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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 泣いて馬謖を斬る

2011-11-22 12:57:23 | 十八史略

亮嘗推演兵法、作八陣圖。至是懿案行其營壘、歎曰、天下奇材也。亮爲政無私。馬謖素爲亮所知。及敗軍流涕斬之、而卹其後。李平・廖立、皆爲亮所廃廢。及聞亮之喪、皆歎息流涕、卒至發病死。史稱、亮開誠心、布公道。刑政雖峻而無怨者。眞識治之良材。而謂其材長於治國、將略非所長、則非也。初丞相亮、嘗表於帝曰、臣成都有桑八百株、薄田十五頃。子弟衣食自有餘。不別治生以長尺寸。臣死之日、不使内有餘帛、外有贏財、以負陛下。至是卒。如其言。諡忠武。

亮、嘗て兵法を推演(すいえん)して、八陣の図を作る。是(ここ)に至って、懿、其の営塁を案行(あんこう)し、歎じて曰く、「天下の奇材なり」と。
亮政を為すこと私(わたくし)無し。馬謖(ばしょく)素より亮の知る所と為る。軍を敗(やぶ)るに及び、流涕して之を斬り、而(しか)して其の後を卹(あわれ)む。李平・廖立(りょうりゅう)皆亮の廃する所と為る。亮の喪(そう)を聞くに及び、皆歎息流涕(りゅうてい)し、卒(つい)に病を発して死するに至る。史に称す、亮、誠心を開き、公道を布(し)く。刑政(けいせい)、峻(しゅん)なりと雖も而も怨む者無し。真に治(ち)を識るの良材なりと。而して其の材、国を治むるに長じて、将略は長ずる所に非ずと謂うは、則ち非なり。初め丞相亮、嘗て帝に表して曰く、「臣、成都に桑八百株、薄田(はくでん)十五頃(けい)有り。子弟の衣食自(おのずか)ら余り有り。別に生を治めて以って尺寸(せきすん)を長ぜず。臣死するの日、内に余帛(よはく)有り、外に贏財(えいざい)有って、以って陛下に負(そむ)かしめず」と。是(ここ)に至って卒(しゅっ)す。其の言の如し。忠武と諡(おくりな)す。


推演 推し広める、推理演繹。 八陣の図 八種の陣形、魚鱗・鶴翼・長蛇・偃月・鉾矢・方円・衡軛・雁行。 案行 調べてまわる。 史に称す 陳寿の三国志に言う。 薄田 痩せ地。 頃 面積の単位、畝(ほ)の百倍。 帛 絹布。 贏財 余った財産。

亮は嘗て兵法を推し広めて八陣の図をつくった。亮の死後懿はその陣営の跡を調べまわり、感歎して言った「まさに天下の奇才というべきか」と。
亮は政治を行うのに私心を差し挟まなかった。馬謖は日頃亮から厚遇を受けていたが、軍を敗戦に陥らせたときには、涙をのんでこれを斬った。そして残された遺族に手厚い保護を与えた。李平と廖立はともに亮によって罷免されたが、亮の訃報に接すると涙を流して歎き、そのために病を得て死んだほどであった。三国志で「諸葛亮は真心を尽し公平な政治を行った刑罰は厳しかったが、それを怨む者はいなかった。政治の要諦を心得た優れた人物であった」と述べている。しかしさらに「その才は国を治めるにはすぐれているが、将としての智略はいまだしである」と断じているのは不当である。以前丞相亮は後帝に、「臣は成都に桑八百株と、やせ地とはいえ十五頃の田があります。子弟を養うには十分すぎるほどでございます。別に生業を営んで多少の財を得ようとは思いません。臣の死後、家の内外に余分な絹や財産を残して、陛下の信頼を裏切るようなことはございません。」と上奏したことがあった。はたして没した後はそのとおりであった。忠武とおくり名された。


