亮嘗推演兵法、作八陣圖。至是懿案行其營壘、歎曰、天下奇材也。亮爲政無私。馬謖素爲亮所知。及敗軍流涕斬之、而卹其後。李平・廖立、皆爲亮所廃廢。及聞亮之喪、皆歎息流涕、卒至發病死。史稱、亮開誠心、布公道。刑政雖峻而無怨者。眞識治之良材。而謂其材長於治國、將略非所長、則非也。初丞相亮、嘗表於帝曰、臣成都有桑八百株、薄田十五頃。子弟衣食自有餘。不別治生以長尺寸。臣死之日、不使内有餘帛、外有贏財、以負陛下。至是卒。如其言。諡忠武。
亮、嘗て兵法を推演(すいえん)して、八陣の図を作る。是(ここ)に至って、懿、其の営塁を案行(あんこう)し、歎じて曰く、「天下の奇材なり」と。
亮政を為すこと私(わたくし)無し。馬謖(ばしょく)素より亮の知る所と為る。軍を敗(やぶ)るに及び、流涕して之を斬り、而(しか)して其の後を卹(あわれ)む。李平・廖立(りょうりゅう)皆亮の廃する所と為る。亮の喪(そう)を聞くに及び、皆歎息流涕(りゅうてい)し、卒(つい)に病を発して死するに至る。史に称す、亮、誠心を開き、公道を布(し)く。刑政(けいせい)、峻(しゅん)なりと雖も而も怨む者無し。真に治(ち)を識るの良材なりと。而して其の材、国を治むるに長じて、将略は長ずる所に非ずと謂うは、則ち非なり。初め丞相亮、嘗て帝に表して曰く、「臣、成都に桑八百株、薄田(はくでん)十五頃(けい)有り。子弟の衣食自(おのずか)ら余り有り。別に生を治めて以って尺寸(せきすん)を長ぜず。臣死するの日、内に余帛(よはく)有り、外に贏財(えいざい)有って、以って陛下に負(そむ)かしめず」と。是(ここ)に至って卒(しゅっ)す。其の言の如し。忠武と諡(おくりな)す。
推演 推し広める、推理演繹。 八陣の図 八種の陣形、魚鱗・鶴翼・長蛇・偃月・鉾矢・方円・衡軛・雁行。 案行 調べてまわる。 史に称す 陳寿の三国志に言う。 薄田 痩せ地。 頃 面積の単位、畝(ほ)の百倍。 帛 絹布。 贏財 余った財産。
亮は嘗て兵法を推し広めて八陣の図をつくった。亮の死後懿はその陣営の跡を調べまわり、感歎して言った「まさに天下の奇才というべきか」と。
亮は政治を行うのに私心を差し挟まなかった。馬謖は日頃亮から厚遇を受けていたが、軍を敗戦に陥らせたときには、涙をのんでこれを斬った。そして残された遺族に手厚い保護を与えた。李平と廖立はともに亮によって罷免されたが、亮の訃報に接すると涙を流して歎き、そのために病を得て死んだほどであった。三国志で「諸葛亮は真心を尽し公平な政治を行った刑罰は厳しかったが、それを怨む者はいなかった。政治の要諦を心得た優れた人物であった」と述べている。しかしさらに「その才は国を治めるにはすぐれているが、将としての智略はいまだしである」と断じているのは不当である。以前丞相亮は後帝に、「臣は成都に桑八百株と、やせ地とはいえ十五頃の田があります。子弟を養うには十分すぎるほどでございます。別に生業を営んで多少の財を得ようとは思いません。臣の死後、家の内外に余分な絹や財産を残して、陛下の信頼を裏切るようなことはございません。」と上奏したことがあった。はたして没した後はそのとおりであった。忠武とおくり名された。