魏主以舟師撃呉。呉列艦于江。江水盛長。魏主臨望、歎曰、我雖有武夫千羣、無所施也。於是還師。
南夷畔漢。丞相亮往平之。有孟獲者。素爲夷漢所服。亮生致獲、使觀營陣、緃使更戰。七緃七禽、猶遺獲。獲不去曰、公天威也。南人不復反矣。
魏主又以舟師臨呉。見波濤洶湧、歎曰、嗟乎、固天所以限南北也。
魏主丕殂。僭位七年。改元者一、曰黄初。諡曰文皇帝。子叡立。是爲明帝。叡母被誅。丕嘗與叡出獵、見子母鹿。既射其母、使叡射其子。叡泣曰、陛下已殺其母。臣不忍殺其子。丕惻然。及是爲嗣即位。
處士管寧、字幼安。自東漢末、避地遼東三十七年。魏徴之。乃浮海西歸。拝官不受。
魏主舟師(しゅうし)を以って呉を撃つ。呉、艦を江に列す。江水盛長す。魏主、臨望(りんぼう)し、歎じて曰く、我、武夫(ぶふ)千群有りと雖も、施す所無きなり、と。是(ここ)に於いて師を還す。
南夷、漢に畔(そむ)く。丞相亮、往(ゆ)いて之を平らぐ。孟獲という者有り。素より夷漢(いかん)の服する所と為る。亮、獲を生致(せいち)し、営陣を観(み)しめ、縦(ゆる)して更に戦わしむ。七縦七禽(しちしょうしちきん)、猶獲を遣(や)る。獲、去らずして曰く、公は天威なり。南人復た反せず、と。
魏主、又舟師を以って呉に臨む。波濤の洶湧(きょうよう)するを見て、歎じて曰く、嗟乎(ああ)、固(まこと)に天の南北に限る所以(ゆえん)なり、と。
魏主丕、殂(そ)す。位を僭(せん)すること七年。改元する者(こと)一、黄初と曰う。諡(おくりな)して文皇帝と曰う。子の叡(えい)立つ。是を明帝と為す。叡の母、誅せらる。
丕、嘗て叡と出でて猟し、子母(しぼ)の鹿を見る。既に其の母を射(い)、叡をして其の子を射しむ。叡、泣いて曰く、陛下、已に其の母を殺せり。臣、其の子を殺すに忍びず、と。丕惻然(そくぜん)たり。是(ここ)に及んで、嗣と為り、位に即く。
処士管寧(かんねい)、字は幼安。東漢の末より、地を遼東に避くること三十七年。魏、之を徴(め)す。乃ち海に浮かんで西に帰る。官に拝すれども、受けず。
舟師 水軍、ふないくさ。 夷漢の服する所 夷も漢も共に畏服する。 生致 生け捕り。 七縦七禽 七度解き放って七度捕える。 洶湧 波が逆巻くさま。殂す 死ぬこと。 僭 身分を侵すこと、僭称。 惻然 あわれみ、心を痛めること。処士 仕官していない人。
魏主曹丕が水軍を率いて呉を攻めた。呉は軍船を揚子江に並べてこれを迎えた。折しも揚子江の水かさは増していた。曹丕はそれを見ると、「千隊ものつわものを率いているが、これではどうしようもない」と軍を帰した。
その頃、雲南の族が漢に叛いた。丞相の諸葛亮が出兵してこれを平定したが、猛獲という勇者がおり、族はもとより、漢でもその勇猛ぶりは知れ渡っていた。亮はこの猛獲を生け捕りにして、漢の陣営を見せた後、解き放って再度戦う機会を与えた。七たび解き放って七たびとらえた。なおも行かせようとすると、猛獲はこう言った「公の武威は天賦のものです。南のものは二度と叛きません」と。
その後、曹丕は再び水軍を発して呉に向かったが、又もや逆巻く波に遮られた。嘆息して「ああ、まことにこの揚子江は、天が南と北に天下を分かとうという意志のあらわれであろうか」と言った。
魏主曹丕が病死した(226年)。帝位を僭称すること七年、改元すること一度、黄初といった。文皇帝とおくりなした。子の叡が位に立った。これを明帝という。叡の母は以前に讒言にあって誅殺されていた。
曹丕はある日、叡をつれて猟にでかけ、親子づれの鹿を見つけた。丕がすかさず母鹿を射止めると叡に向かって子鹿を射るよう命じた。叡は泣いて訴えた「陛下は母鹿を殺しました。私はその子を殺すに忍びません」と。それを聞いて丕は悲痛な思いをした。こうして叡が後嗣ぎとなり、位に即いたのである。
民間の士に管寧という者がいた。字を幼安といい、東漢の末から、乱世を避けて、遼東の地に居ること三十七年もの間に及んだ。曹丕がこれを招いたところ、海路西に向かって魏に帰ってきたが、士官を固辞して受けなかった。
