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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 蜀の諸葛瞻父子討ち死にす

2011-12-08 11:52:22 | 十八史略

漢姜維屢伐魏。司馬昭患之、遣艾・鍾會、將兵入寇。會從斜谷・駱谷・子午谷、趨漢中、艾自狄道、趨甘松・沓中、以綴姜維。維聞會聞已入漢中、引兵從沓中還。艾追躡之大戰。維敗走、還守劍閣、以拒會。艾進至陰陰平、行無人之地七百里鑿山通道、造作橋閣。山高谷深。艾以氈自裹、推轉而下。將士皆攀木縁崖、魚貫而進。至江油。以書誘漢將諸葛瞻。瞻斬其使。列陣綿竹以待。敗績。漢將軍諸葛瞻死之。瞻子尚曰、父子荷國重恩。不早斬黄皓、使敗國殄民。用生何爲。策馬冒陳而死。

漢の姜維(きょうい) 屢しば魏を伐つ。司馬昭之を患(うれ)い、艾(とうがい)・鍾会をして、兵を将(ひき)いて入寇(にゅうこう)せしむ。会は斜谷(やこく)・駱谷(らくこく)・子午谷(しごこく)より、漢中に趨(おもむ)き、艾は狄道(てきどう)より、甘松・沓中(とうちゅう)に趨き、以って姜維を綴(てい)す。維、会已に漢中に入りしと聞き、兵を引いて沓中より還る。艾、之を追躡(ついしょう)して大いに戦う。維、敗走し、還って剣閣を守り、以って会を拒(ふせ)ぐ。艾、進んで陰平に至り、無人の地を行くこと七百里、山を鑿(うが)って道を通じ、橋閣を造作す。山高く谷深し。艾、氈(せん)を以って自ら裹(つつ)み、推転して下る。将士、皆木に攀(よ)じ崖に縁(よ)り、魚貫(ぎょかん)して進む。江油に至る。書を以って漢の将、諸葛瞻(しょかつせん)を誘う。瞻、其の使いを斬り、陣を綿竹に列して以って待つ。敗績す。漢の将諸葛瞻、之に死す。瞻の子尚曰く、「父子、国の重恩を荷う。早く黄皓を斬らず、国を敗(やぶ)り民を殄(てん)せしむ。用(も)って生くるも、何をかなさん」と。馬に策(むちう)ち陳(じん)を冒して死す。

遣 使役の助字。・・をして、・・せしむ。 入寇 寇はあだする。 綴 釘付けにする。 追躡 追いかける。 剣閣 蜀と魏の境界にある大剣山、小剣山、閣道(架け橋が多いことから。 氈 毛氈。 魚貫 魚の串刺し。 敗績 大敗する、功績をなくする意。 黄皓 蜀の宦官、蜀衰退の元凶といわれる。 殄 滅ぼす。 用 以と同じ。 策 鞭、むちうつ。 陳 陣に同じ。

漢の姜維が、度々魏を攻めた。司馬昭はこれを思い患い、艾と鍾会を将軍として、蜀に攻め入らせた。鍾会は斜谷・駱谷・子午谷(いずれも陜西省中部の谷の名)から、艾は狄道(甘粛省)より、甘松・沓中に侵攻して姜維の軍を釘付けにした。姜維は鍾会がすでに関中に入ったと聞くと兵を沓中からひきあげようとした。艾はこれを追撃して激しく攻め立てた。姜維の軍は敗走して剣閣にたどり着いて鍾会を防いだ。艾は進んで陰平(甘粛省と四川省の境)に達した。無人の地を行くこと七百里、山を掘って道をつけ、桟道を架け渡して進んだ。高い山と深い谷に阻まれたとき艾は自分の身に毛氈を巻きつけ、転がり下った。将兵たちも、木によじ登り、崖に取り付いて魚の串刺しのように一列になって進んだ。遂に難所を越え江油に至った。まず蜀の将諸葛瞻に書を送り、降服を迫った。諸葛瞻は使者を斬り、陣を綿竹に布いて、魏軍を待った。蜀軍は大敗して諸葛瞻は討ち死にした。瞻の子尚は「私ども父子は国の大恩を受けてきた。奸臣の黄皓を斬らなかったばかりに、国を滅亡させ、民を絶やすことになった。生き永らえて何の甲斐があろう」と、馬に鞭打って敵陣に斬り込んで討ち死にした。

