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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 楊六郎

2015-01-15 12:00:21 | 十八史略
范廷召撃契丹。求援於高陽關都部署康保裔。亟赴之。廷召潛遁。保裔爲所圍、力戰死之。
李繼遷、先朝奪所賜姓名。冦邊不已。攻陥靈州。西涼六合酋長潘羅支、乞會王師討之。繼僊攻陥西涼府。潘羅支要而撃之。繼僊中流矢、死於靈州之境。其子明請降。復賜姓趙。後封爲西平王。
楊嗣・楊延朗、智勇善戰。加團錬使。虜憚之、目曰楊六郎。

范廷召(はんていしょう)契丹を撃つ。援(すくい)を高陽関の都部署康保裔(こうほえい)に求む。亟(すみや)かに之に赴く。廷召、潜(ひそ)かに遁(のが)る。保裔、囲む所と為り、力戦して之に死す。
李継僊(りけいせん)、先朝、賜う所の姓名を奪わる。辺に冦(あだ)して已(や)まず。霊州を攻陥す。西涼六合の酋長潘羅支(はんらし)、王の師に会して之を討たんと乞う。継僊、西涼府を攻陥す。潘羅支、要して之を撃つ。継僊、流矢に中り、霊州の境に死す。其の子徳明、降を請う。復た姓を趙と賜う。後、封じて西平王と為す。
楊嗣・楊延朗、智勇にして善く戦う。団錬使(だんれんし)を加う。虜(りょ)之を憚って、目(もく)して楊六郎と曰う。


高陽関 今の河北省の地。 都部署 兵事を掌る部署。 先朝 先帝太宗の朝。 西涼六合 西涼は涼州甘粛省、六合は六谷とも。 要 待ち伏せする。 団錬使 義兵を募って団結して防衛にあたる。 六郎 排行、一族中の六番目。

范廷召が契丹を撃ち、高陽関の都部署、康保裔に救援をに求めた。康保裔はすぐさま救援に赴いたが、范廷召は、到着前に密かに逃げ出した。康保裔は契丹の兵に囲まれて力戦したが戦死してしまった。
西涼の李継僊は、先帝太宗のとき、張保吉の姓名を賜ったが宋にそむいて取り上げられていたが、以来度々辺境に侵攻して、遂に霊州を攻め陥した。西涼六合の酋長潘羅支が、官軍と合力して之を討ちたいと願い出た。李継僊が西涼府を陥落させると、潘羅支は待ち伏せてこれを攻撃し、継僊は流矢に中って、霊州の国境で死んだ。子の徳明は降服を願い出て許され、復た姓を趙と賜った。後に西平王に封ぜられた。
楊嗣と楊延朗はともに、智慧と勇気に富み善戦したので、功を賞して地方武官の団錬使に任じた。契丹は延朗を畏れ憚って、楊六郎と呼んだ。


十八史略 眞宗皇帝

2015-01-10 10:00:00 | 十八史略
眞宗皇帝初名元侃。封襄王。有擧人楊礪。嘗夢至一大殿。有坐殿上者語之曰、我非汝主。來和天尊汝主也。指示令謁之。礪後進士第一。入爲襄王府記室。既謁如夢中所見。太宗嘗遣相者詣襄王。及門而返曰、王門厮役皆將相也。王可知矣。立爲太子。至是即位。更名恆。
咸平二年、契丹入冦。上親征、至大名府而還。
三年、州卒王均反。僭號大蜀。以雷有終知州。討擒之。州平。

真宗皇帝、初の名は元侃(げんかん)襄王に封ぜらる。挙人楊礪(ようれい)という者有り。嘗て夢に一大殿に至る。殿上に坐する者有り。之に語って曰く「我は汝が主に非らず。来和天尊(らいかてんそん)は汝が主なり」と。指示して之に謁せしむ。礪、後に進士第一たり。入って襄王府の記室と為る。既に謁すれば夢中に見し所の如し。太宗、嘗て相者をして襄王に詣(いた)らしむ。門に及んで返って曰く「王門は厮役(しえき)も皆将相なり。王は知る可し」と。立って太子と為る。是(ここ)に至って位に即く。名を恆(こう)と改む。
咸平二年、契丹入冦す。上、親征して大名府(たいめいふ)に至って還る。
三年、益州の卒、王均反す。大蜀と僭号(せんごう)す。雷有終(らいゆうしゅう)を以って州に知(ち)とす。討って之を擒(とりこ)にす。益州平ぐ。