十八史略 死せる諸葛生ける仲達を走らしむ

2011-11-19 09:29:25 | 十八史略

亮以前者數出、皆運糧不繼、使己志不伸、乃分兵屯田。耕者雜於渭濱居民之、而百姓安堵、軍無私焉。亮數挑懿戰。懿不出。乃遣以巾幗婦人之服。亮使者至懿軍。懿問其寢食及事煩簡、而不及戎事。使者曰、諸葛公夙興夜寐、罰二十以上皆親覽。所噉食、不至數升。懿告人曰、食少事煩、其能久乎。
亮病篤。有大星、赤而芒、墜亮營中。未幾亮卒。楊儀整軍還。百姓奔告懿。懿追之。姜維令儀反旗鳴鼓、若將向懿。懿不敢逼。百姓爲之諺曰、死諸葛、走生仲達。懿笑曰、吾能料生、不能料死。

亮、前者(さき)に数しば出でしが、皆、運糧継がず、己(おの)が志をして伸びざらしめしを以って、乃ち兵を分って屯田す。耕す者、渭浜(いひん)居民の間に雑(まじ)り、而も百姓(ひゃくせい)安堵し、軍に私(わたくし)無し。亮、しばしば懿に戦を挑む。懿、出でず。乃ち遣(おく)るに巾幗(きんかく)婦人の服を以ってす。亮の使者、懿の軍に至る。懿、其の寝食及び事の煩簡を問うて、戎事(じゅうじ)に及ばず。使者曰く、「諸葛公、夙(つと)に興(お)き、夜に寝(い)ね、罰二十以上は皆親(みずか)ら覧(み)る。噉食(たんしょく)するところは、数升に至らず」と。懿、人に告げて曰く、「食少なく事煩わし、其れ能(よ)く久しからんや」と。
亮、病篤(あつ)し。大星有り、赤くして芒あり、亮の営中に墜つ。未だ幾(いくばく)ならずして亮卒す。(ちょうし)楊儀、軍を整えて還る。百姓奔(はし)って懿に告ぐ。懿之を追う。姜維(きょうい)、儀をして旗を反(かえ)し鼓を鳴らし、将(まさ)に懿に向かわんとするが若(ごと)くせしむ。懿敢えて逼(せま)らず。百姓之が為に諺(ことわざ)して曰く、「死せる諸葛、生ける仲達を走らしむ」と。懿笑って曰く、「吾能(よ)く生を料(はか)れども、死を料ること能わず」と。


運糧 兵糧の運搬。 渭浜 渭水の水辺。 屯田 兵士がその土地で耕作しながら駐留すること。 巾幗 婦人の髪飾り。 戎事 軍事。 噉食 噉は食らう、食事。 数升 漢の升は合と同じで日本の勺より少し多い。  丞相の次官。 仲達 司馬懿のあざな。 

諸葛亮はこれまで何回も出兵しながら、いつも食糧の補給がうまくいかず、目的を達せられなかったので、今度は兵士を手分けして屯田させることにした。耕作する兵士は渭水の水辺の住民の中に混じったが、百姓たちは安心して生活し、兵士の方にも私欲を満たそうとする者がいなかった。
亮は繰り返し戦いを挑んだが、司馬懿は討って出ようとしなかったそこで亮は婦人服と髪飾りを贈って懿を挑発した。亮の使者が魏の軍営にきたとき、懿は亮の寝食、仕事ぶりなど日常の生活について尋ね、軍事には触れなかった。使者は「公は朝早くから起き、夜更けてから寝みます。杖二十ほどの軽い罪でもご自身で裁かれます。食事は日に数升(勺)しか召し上がりません」と答えた。懿は傍らの者に言った「食が細く、多忙とあれば、そう長い命ではあるまい」
果たして亮は病に罹った。ある夜のこと、赤く大きなほうき星が亮の営中に墜ちた。その後間もなく諸葛亮は亡くなった。次官の楊儀は軍をまとめて撤退にかかった。土地の者が急いで懿に通報し、懿は追撃にかかった。蜀の陣営では姜維が楊儀に勧めて、旗の向きを変え、太鼓を打ち鳴らして魏軍に反撃するかに見せかけた。懿は追撃を止めて引き上げてしまった。土地の者は「死んだ諸葛亮孔明が生きた司馬懿仲達を退散させた」と評したのを聞いて懿は苦笑して「生きている人間なら予想はできるが、死んだ人間ではどうにもならぬ」と言った。