十八史略 

2011-12-06 09:28:20 | 十八史略
魏主髦見威權日去、不勝其忿。曰、司馬昭之心、路人所知也。率殿中宿衞蒼頭・官僮、鼔譟出、欲誅昭。昭之黨賈充、入與魏主戰、成濟抽戈刺魏主髦。殞于車下。追廢爲庶人。僭位七年。改元者二、曰正元・甘露。司馬昭迎立常道郷公璜。是爲魏元皇帝。常道郷公元皇帝、初名璜、燕王宇之子、操之孫也。年十五即位。改名奐。

魏主髦(ぼう)威権日に去るを見て、其の忿(いかり)に勝(た)えず。曰く、「司馬昭の心は路人も知る所なり」と。殿中の宿衛・蒼頭(そうとう)・官僮(かんどう)を率いて、鼔譟(こそう)して出で、昭を誅せんと欲す。昭の党賈充(かじゅう)、入って魏主と戦い、成濟、戈を抽(ぬ)いて魏主髦を刺す。車下に殞(お)つ。追廃(ついはい)して庶人(しょじん)と為す。僭位(せんい)七年。改元する者(こと)二、正元・甘露と曰う。司馬昭、常道郷公璜(こう)を迎え立つ。是を魏の元皇帝と為す。常道公元皇帝、初めの名は璜、燕王宇の子、操の孫なり。年十五にして即位す。名を奐(かん)と改む。

宿衛 宿直護衛の兵。 蒼頭 雑兵士卒。 官僮 給仕、召使い。 鼔譟 鼔は鼓を打つこと。 殞つ 命を落とす。 追廃 死後帝位を廃すること。 

魏主曹髦は朝廷の威信が日増しに失われてゆくのを見るにつけ、怒りに耐え切れず、「司馬昭の野心は旅人までも知っていることだ」と言って殿中の護衛兵、雑兵、召使いまで駆りだした。鼓を鳴らし、喚声をあげて昭を誅殺しようとしたが、昭の党の賈充が宮中に押し入って戦い、一味の成済が戈を抜いて刺し、曹髦は車から落ちて死んだ。
死後帝位を廃され庶民とされた。帝位を僭称すること七年、改元すること二、正元・甘露という。司馬昭は常道郷公の璜を迎え立てた。これが魏の元皇帝である。(260年) 常道公元皇帝は初めの名は璜といい、燕王宇の子、曹操の孫にあたる。十五歳で即位し、名を奐と改めた。

十八史略 

2011-12-03 08:51:09 | 十八史略
呉主亮親政。數出中書、視太帝時舊事。嘗食生梅索蜜。蜜中有鼠矢。召藏吏問曰、黄門從爾求蜜邪。吏曰、向求不敢與。黄門不服。令破鼠矢。矢中燥。因大笑曰、若矢先在蜜中、中外倶濕。今外濕内燥。必黄門所爲也。詰之果服。左右驚慄。大將軍孫綝、以其多所難問稱疾不朝。以兵圍宮、廢亮爲會稽王、迎立瑯琊王休。休立。以綝爲丞相。綝又無禮於新君。遂被誅。

呉主亮、政(まつりごと)を親(みずか)らす。数しば中書に出でて、太帝の時の旧事を視る。嘗て生梅を食いて、蜜を求む。蜜中に鼠矢(そし)有り。蔵吏(ぞうり)を召して問うて曰く、「黄門、爾(なんじ)より蜜を求めしか」と。吏曰く、「向(さき)に求めしも敢えて與えざりき」と。黄門服せず。鼠矢を破らしむ。矢中(しちゅう)燥(かわ)く。因(よ)って大笑して曰く、「若(も)し矢、先より蜜中に在らば、中外倶(とも)に湿(うるお)わん。今外湿い内燥く。必ず黄門の為す所ならん」と。之を詰(なじ)れば、果たして服せり。左右驚き慄(おのの)く。大将軍孫綝(そんちん)、其の難問する所多きを以って、疾(やまい)と称して朝せず。兵を以って宮を圍(かこ)み、亮を廃して会稽王と為し、瑯琊王(ろうやおう)休を迎え立つ。休立つ。綝を以って丞相と為す。綝又新君に礼無し。遂に誅せらる。