挙人 科挙の郷試に合格し、進士の試験に応ずる資格を有する者。 来和天尊 道教の尊神。 記室 記録を司どる役。 厮役 召使い。 

真宗皇帝は、初めの名を元侃という。襄王に封ぜらていた。時に進士の受験資格をもった楊礪という者が有った。ある時夢の中で大きな宮殿に居た。殿上に坐っている者が居た。楊礪に話しかけて「わしはお前の主人ではない。来和天尊がお前の主人だ」といって、指さし示して楊礪に拝謁させた。楊礪は後に進士に首席で合格して、襄王府の記室になった。挨拶のため襄王に謁したところ夢で見た通りであった。また太宗は人相見を襄王府に派遣したところ、門まで行ってすぐ引き返し太宗に「襄王の門下では、召使いに至るまでまるで将軍や宰相の相をしています。襄王の相は視るまでもございません」と申し上げた。襄王はやがて皇太子となり、太宗崩御にともなって即位し名を恆と改めた。
咸平二年に契丹が国境を侵した。真宗はみずから征伐して大名府まで至って帰還した。
咸平三年には益州の守備兵の王均という者が謀叛を起こし、勝手に大蜀と号した。真宗は詔を下して雷有終を益州の知事に任命した。有終は王均を擒にした。そこで益州が平定した。


十八史略 太相と八宰相(その2)

2015-01-06 09:58:32 | 十八史略
蒙正晩出。嘗與普竝相。普甚推之。蒙正嘗置冊子夾袋中、疏四方人才姓名、以待選用。初太祖嘗以張齊賢屬上。至齊賢擧進士、上欲置之上第。而有司第其名在下。乃詔一榜特與通判。卒至大用。呂端爲相。人謂、呂相作事糊塗。上知之曰、端小事糊塗、大事不糊塗。自上即位以來、以小人爲相者、盧多遜一人而已。太子立。是爲眞宗皇帝。

蒙正、晩に出づ。嘗て普竝(なら)び相たり。普、甚だ之を推す。蒙正、嘗て冊子を夾袋(きょうたい)中に置いて、四方の人才の姓名を疏(そ)し、以って選用を待つ。初め太祖嘗て張齊賢を以って上に属す。齊賢、進士に挙げらるるに至って、上、之を上第に置かんと欲す。而して有司其の名を第して下に在り。乃ち詔して一榜特に通判を与う。卒に大いに用いらるるに至る。
呂端、相と為る。人々謂(い)えらく「呂相、事を作(な)すに糊塗す」と。上、之を知って曰く「端、小事は糊塗し、大事は糊塗せず」と。上、位に即きしより以来、小人を以って相と為しし者は、盧多遜一人のみ。太子立つ。是を真宗皇帝と為す。


一榜特 榜は及第者を掲示する札。特 特例。 通判 各州に派遣して中央集権をはかるための地方官。 糊塗 外面を塗り塞ぐ、曖昧にする。 

呂蒙正は晩年になって出世した。嘗て趙普と並んで宰相をしていた。趙普は蒙正を非常に買っていた。以前、常に手帳を持ちあるき、天下の有能な人材の姓名を書き留めて、選び用いる時に備えていた。
太祖が嘗て蜀に行幸した折、張斉賢を見出して後日宰相にするように言い遺していた。斉賢が進士に推挙されると太宗は及第上に置く積りでいたが、係りの役人が及第下にいれてしまった。太宗は仕方なく詔を下して全ての及第者に上下を付けず一括して掲示し、通判の役職を与えて同等とした。ついには斉賢が重用されるようになった。
 呂端が宰相になったとき、人は「呂宰相は仕事が曖昧で困ります」と非難したが、太宗はこれを聞いて「呂端は小事においては曖昧かもしれないが、大きい事は曖昧にしない」と擁護した。帝は即位以来、宰相に起用した者は盧多遜ただ一人のみであった。
 太子が立った。これが真宗皇帝である。

十八史略 太相と八宰相

2014-12-27 11:55:10 | 十八史略
上崩、在位二十二年。改元者五、曰太平興國、曰雍煕・端拱・淳化・至道。壽五十九。薛居正・沈倫・趙普・宋・李・呂蒙正・張齊賢・呂端等、相繼爲相。普凡再入再罷、尋薨。普初以吏道聞、寡學術。太祖嘗歡以讀書。普遂手不釋巻。毎朝有大議、輒闔戸自啓一篋、取一書閲之。及卒家人視其篋則論語也。嘗謂上曰、臣有論語一部。以半部佐太祖定天下、以半部佐陛下致太平。