南夷畔漢。丞相亮往平之。有孟獲者。素爲夷漢所服。亮生致獲、使觀營陣、緃使更戰。七緃七禽、猶遺獲。獲不去曰、公天威也。南人不復反矣。
魏主又以舟師臨呉。見波濤洶湧、歎曰、嗟乎、固天所以限南北也。
魏主丕殂。僭位七年。改元者一、曰黄初。諡曰文皇帝。子叡立。是爲明帝。叡母被誅。丕嘗與叡出獵、見子母鹿。既射其母、使叡射其子。叡泣曰、陛下已殺其母。臣不忍殺其子。丕惻然。及是爲嗣即位。
處士管寧、字幼安。自東漢末、避地遼東三十七年。魏徴之。乃浮海西歸。拝官不受。
魏主舟師(しゅうし)を以って呉を撃つ。呉、艦を江に列す。江水盛長す。魏主、臨望(りんぼう)し、歎じて曰く、我、武夫(ぶふ)千群有りと雖も、施す所無きなり、と。是(ここ)に於いて師を還す。
南夷、漢に畔(そむ)く。丞相亮、往(ゆ)いて之を平らぐ。孟獲という者有り。素より夷漢(いかん)の服する所と為る。亮、獲を生致(せいち)し、営陣を観(み)しめ、縦(ゆる)して更に戦わしむ。七縦七禽(しちしょうしちきん)、猶獲を遣(や)る。獲、去らずして曰く、公は天威なり。南人復た反せず、と。
魏主、又舟師を以って呉に臨む。波濤の洶湧(きょうよう)するを見て、歎じて曰く、嗟乎(ああ)、固(まこと)に天の南北に限る所以(ゆえん)なり、と。
魏主丕、殂(そ)す。位を僭(せん)すること七年。改元する者(こと)一、黄初と曰う。諡(おくりな)して文皇帝と曰う。子の叡(えい)立つ。是を明帝と為す。叡の母、誅せらる。
丕、嘗て叡と出でて猟し、子母(しぼ)の鹿を見る。既に其の母を射(い)、叡をして其の子を射しむ。叡、泣いて曰く、陛下、已に其の母を殺せり。臣、其の子を殺すに忍びず、と。丕惻然(そくぜん)たり。是(ここ)に及んで、嗣と為り、位に即く。
処士管寧(かんねい)、字は幼安。東漢の末より、地を遼東に避くること三十七年。魏、之を徴(め)す。乃ち海に浮かんで西に帰る。官に拝すれども、受けず。
舟師 水軍、ふないくさ。 夷漢の服する所 夷も漢も共に畏服する。 生致 生け捕り。 七縦七禽 七度解き放って七度捕える。 洶湧 波が逆巻くさま。殂す 死ぬこと。 僭 身分を侵すこと、僭称。 惻然 あわれみ、心を痛めること。処士 仕官していない人。
魏主曹丕が水軍を率いて呉を攻めた。呉は軍船を揚子江に並べてこれを迎えた。折しも揚子江の水かさは増していた。曹丕はそれを見ると、「千隊ものつわものを率いているが、これではどうしようもない」と軍を帰した。
その頃、雲南の族が漢に叛いた。丞相の諸葛亮が出兵してこれを平定したが、猛獲という勇者がおり、族はもとより、漢でもその勇猛ぶりは知れ渡っていた。亮はこの猛獲を生け捕りにして、漢の陣営を見せた後、解き放って再度戦う機会を与えた。七たび解き放って七たびとらえた。なおも行かせようとすると、猛獲はこう言った「公の武威は天賦のものです。南のものは二度と叛きません」と。
その後、曹丕は再び水軍を発して呉に向かったが、又もや逆巻く波に遮られた。嘆息して「ああ、まことにこの揚子江は、天が南と北に天下を分かとうという意志のあらわれであろうか」と言った。
魏主曹丕が病死した(226年)。帝位を僭称すること七年、改元すること一度、黄初といった。文皇帝とおくりなした。子の叡が位に立った。これを明帝という。叡の母は以前に讒言にあって誅殺されていた。
曹丕はある日、叡をつれて猟にでかけ、親子づれの鹿を見つけた。丕がすかさず母鹿を射止めると叡に向かって子鹿を射るよう命じた。叡は泣いて訴えた「陛下は母鹿を殺しました。私はその子を殺すに忍びません」と。それを聞いて丕は悲痛な思いをした。こうして叡が後嗣ぎとなり、位に即いたのである。
民間の士に管寧という者がいた。字を幼安といい、東漢の末から、乱世を避けて、遼東の地に居ること三十七年もの間に及んだ。曹丕がこれを招いたところ、海路西に向かって魏に帰ってきたが、士官を固辞して受けなかった。