鼠矢 矢は糞。 黄門 宦官。

呉主孫亮がみずから政治を行い、しばしば中書省に出向いて、太帝の時の記録を調べた。あるとき、生梅を食べたあと、蜜を持ってこさせたが、中に鼠の糞が入っていた。蔵役人を呼びつけ「宦官がこの蜜をもらいに来たことはないか」と聞くと、「さきごろ参りましたが、渡しませんでした」と答えた。だがその宦官は覚えがないと言い張る。孫亮は、その糞を二つに割らせ、その中が乾いているのを見て、大笑いして「もし糞が以前からずっと蜜に浸かっていたなら中も外も湿っているはずだ、これは外湿って中は乾いている。宦官のいやがらせに違いなかろう」問い詰めてみると、果たして罪を認めた。左右の者は、驚き恐れいった。大将軍の孫綝は、たびたび鋭く問い詰められるので、病いと称して参内しなくなった。遂には兵を率いて宮中を包囲し、孫亮を廃して会稽王にしてしまった。やがて瑯琊王の曹休を迎えて立てた。休が位に即くと孫綝を丞相に任じた。孫綝は新帝をもないがしろにしたのでやがて誅殺された。

十八史略 司馬師、黄鉞を握る

2011-12-01 11:38:18 | 十八史略

魏李豐、數爲魏主所召。司馬師知其議己殺之。魏主不平。左右勸誅師。魏主不敢發。師廢魏主。僭位十六年。改元者二、曰正始・嘉平。師迎立高貴郷公。是爲廢帝。名髦。文帝之孫、明帝之姪。年十四即位。
揚州都督毋丘險・刺史文欽、起兵討司馬師。師撃敗之。師卒。弟昭爲大將軍、録尚書事。已而爲大都督、假黄鉞。揚州都督諸葛誕、起兵討昭。昭攻殺之。昭爲相國、封晉公。加九錫不受。

魏の李豊、数しば魏主の召す所と為る。司馬師其の己を議することを知って之を殺す。魏主平かならず。左右、師を誅せんことを勧む。魏主、敢えて発せず。師、魏主を廃す。位を僭(せん)すること十六年。改元する者(こと)二、正始・嘉平と曰う。師、高貴郷公を迎立す。是を廃帝と為す。名は髦(ぼう)。文帝の孫にして、明帝の姪(てつ)なり。年十四にして位に即く。
揚州の都督毋丘倹(ぶきゅうけん)・刺史文欽、兵を起こして司馬師を討つ。師、撃って之を敗る。師卒す。弟の昭、大将軍と為り、録尚書事と為る。已(すで)にして大都督と為り、黄鉞(こうえつ)を仮(か)る。揚州の都督諸葛誕、兵を起こして昭を討つ。昭、之を攻め殺す。昭、相国(しょうこく)と為り、晋公に封ぜらる。九錫を加うれども受けず。


高貴郷公 高貴は邑の名、郷公は王の庶子の封爵の名。 廃帝 強制されて位を退いた皇帝。 姪 おい、めい。 毋丘倹 毌丘倹(かんきゅうけん)とも。 相国 宰相。 黄鉞を仮る 黄金で飾った斧、天子の持つべきもの、それで仮るといった。

魏の李豊がしばしば国主曹芳に呼ばれるようになった。司馬師はそれが自分に対する謀議であることを知って、李豊を殺してしまった。曹芳は心中穏やかならず、左右の近臣も司馬師を誅殺するよう勧められながら、踏み切れずにいたところ、逆に師によって廃位されてしまった(254年)。帝位を僭称すること十六年、改元すること二回、正始・嘉平である。
司馬師は高貴郷公を迎えてこれを立てた。後に廃帝になった曹髦で文帝の孫、明帝の甥にあたり、十四歳で即位した。
揚州都督の毋丘倹と刺史の文欽が兵を挙げて師を討とうとした。司馬師はこれを撃破したが、病で歿した。後を託された弟の司馬昭が、大将軍、録尚書事、さらに大都督となり、天子の持つべき黄鉞を手にするに至った。揚州都督の諸葛誕が挙兵して昭を討とうとしたが、敗れて殺された。司馬昭はやがて相国となり、晋公に封ぜられ、九錫を加えられたが受けなかった


