで四世、五十二年であった。その後、瑯琊王が建業で即位した。これが中宗元皇帝である。
石勒遣石虎攻鄴、陥而撽之。
漢屢寇長安。麹允・索綝屢敗之。未幾漢兵連陥諸郡逼長安、先陥外城。麹允・索綝退守小城、内外斷絶。城中饑甚。帝出降。漢將劉曜送平陽。聰享羣臣、命帝著青衣、行酒洗爵、又使執蓋。後遇害。帝在位四年。改元者一、曰建興。西晉自武帝至是凡四世、五十二年。瑯琊王立於建業。是爲中宗元皇帝。
孝愍皇帝名は業。呉王晏(あん)の子、武帝の孫なり。秦王に封ぜらる。洛陽既に陥り、荀藩(じゅんはん)、王を奉じて許昌に趨(はし)る。時に年十二。已にして、索綝(さくちん)、迎えて雍州(ようしゅう)に入る。刺史賈疋(かが)等、奉じて皇太子と為し、行台(こうだい)を建つ。盗、疋を殺す。麹允(きくいん)、雍州を領す。懐帝の凶問(きょうぶん)至る。王、長安に即位す。
石勒、石虎を遣わして鄴(ぎょう)を攻めしめ、陥れてこれに拠(よ)る。
漢、屡しば長安に寇(あだ)す。麹允・索綝屡しば之を敗る。未だ幾(いくばく)ならずして、漢の兵、連(しきり)に諸郡を陥れて、長安に逼(せま)り、先ず外城を陥れる。麹允・索綝、退いて小城を守り、内外断絶す。城中饑(う)うること甚だし。帝、出でて降る。漢の将劉曜、平陽に送る。聡、群臣を享し、帝に命じ、青衣を著(つ)けて、酒を行い爵を洗わしめ、又蓋(がい)を執(と)らしむ。後に害に遇(あ)う。帝、在位四年。改元する者一、建興を曰う。西晋は、武帝より是(ここ)に至るまで、凡(すべ)て四世、五十二年。。瑯琊王(ろうやおう)建業に立つ。是を中宗元皇帝と為す。
行台 臨時朝廷、行在所。 雍州 陜西省南部。 盗 賊。 凶問 凶報。 享し 酒宴を開くこと。 青衣 身分の低い者の衣服。 爵 さかずき。 蓋 日よけの傘。
孝愍皇帝名を業という。呉王晏の子で、武帝の孫にあたる。秦王に封ぜられた。洛陽が陥落したので、荀藩が秦王を奉じて許昌に逃れた。時に業は十二歳であった。やがて索綝が王を迎えて雍州に入った。刺史の賈疋等も、王を立てて皇太子とし、行在所を設けた。後に賈疋が賊に殺されたので、麹允が雍州を統治した。やがて懐帝殺害の報が入ったので、秦王は長安で即位した。
石勒は、石虎を遣わして鄴を攻めさせ、陥落させた。そしてここを根拠にした。
漢軍はたびたび長安を攻めた。麹允・索綝、はその都度撃退していたが、間もなく漢軍は諸郡を陥れて長安に迫り、外城を陥落させた。麹允と索綝は退いて小城に立てこもったが、内外の連絡が絶え、すまじい飢餓が襲った。愍帝は遂に城を出て降伏した。漢の将軍劉曜は帝を平陽に送った。劉聡は戦勝を祝って、群臣を饗応した。その折、帝に命じての青い衣を着け、酌をさせ、杯を洗わせたり、日よけの傘を持たせて、さんざんに辱めた上ついに殺した。
帝は在位四年で改元すること一回、建興といった。西晋は武帝からここにいたるまで四世、五十二年であった。その後、瑯琊王が建業で即位した。これが中宗元皇帝である。
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