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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 蜀平らぐ

2014-12-18 13:00:54 | 十八史略
上賜李繼捧姓名趙保忠、授節度使、命管夏・銀・綏・宥・靜五州、使圖繼遷。繼遷降。賜姓名趙保吉。保吉復寇邊。命李繼隆討之。保忠言、已與保吉解仇。乞罷兵。上怒、命繼隆先移兵討之。繼隆入夏州、檻送保忠於闕下。保吉尋亦請降。而復叛。命繼隆討之。
蜀自既平之後、府庫之物、悉載歸内府。土狭民稠。有司不無賦外之科。王小波起爲盜。小波死。李順繼之。攻陥成都、僭號蜀王。上命王繼恩討擒之。蜀平。

上、李継捧に姓名を趙保忠と賜い、節度使を授け、命じて夏・銀・綏(すい)・宥(ゆう)・静の五州を管せしめ、継遷(けいせん)を図らしむ。継僊降る。姓名を趙保吉(ちょうほきつ)と賜う。保吉復た辺に寇(あだ)す。李継隆に命じて之を討たしむ。保忠言わく「已(すで)に保吉と仇を解く。乞う兵を罷めん」と。上怒り、継隆に命じて先ず兵を移して之を討たしむ。継隆夏州に入り、保忠を闕下(けっか)に檻送す。保吉尋(つ)いで亦降を請う。而して復た叛す。継隆に命じて之を討たしむ。
蜀既に平らぎしより後、府庫の物、悉く載せて内府に帰る。土狭く民稠(しげ)し。有司(ゆうし)賦外の科無きにあらず。王小波起って盗を為す。小波死す。李順、之に継ぐ。成都を攻陥(こうかん)し、蜀王と僭号(せんごう)す。上、王継恩に命じて討たしめて之を擒(とりこ)にす。蜀平らぐ。


夏・銀・綏・宥・静 ともに今の陜西省にある地。 闕下 宮殿の門を闕という。 内府 帝室の庫。 稠 人が多いこと。 賦外の科 正規の租税以外の割り当て。 

帝は、西夏の主となった李継捧に趙保忠と姓名を賜い、節度使を授けて夏・銀・綏・宥・静の五州を管轄させて、弟の継僊を討伐させようとした。継僊が降伏したので帝は姓名を趙保吉と賜ったが、保吉は又叛いて国境を侵した。帝は李継隆に命じてこれを討伐させた。すると兄の保忠が「既に保吉と和解しましたから討伐をお止めください」と願い出た。帝は怒って李継隆に命じて、兵を移して先ず保忠を討たせた。継隆は夏州に攻め入り、保忠を捕え檻に入れて宮城に送った。すると保吉も続いて降伏を申し出たが、またもや叛いた。帝は再び継隆に命じて討伐させた。
太祖の時代に蜀が降伏してから後、蜀の財宝はすべて帝室の庫に送られた。蜀の地は狭小でその割に人口は多く、役人による規定の租税以外の割り当てもあり、人民の暮らしは苦しかった。そんな折に王小波という者が現れて掠奪を行った。小波が死ぬと李順という者が後を継いで、蜀都の成都を陥れて蜀王と名乗った。帝は王継恩に命じて討伐させ、これを生け捕りにした。こうして蜀の地は完全に平定した。


十八史略 臣は以って膏(あぶら)を塗り血を釁(ちぬ)れりと為す

2014-12-13 09:02:22 | 十八史略
開寶寺塔成。前後八年、所費億萬。田錫奏曰、衆以爲金碧熒煌、臣以爲塗膏釁血。上不怒。
先是西夏李光叡卒。子繼筠嗣。又卒。弟繼捧嗣。繼捧來朝、獻四州地。其弟繼遷叛去、數入冦邊。
契丹主明記殂。號景宗。子隆緒立。年十二。母蕭氏專其國政。
上命曹彬等、分道伐契丹。彬兵大敗於岐溝關。詔班師。契丹自是連年入冦。後女眞以契丹隔其朝貢之路、請撃之。不許。女眞遂臣於契丹。