十八史略 木牛流馬

2011-11-17 10:36:05 | 十八史略

呉王孫權、自稱皇帝於武昌、追尊父堅、爲武烈皇帝、兄策爲長沙桓王。已而遷都建業。
蜀漢丞相亮、又伐魏圍祁山。魏遣司馬懿督諸軍拒亮。懿不肯戰。賈詡等曰、公畏蜀如虎。奈天下笑何。懿乃使張郃向亮。亮逆戰。魏兵大敗。亮以糧盡退軍。郃追之、與亮戰、中伏弩而死。亮還勸農講武、作木牛流馬、治邸閣、息民休士、三年而後用之。悉衆十萬、又由斜谷口伐魏、進軍渭南。魏大將軍司馬懿引兵拒守。

呉王孫権、自ら皇帝を武昌に称し、父堅を追尊して武烈皇帝と為し、兄策を長沙桓王(ちょうさかんおう)と為す。已(すで)にして都を建業に遷(うつ)す。
蜀漢の丞相亮、また魏を伐ち、祁山(きざん)を囲む。魏、司馬懿(しばい)をして、諸軍を督して、亮を拒(ふせ)がしむ。懿、肯(あえ)て戦わず。賈詡(かく)等曰く、「公、蜀を畏(おそる)ること虎の如し。天下の笑いを奈何(いかん)せん」と。懿、乃ち張郃(ちょうこう)をして亮に向かわしむ。亮、逆(むか)え戦う。魏の兵、大いに敗る。亮、糧の尽くるを以って軍を退く。郃、之を追い、亮と戦い、伏弩に中(あた)って死す。亮、還って農を勧め武を講じ、木牛流馬を作り、邸閣を治め、民を息(やす)め士を休め、三年にして後に之を用う。衆十万を悉(つ)くして、又斜谷口(やこくこう)より魏を伐ち、進んで渭南(いなん)に軍す。魏の大将軍司馬懿、兵を引いて拒守(きょしゅ)す。


木牛流馬 牛馬をかたどった兵糧運搬の仕掛け。 邸閣 食糧庫。 斜谷口 陜西省褒城県にある。

呉王の孫権は、武昌にて自ら皇帝を称し、父孫堅に武烈皇帝の称を追尊し、兄孫策を長沙桓王として建業に遷都した。
蜀漢の丞相亮は再び魏を伐って祁山を包囲した。魏は司馬懿を派遣し諸軍を督励して亮を防いだが敢えて戦わなかった。部将の賈詡等が「公は蜀を虎のように畏れておられるが、天下の物笑いになるのをいかがいたしますか」と責めたので張郃を遣って諸葛亮に向かわせた。亮はこれを迎え撃って魏軍を散々に破った。その後亮は糧食が尽きたので、兵を引いた。張郃はその機に乗じて亮を追撃したが伏兵の弩(いしゆみ)に射られて死んだ。
諸葛亮は蜀に還って農業を奨励し、武術を習わせ、木牛流馬と呼ぶ兵糧を運ぶ仕掛け車を作り、糧秣倉庫を造り、民と兵士を休息させて三年後に再び動員した。総勢十万をくり出し斜谷口から魏に侵攻し、渭水の南に布陣した。魏の大将軍司馬懿が兵を率いて守り防いだ。


十八史略 死して後已まん

2011-11-15 09:10:49 | 十八史略
後の出師の表
 
明年、率大軍攻祁山。戎陣整齊、號令明肅。始魏以昭烈既崩、數歳寂然無聞、略無所備。猝聞亮出、朝野恐懼。於是天水・安定等郡、皆應亮、關中響震。魏主如長安、遣張郃拒之。亮使馬謖督諸軍戰于街亭。謖違亮節度。郃大破之。亮乃還漢中。已而復言於漢帝曰、漢賊不兩立、王業不偏安。臣鞠躬盡力、死而後已。至於成敗利鈍、非臣所能逆覩也。引兵出散關、圍陳倉。不克。

