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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 冦準、宰相を罷免さる

2015-02-07 10:00:00 | 十八史略
準初發京師、命朝士出知諸州、皆於殿廊受勅。戒之曰、百姓皆兵、府庫皆財。不責汝浪戰。但失一城一壁、當以軍法從事。恐欽若沮親征之議、以其有智且有福、出欽若知天雄軍。契丹至城下。欽若閉門、束手無策、修齋誦經而已。上還自澶淵、待準極厚。欽若歸深恨準。嘗退朝、上目送準。欽若進曰、陛下敬準、爲其有社稷功邪。城下之盟、春秋小國所恥也。上愀然。欽若毎曰、澶淵之役、準以陛下爲孤注。上待準遂寢薄。尋罷相。

準、初め京師を発せしとき、朝士に命じて出でて諸州に知たらしめ、皆殿廊(でんろう)に於いて勅(みことのり)を受けしむ。之を戒めて曰く「百姓は皆兵にして、府庫は皆財なり。汝に浪(みだ)りに戦うを責めず。但一城一壁を失わば、当(まさ)に軍法を以って事に従うべし」と。欽若(きんじゃく)が親征の議を沮(はば)まんことを恐れ、其の智有り且つ福有るを以って、欽若を出して天雄軍に知たらしむ。契丹、城下に至る。欽若、門を閉じ、手を束ねて策無く、斎(さい)を修し経を誦するのみ。上、澶淵(せんえん)より還り、準を待つこと極めて厚し。欽若帰って深く準を恨む。嘗て朝より退くや、上、準を目送(もくそう)す。欽若進んで曰く「陛下の準を敬するは、其の社稷の功有るが為か。城下の盟(ちかい)は、春秋の小国も恥ずる所なり」と。上、愀然(しゅうぜん)たり。欽若毎(つね)に曰く「澶淵の役、準、陛下を以って孤注と為す」と。上、準を待つこと遂に寝(やや)薄し。尋(つ)いで相を罷(や)む。

朝士 朝廷の役人。 知 知事。 天雄軍 魏博節度使の軍名。 城下の盟 不利な条件で和議を結ぶこと。 目送 見送る。 愀然 顔色を変える。 孤注 博奕で有り金を投げ出して勝負に出ること。 

冦準は契丹征伐の折出発に先立って、朝廷の役人を諸州の知事に任命して、宮中の回廊で勅命を受けさせた。そのとき訓戒して「諸州の人民は国家の兵であり、州庫の財産は国家の財産である。諸君にやみくもに戦うことを求めないが、一城一壁たりとも失うことがあったら軍法に照らして処罰するからそのように心得よ」と申し渡した。また冦準は、王欽若が天子親征を反対しているので、欽若が智慧もあり、福相であるので、都から追い出して河北の天雄軍を治めさせた。さて契丹に城下まで攻められると、王欽若は城門を閉ざしてなす術もなく、お祓いをして経を唱えるだけであった。真宗が契丹と和睦して澶淵から還ってくると、冦準に対する待遇が一層厚くなった。王欽若が都に帰ると、冦準が自分を地方に追い出したことを恨んでいたので或る日のこと、帝が冦準退朝の際、後姿を見送っていたのを見た欽若が進み出て「陛下が冦準に敬意を払われるのは国家に功労があるとお思いだからでございましょうか。適に城下まで攻められて和議を結んだことは小国と雖もこれを恥ずべきことでございます」と言った。真宗はすっかり落ち込んでしまった。それ以来度々「冦準は澶淵の戦いにおいて陛下に大きな賭けを強いたのです」と吹き込んだ。これ以後、帝は冦準を待遇することが次第に薄くなり、ついには宰相を罷めさせてしまった。

十八史略 誓約して兄弟となる

2015-02-03 10:00:00 | 十八史略
遂再遣利用往。利用請歳賂金帛之數。上曰、必不得已、雖百萬亦可。準召語之曰、雖有勅旨、不得過三十萬。如過此數、勿來見準。準斬汝矣。利用卒以絹二十萬・銀十萬、定和議、南朝爲兄、北朝爲弟、交誓約、各解兵歸。

遂に再び利用を遣わして往かしむ。利用、歳ごとに賂(まいな)う金帛の数を請う。上曰く「必ず已むを得ずんば、百万と雖も亦可なり」と。準、召して之に語って曰く「勅旨(ちょくし)有りと雖も、三十万に過ぐるを得ず。如(も)し此の数を過ぎなば、来って準を見る勿れ。準、汝を斬らん」と。利用、卒(つい)に絹二十万、銀十万を以って和議を定め、南朝を兄(けい)と為し、北朝を弟と為して、交々誓約し、各々兵を解いて帰る。

勅旨 帝の思召し。 

和議を受けることになったので、再び曹利用を契丹に遣わした。利用は出発に際して、毎年契丹に贈る金帛の数を帝に打診した。帝は「どうしても已むを得なければ、百万でもよかろう」といわれた。冦準が曹利用を呼んで「帝のおおせがあったとしても、三十万を越えてはならない。もしこれを越えたら、帰って私の前に顔を見せたら直ちに斬って棄てるぞ」と脅した。それで利用は絹二十万匹、銀十万両を以って和議を結び、宋を兄とし、契丹を弟としてそれぞれ誓約して兵を解いて帰った。