開宝寺の塔成る。前後八年。費す所億萬なり。田錫(でんしゃく)奏して曰く「衆は以って金碧熒煌(きんぺきけいこう)と為せども、臣は以って膏(あぶら)を塗り血を釁(ちぬ)れりと為す」と。上怒らず。
是より先、西夏の李光叡(りこうえい)卒す。子継筠(けいいん)嗣(つ)ぐ。又卒。弟継捧嗣ぐ。継捧来朝して四州の地を献ず。其の弟継遷叛(そむ)き去り、数しば辺に入冦す。
契丹の主明記殂す。景宗と号す。子隆緒立つ。年十二なり。母蕭氏、其の国政を専らにす。
上、曹彬(そうひん)等に命じて、道を分って契丹を伐たしむ。彬の兵大いに岐溝関(きこうかん)に敗る。詔(みことのり)して師を班(かえ)す。契丹是より連年入冦す。後、女真、契丹が其の朝貢の路を隔つるを以って之を撃たんと請う。許さず。女真遂に契丹に臣たり。


金碧熒煌 熒煌は照り輝く。 塗膏釁血 民の膏と血で塗る、人民をくるしめたこと。 

開宝寺の塔が落成いた。その工期は八年に及び、費用は億萬銭にも及んだ。田錫が奏上して「多くの人々は金色やみどりに光り輝いて大変美しいと讃嘆していますが、臣には人民の膏血を塗りたくったように見えます」と。太宗は敢えて怒らなかった。
これより先に西夏の李光叡が死んだ。子の継筠が跡を嗣(つ)ぐ。又卒。弟継捧嗣ぐ。継捧来朝して四州の地を献ず。其の弟継遷叛(そむ)き去り、数しば辺に入冦す。

十八史略 知る無きに如かざるなり

2014-12-09 13:10:34 | 十八史略
种放隱于終南山。結草爲廬、以講習爲務。後進多從之學。上聞召之。辭以母老。上高其節、厚賜錢帛旌之。
呂蒙正爲參政。有朝士。指之曰、此子亦參政邪。蒙正佯不聞。同列欲詰其姓名。蒙正止之曰、若一知名姓、則終身不忘。不如無知也。
召崋山陳摶。賜號希夷先生。

种放(ちゅうほう)終南山に隠る。草を結んで蘆を為(つく)り、講習を以って務めと為す。後進多く之に従って学ぶ。上、聞いて之を召す。辞するに母の老いたるを以ってす。上、其の節を高しとして厚く銭帛(せんぱく)を以って之を旌(せい)す。
呂蒙正(りょもうせい)参政と為る。朝士有り。之を指さして曰く「此の子(し)も亦参政か」と。蒙正佯(いつわ)って聞かざるが如くす。同列、其の姓名を詰(なじ)らんと欲す蒙正、之を止めて曰く「若(も)し一たび名姓を知らば則ち身を終わるまで忘れず。知る無きに如かざるなり」と。
崋山の陳摶(ちんたん)を召す。号を希夷先生と賜う。


旌 表彰。 参政 参知政事、宰相の次位。 朝士 朝臣。 佯 うわべを装うこと。 希夷先生 老子に「之を視れども視えず、名づけて夷と曰う 之を聴けども聞こえず、之を希と曰う」とある。

种放という者が終南山に隠棲していた。枯草を編んだ粗末な家を作り、書物の講習をしていた。後進の多くが彼に学んだ。太宗はこれを聞いて召し抱えようとしたが、老いた母が居ると固辞した。帝はその節を褒め、金銭と帛を賜わって表彰した。
呂蒙正が知政参事となった時、或る朝臣が蒙正を指さして「あんな男でも参政か」と言った。蒙正は聞かぬふりをしていたが、同役が怒って言った男の姓名を問い糺したが蒙正はこれを遮って「もしその姓名を知ったら一生忘れることができないだろうから、いっそ知らない方がよいだろう」と言った。
帝はまた崋山に隠棲していた陳摶を召し出して号を希夷先生と賜った。


十八史略 徳芳卒し、廷美憤死す

2014-12-04 13:31:24 | 十八史略
後二年、岐王芳卒。自太祖二子相繼死、齊王廷美不自安。佗日上嘗以傳國意訪趙普。普曰、太祖已誤。陛下豈容再誤邪。於是普復入相。廷美遂得罪、降涪陵縣公。普復使知開封府李符、告其怨望。南還房州。尋殺之。普恐李符漏言。因弭超讚曹彬故、以符薦超貶符舂州卒。