上崩ず。在位二十二年。改元する者(こと)五、太平興国と曰い、雍煕(ようき)・端拱(たんきょう)・淳化・至道と曰う。寿五十九なり。薛居正(せつきょせい)・沈倫(しんりん)・趙普・宋(そうき)・李(りほう)・呂蒙正(りょもうせい)・張齊賢・呂端(りょたん)等、相継いで相と為る。普は凡(すべ)て再び入(い)って再び罷め、尋(つ)いで薨(こう)ず。普、初め吏道を以って聞こえ、学術寡(すくな)し。太祖嘗て勧むるに読書(とくしょ)を以ってす。普、遂に手に巻(かん)を釈(と)かず。朝(ちょう)に大議有る毎に、輒(すなわ)ち戸を闔(と)じて自ら一篋(いっきょう)を啓(ひら)き、一書を取って之を閲す。卒するに及んで家人之を視れば則ち論語なり。嘗て上に謂って曰く「臣、論語一部有り。半部を以って太祖を佐(たす)けて天下を定め、半部を以って陛下を佐けて太平を致す」と。

吏道 官吏の道。 巻を釈かず 釈は下に置く。 大議 重要会議。 篋 箱。

太宗が崩御された。在位二十二年、改元すること五回、太平興国、雍煕・端拱・淳化・至道といった。享年五十九歳であった。
薛居正・沈倫・趙普・宋・李・呂蒙正・張齊賢・呂端が相継いで宰相になった。趙普は二度宰相になり二度罷免させられ、その後間もなく死んだ。趙普は初めは実務に秀で、学問は得意ではなかったが、ある時太祖からの勧めによって読書をするようになった。以来書物を手放さなくなり重要な会議の時は部屋に籠って、箱から書物を取り出して読んだ。死後家人が箱を開けると論語が入っていた。かつて太宗に「私は論語を一部持っています。その半部は太祖の為に天下を治めるのに役立てました。あとの半部は陛下のお役に立てて太平の世を招来したいと存じます」と言った。

十八史略 安んぞ積陰の譴を得ん

2014-12-23 10:47:57 | 十八史略
交趾丁卒。大校黎桓、囚其宗族而專其國。上初命討之。無功。已而桓奉貢。竟以桓爲交趾郡王。
時霖潦過度。上曰、朕於刑獄盡心。安得積陰之譴。冦準越班對言、某州局吏侵官錢若干。於法爲小過。陛下殺之。王淮參政王沔之弟。盜錢數百萬。於法爲大憝。陛下以沔故、務相容蔽。如此而曰刑獄盡心。如之何無積陰之譴。上即日誅淮罷沔。俄而雨止。

交趾(こうち)の丁(ていれん)卒す。大校黎桓(れいかん)、其の宗族を囚(とら)えて其の国を専(もっぱ)らにす。上、初め命じて之を討たしむ。功無し。已(すで)にして桓、奉貢(ほうこう)す。竟(つい)に桓を以って交趾郡王と為す。
時に霖潦(りんろう)、度に過ぐ。上曰く「朕、刑獄に於いて心を盡す。安(いずく)んぞ積陰(せきいん)の譴(けん)を得たる」と。冦準(こうじゅん)班を越えて対(こた)えて言わく「某州の局吏、官銭を侵すこと若干。法に於いて小過と為す。陛下之を殺す。王淮(おうわい)は参政王沔(おうべん)の弟なり。銭数百万を盗む。法に於いて大憝(だいたい)と為す。陛下、沔が故を以って務めて相容蔽(ようへい)す。此(かく)の如くにして刑獄に心を盡すと曰う。之を如何(いかん)ぞ積陰の譴無からん」と。上、即日に淮を誅し沔を罷む。俄かにして雨止む。


交趾 現在のベトナム  奉貢 貢物を献上する。 霖潦 霖はなが雨、潦は大雨。 積陰 陰気が積る。 譴 咎め。 班 席次。 大憝 大悪人。 容蔽 見逃す。

交趾の丁が死んだ。大校の黎桓が丁の一族を捕えて、政権を私したので初め帝は怒って命じてこれを討たせが、失敗した。そのうち黎桓から貢ぎ物を献上して来たので、黎桓をそのまま交趾郡王とした。
その頃、異常な長雨が激しく続いた。帝は「朕は平素刑罰や獄訟に心をくだいてきたのにどうしてこのように陰の気がこもって天から咎めを受けているのだろうか」と嘆かれた。すると冦準という者が席次を越えて進み出て「さきごろ某州の小役人が公金を少しごまかした事件がございました。法に照らせば微罪でございますが、帝はこの者を死罪に処しました。ところがあの王淮は参政の王沔の弟でございます。その王淮が銭数百万を盗みました。法に照らせば大罪でございます。ところが陛下は王沔の弟ということでお咎めがございませんでした。陛下が刑獄に心を尽すと仰せられても、陰の気が積み重なって天のお咎
めを受けずにおられましょうか」と申し上げた。帝はその日に王淮を誅し王沔を罷免した。するとすぐに雨が止んだ。