明年、大軍を率いて、祁山(きざん)を攻む。戎陣(じゅうじん)整斉、号令明肅(めいしゅく)なり。始め魏、昭烈既に崩じ、数歳寂然として聞くこと無きを以って、略(ほぼ)備うる所無し。猝(にわか)に亮の出づるを聞き、朝野恐懼(きょうく)す。是(ここ)に於いて天水・安定等の郡、皆亮に応じ、関中響震(きょうしん)す。魏主、長安に如(ゆ)き、張郃(ちょうこう)をして之を拒(ふせ)がしむ。亮、馬謖(ばしょく)をして諸軍を督(とく)し、街亭に戦わしむ。謖、亮の節度に違(たが)う。郃大いに之を破る。亮乃ち関中に還る。已(すで)にして復(また)漢帝に言(もう)して曰く、「漢と賊とは両立せず、王業は偏安(へんあん)せず。臣、鞠躬(きくきゅう)して力を尽し、死して後に已(や)まん。成敗利鈍(りどん)に至っては、臣が能く逆(あらかじ)め覩(み)る所に非ざるなり」と。兵を引いて散関より出で、陳倉を圍(かこ)む。克たず。

祁山 甘粛省西和県。 明肅 明らかでだらけないこと。 響震 驚き騒ぐこと。 天水・安定 甘粛省の一地名。 節度 指図。 偏安 辺鄙な地に安んじる。 鞠躬 身を屈め敬う、転じて一事に専念して顧みる余裕がないこと。利鈍 鋭いかなまくらか、うまくいくかいかないか。 逆覩 逆はあらかじめ、予知すること

翌年、諸葛亮は大軍を率いて魏の祁山を攻めた。漢軍の陣営は整然、号令は厳かで明らかであった。当初は魏では蜀の昭烈帝が崩御してから数年間ひっそり静まりかえっていたので、備えをしていなかった。そこに突然亮が攻め込んだという知らせに、朝廷はもとより地方でも大いに恐れおののいた。かくて天水・安定等の諸郡は、皆亮に呼応したので関中は大騒ぎになった。
魏主曹叡は長安に赴き、張郃に防禦を命じた。亮は馬謖に諸軍を指揮させて街亭で戦わせた。ところが馬謖は亮の指図に背いたので張郃のために散々に打ち破られた。亮は残兵をまとめて関中に帰った。そしてまた帝に書を奉って(後の出師の表)「漢と賊(魏)とは両立せず、王業は僻地蜀に安んじていて成るものではありません。臣亮、ただひたすら力を尽して、死して後已まんの覚悟であります。もとより勝敗成否は臣の予知するところではありません」と申し上げた。そして兵をひきいて散関(陜西省宝鶏県)から打って出て、陳倉(同)を囲んだが、勝つには至らなかった。


十八史略 出師の表

2011-11-10 14:39:17 | 十八史略

漢丞相亮、率諸軍北伐魏。臨發上疏曰、今天下三分、州疲弊。此危急存亡之秋也。宜開張聖聽、不宜塞忠諌之路。宮中・府中、倶爲一體。陟罰臧否、不宜異同。若有作姦犯科及忠善者、宜付有司論其刑賞、以昭平明之治。親賢臣遠小人、此先漢所以興隆也。親小人遠賢臣、此後漢所以傾頽也。臣本布衣、躬畊南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事。由是感激、許先帝以驅馳。先帝知臣謹慎、臨崩、寄以大事。受命以來、夙夜憂懼、恐付託不效、以傷先帝之明。故五月渡瀘、深入不毛。今南方已定、兵甲已足。當奬率三軍、北定中原。興復漢室、還于舊都、此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。遂屯漢中。