十八史略 司馬懿、曹爽を殺す。

2011-11-29 14:04:52 | 十八史略

漢自丞相亮既亡、蔣琬爲政。楊敏毀琬曰、作事憒憒、不及前人。或請推治敏。琬曰、吾實不如前人、無可推。琬卒。費褘・董允、爲政。公亮盡忠。允卒。姜維與、費褘竝爲政。
魏曹爽驕奢無度。司馬懿殺之。懿爲魏丞相、加九錫不受。爽之黨夏侯覇奔蜀。姜維問之曰、懿得政。復有征伐志否。覇曰、彼營立家門、未遑外事。有鍾士季者。雖少若管朝政、呉・蜀之憂也。
魏司馬懿卒。以其子師爲撫軍大將軍、録尚書事。
呉主殂。諡曰太皇帝。子亮立。
漢費褘、汎愛不疑。降人刺殺之。姜維用事、數出兵攻魏。

漢、丞相亮、既に滅びしより、蔣琬(しょうえん)、政を為す。楊敏、琬を毀(そし)って曰く、「事を作(な)すこと憒憒(かいかい)たり、前人に及ばず」と。或いは敏を推治(すいち)せんと請う。琬曰く、「吾実に前人に如かず、推す可き無し」と。琬卒す。費褘(ひい)・董允(とういん)政を為す。公亮(こうりょう)にして忠を尽くす。允卒す。姜維(きょうい)、費褘と竝びに政を為す。
魏の曹爽(そうそう)驕奢(きょうしゃ)にして度無し。司馬懿(しばい)、之を殺す。懿、魏の丞相と為り、九錫(きゅうしゃく)を加うれども受けず。爽の党の夏侯覇(かこうは)、蜀に奔(はし)る。姜維之に問うて曰く、「懿、政を得たり。復征伐の志有りや否や」と。覇曰く、「彼、家門を営立して、未だ外の事に遑(いとま)あらず。鍾士季(しょうしき)という者有り。少(わか)しと雖も若(も)し朝政を管せば、呉・蜀の憂いならん」と。
魏の司馬懿卒す。其の子師を以って、撫軍大将軍と為し、尚書の事を録せしむ。
呉主殂(そ)す。諡(おくりな)して太皇帝と曰う。子亮立つ。
漢の費褘、汎(ひろ)く愛して疑わず。降人之を刺し殺す。姜維、事を用い、数しば兵を出だして魏を攻む。


憒憒 こころ乱れるさま。 推治 罪を取り調べる=推問。 公亮 公平で明らかなこと。 九錫 天子から賜る九種の品や特典。輿馬、衣服、楽器、虎賁(勇者三百人)、弓矢、鈇鉞(ふえつ=殺生の権)、秬鬯(きょちょう=祭酒)、朱戸(朱塗りの門)、納陛(宮殿内の階段、取り次ぎ無しで直接天子に謁見できる権利)。 録尚書事 宮中の文書をつかさどる尚書を総括する。 事を用い 政治をおこなうこと。

漢では、丞相亮が亡くなってから、蔣琬が政治をおこなっていた。楊敏がそれを「迷ってばかりで決断が遅い、とても前の諸葛公には及ばぬ」と、漏らした。ある人が楊敏を罪に問うよう要請したところ、「私は確かに諸葛公に及ばないのだ、処罰のしようがない」と取り上げなかった。やがて琬が死ぬと、費褘と董允が政治にあたった。
魏の曹爽が驕奢限りなく、司馬懿がこれを殺した。司馬懿は魏の丞相になり、九錫を賜ったが、受けなかった。曹爽の一派の夏侯覇は蜀に逃げた。蜀の姜維が覇に尋ねて「司馬懿は実権を手にいれたようだが、他国を伐つ気はあるだろうか」と。覇は「彼は一門の繁栄に心を奪われており、他国の事にまで目を向けるまでには至って降りません。ただし鍾士季という者がおります。まだ弱年でありますが、朝政にあずかるようになると、呉や蜀にとって憂いのもとになるでしょう」と言った。
魏の司馬懿が亡くなった。その子の師を撫軍大将軍とした、併せて録尚書事に任じられた。
呉主孫権が歿した。太皇帝と諡して、子の孫亮が後を嗣いだ。
漢の費褘はひろく人を愛して疑うことがなかった。そのため魏の降人に暗殺された。そこで姜維が代って政治を行い、何回か兵を出して魏を攻めた