後二年、岐王(きおう)徳芳卒す。太祖の二子相継いで死せしより、斉王廷美自ら安んぜず。佗日(たじつ)、上嘗て伝国の意を以って趙普に訪(と)う。普曰く「太祖已に誤る。陛下豈再び誤るべけんや」と。是(ここ)に於いて普、復た入って相たり。廷美、遂に罪を得て、涪陵県(ふりょうけん)公に降(くだ)さる。普、復た知開封府(ちかいほうふ)李符をして、其の怨望を告げしむ。南のかた房州に還る。尋(つ)いで之を殺す。普、李符が言を漏らさんことを恐る。弭徳超(びとくちょう)が曹彬(そうひん)を讚(しん)する故に因(よ)って、符が徳超を薦むるを以って、符を舂州(しょうしゅう)に貶(へん)して卒す。

岐王の徳芳 太祖の二男。 斉王廷美 太祖の四男、この時は秦王になっていたので正しくは秦王。 佗日 他日。

後二年で岐王の徳芳が死んだ。太祖の二子(徳昭と徳芳)が相継いで死んで斉王の廷美は自分も殺されるのではないかと危ぶんでいた。一方、太宗は将来帝位を廷美に禅ることの是非を趙普に尋ねた。すると趙普は「そもそも太祖皇帝が間違っておいでです。再び過ちを繰り返してはいけません」と答えた。そこで趙普は再び宰相に返り咲いた。
廷美は結局罪をかけられ涪陵県の公に爵位を落とされた。趙普はさらに開封府の知事をしていた李符を使って、廷美は帝を怨んでいますと讒言させた。太宗は怒って南方の房州に遷した。廷美はここで憤死してしまった。趙普は李符が秘密を漏らすのではないかと恐れた。嘗て曹彬を陥れた弭徳超を李符が推薦した事を理由にして舂州に流し、李符はその地で死んだ。


十八史略 徳昭自刎す

2014-11-29 10:00:00 | 十八史略
命潘美伐北漢。尋親征圍太原。劉繼元出降。北漢亡。詔征契丹。易州・涿州來降。上攻幽州。踰旬不下。遂班師。郡王昭從征幽州。軍中嘗夜驚。不知上所在。有謀立昭者。上聞不悦。及歸以北征不利、不行平北漢之賞。昭言之。上大怒曰、待汝自爲之。賞未晩也。昭退而自刎。

潘美に命じて北漢を伐たしむ。尋(つ)いで親征して太原を囲む。劉継元出で降る。北漢亡ぶ。
詔(みことのり)して契丹を征す。易州・涿州(たくしゅう)来降す。上、幽州を攻む。旬を踰(こ)えて下らず。遂に師を班(かえ)す。郡王徳昭、従って幽州を征す。軍中嘗て夜驚く。上の在る所を知らず。徳昭を立てんと謀る者有り。上聞いて悦ばず。帰るに及んで、北征利あらざるを以って、北漢を平らぐるの賞を行わず。徳昭之を言う。上、大いに怒って曰く「汝が自ら之を為さんを待つ。賞すること未だ晩(おそ)からざるなり」と。徳昭退いて自ら刎ぬ。


太宗は潘美に命じて北漢を征伐させた。次いで自ら出征して太原をとり囲んだ。北漢王の劉継元が城を出て降伏し北漢は亡んだ。
太宗は詔を発して契丹を征伐した。易州と涿州が降伏した。さらに太宗は幽州を攻めた。十日を過ぎても降らなかったので軍を引き返した。郡王徳昭も太宗に従って幽州征伐に加わっていたが、ある夜軍中が騒がしくなった。一時太宗の行方がわからなくなった。それで徳昭を立てようとする者があった。太宗はそれを耳にして不快に思った。都に帰ると、北征がうまくいかなかったとして、恩賞を行わなかった。すると徳昭がこれを持ちだすと、太宗は大変不機嫌になって「その方が天子となった時に恩賞を行え、それまで待っても遅くはあるまい」と言った。徳昭は憤慨するとその場を立ち去って自刎してしまった。