漢の丞相亮、諸軍を率いて、北のかた魏を伐つ。発するに臨んで、上疏(じょうそ)して曰く、「今、天下三分し、益州疲弊せり。此れ危急存亡の秋(とき)なり。宜しく聖聴を開帳すべく、宜しく忠諌(ちゅうかん)の路を塞ぐべからず。宮中・府中は倶(とも)に一体たり。臧否(ぞうひ)を陟罰(ちょくばつ)するに、宜しく異同あるべからず。若し、姦を作(な)し、科を犯し、及び忠善の者有らば、宜しく有司に付して、その刑賞を論じ、以って平明の治を昭(あきら)かにすべし。賢臣を親しみ、小人を遠ざくるは、此れ先漢の興隆せし所以なり。小人を親しみ、賢人を遠ざくるは、此れ後漢の傾頽(けいたい)せし所以なり。臣、本(もと)布衣(ふい)、南陽に躬畊(きゅうこう)し、性命を乱世に苟全(こうぜん)して、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。先帝、臣が卑鄙(ひひ)なるを以ってせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)して、臣を草廬(そうろ)の中に三顧し、臣に諮(と)うに当世の事を以ってす。是に由(よ)って感激し、先帝に許すに駆馳(くち)を以ってす。先帝、臣の謹慎なるを知り、崩ずるに臨み、寄するに大事を以ってせり。命を受けてより以来、夙夜(しゅくや)憂懼(ゆうく)し、付託の效(こう)あらずして、以って先帝の明を傷(そこな)わんことを恐る。故に五月、瀘(ろ)を渡り、深く不毛に入る。今、南方、すでに定まり、兵甲すでに足る。当(まさ)に三軍を奨率(しょうそつ)して、北のかた中原を定むべし。漢室を興復し、旧都を還(かえ)さんことは、此れ臣が先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり」と。遂に漢中に屯(たむろ)す。

上疏 書をたてまつること。 聖聴を開帳 臣下の言葉をよく聴くこと。 忠諌 忠義の諫言。 宮中・府中 宮中は禁中・府中は幕府。 臧否 善悪。 陟罰 陟は登る、褒賞と罰則。 先漢 文帝・景帝の治世。 後漢 桓帝・霊帝の治世。 布衣 無官、庶人。 躬畊 みずから耕す。 苟全 とりあえず全うする。 聞達 世間に知れること。 卑鄙 身分が低いこと。 枉屈 曲げ、屈めること。 草廬 粗末ないおり。 三顧 三度訪ねる、目上の人が礼を尽くすこと。 駆馳 奔走すること。 夙夜 一日中。 憂懼 憂え恐れること。 效 効に同じ。 瀘 瀘水。 兵甲 兵は武器、甲はよろい。 奨率 奨帥、励まし率いる。

漢の丞相亮がいよいよ三軍を率いて魏を伐つことになった。出発に臨んで後皇帝に書(出師の表)を奉った。(227年)
「今、天下三分し、わが益州は最も疲弊しており、まさに危急存亡のときであります。陛下にはよく臣下の言葉をお聞きになりまして、忠義の諫言にはどうか路を閉ざされませぬようなされませ。
宮廷と政府とは一体であります。善悪の賞罰には違いがあってはなりません。もし悪事を行い罪を犯す者、あるいは忠義善良な者は、役人に命じて刑罰、褒賞を決めさせ、政治の公平正明を天下に示すべきであります。
賢臣を近づけ小人を遠ざけたことが先漢の興隆した原因でありますし、小人を近づけ賢臣を遠ざけたことこそ、後漢が衰亡した原因であります。
私はもと無官の平民で、南陽にみずから田を耕し、この乱世にただ一命を大事にと、諸侯に仕えての栄達に背を向けて参りました。先帝は私が卑しい身分であるにも拘わらず、自ら高貴な身を枉げられて、三度もむさくるしい庵を訪れられて、当世の急務について下問されました。これがために感激して先帝のために奔走することを誓ったのであります。
先帝は私がつつしみ深いことをお認めになり、ご臨終の際、私に国家の大事を託されました。ご遺命を受けてよりこのかた、日夜心を砕き、ご信任に背いて先帝の聖明を汚すようなことがないかと恐れておりました。それ故五月、瀘水を渡って、深く不毛の地に入ったのでございます。
今、南方はすでに平定され、軍備も整いました。三軍を励まして、北のかた中原の地を平定すべきと考えます。漢の王室を復興し、旧都長安にふたたび還ることこそ私が先帝の恩に報い、陛下に忠誠を尽くすためのつとめであります。」こうして漢中に兵を進めて駐屯した。