十八史略 契丹和睦を請う

2015-01-29 10:00:00 | 十八史略
先是王繼忠者陷虜。嘗言和好之利。故雖大擧、亦遣使以繼忠書來。上命曹利用報之。至是利用與契丹使者韓杞偕來、請世宗所取關南故地。上曰、地必不可得。寧與金帛以和。準意亦不欲與。且畫策以進曰、如此則可保百年無事。不然數十歳後、戎復生心。準蓋欲撃之使隻輪不返。上曰、數十歳後、當有能禦之者。吾不忍生靈重困。姑聽其和。

是より先、王継忠という者、虜(りょ)に陥る。嘗て和好の利を言う。故に大挙すと雖も、亦使いを遣わし、継忠の書を以って来らしむ。上、曹利用に命じて之に報ぜしむ。是(ここ)に至って利用、契丹の使者韓杞(かんき)と偕(とも)に来り、世宗の取りし所の関南の故地を請う。上曰く「地は必ず得べからず。寧ろ金帛を与えて以って和せん」と。準の意も亦与うるを欲せず。且つ画策して以って進めて曰く「此(かく)の如くせば則ち百年の無事を保つ可し。然(しか)らずんば数十歳の後、戎復た心を生ぜん」と。準は蓋し之を撃って隻輪をも返らざらしめんと欲せしなり。上曰く「数十歳の後は、当(まさ)に能く之を禦(ふせ)ぐ者有るべし。吾、生霊の重ねて困(くる)しむに忍びず。姑(しばら)く其の和を聴(ゆる)さん」と。

関南故地 五代晋主が契丹の助けを借りて唐を撃ち、報酬として受けた十六州のうち、後に後周の世宗が契丹を破って取り返した瀛州・薊州・莫州の地。 心 異心。 生霊 人民。 

是より以前、王継忠という者が、契丹の虜になっていた。かねてより契丹の主に宋との和平の利を説いていた。今回大挙して宋に挑んだけれども、失敗したので使者に継忠の手紙を持たせて遣わし、和議を求めた。真宗は曹利用に命じて承諾の返事を届けた。曹利用は宋に帰るとき、契丹の使者韓杞を伴って来た。
使者は、後周の世宗の時代に契丹から奪った関南の地を返してもらいたいと願い出た。真宗は「土地を返すことはできない。そのかわりに金や帛を与えよう」と言った。宰相の冦準の考えは土地の返還はもとより金帛を与えることも反対で、いろいろ画策して真宗に「このようにすれば今後百年泰平を保つことができます。そうでなければ数十年の後、再び契丹どもは異心を生じて国境を侵すでしょう」と申し上げた。冦準はこの機に契丹を撃って車の片輪といえども契丹の地に返さない腹であった。
真宗は「数十年後は外敵が侵攻してもこれを防ぐ者が現れよう。わしはこれ以上人民が戦争で苦しむのを見るに忍びない。まあとりあえず申し出を許すことにしようではないか」と言われた。

十八史略 何ぞ一詩を賦して虜を退けざる

2015-01-24 10:00:00 | 十八史略
冦準力勸上渡河、殿前帥高瓊亦力贊。猶豫、瓊麾衞士進輦曰、陛下若不過河、百姓如喪孝妣。梁適呵之。瓊怒曰、君輩此時尚責人失禮。何不賦一詩退虜耶。遂擁上以渡。既至澶州、登北城、張黃旗幟。諸軍皆呼萬歳。聲聞數十里。契丹氣奪。

冦準力(つと)めて上に勧めて河を渡らしむ。殿前の帥(すい) 高瓊(こうけい)も亦力め賛す。猶予の間、瓊、衛士を麾(さしまね)き、輦(れん)を進めて曰く「陛下若し河を過ぎざれば、百姓、孝妣(こうひ)を喪するが如くならん」と。梁適、之を呵(か)す。瓊、怒って曰く「君が輩、此の時尚人の失礼を責む。何ぞ一詩を賦して虜(りょ)を退けざる」と。遂に擁して以って渡る。既にして澶州(せんしゅう)に至り、北城に登り、黄旗幟(こうきし)を張る。諸軍皆万歳と呼ぶ。声数十里に聞こゆ。契丹、気奪わる。

殿前帥 近衛長官。 。 孝妣 孝は亡父、妣は亡母。 呵 しかる。 黄旗幟 天子の旗。 

冦準はしきりに帝に黄河を渡って河北に進軍することを勧めた。殿前都指揮使の高瓊も共に奨めた。帝が躊躇している間にたまりかねた高瓊は衛士に命じて、帝の車を進めさせて言った「もし陛下が黄河を渡らなければ、河北の人民は父母を亡くしたように歎き悲しむでありましょう」と。するとお側に控えていた文官の梁適がこれを叱った。すると高瓊は「あなたはこの危急のときに人の無礼を咎めるのか、それならなぜお得意の詩でもつくって契丹を退却させようとしないのか」とやり返した。遂に帝を擁して黄河を渡りきった。やがて澶州に至って北城に登り、天子の旗印を掲げた。これを見て皆万歳を叫んだ。その声は数十里に渡って響き、契丹の兵は戦意を喪失した。

十八史略 斬って鼓に釁(ちぬ)らん

2015-01-20 10:00:00 | 十八史略
景元年、契丹主、與其母蕭氏大擧入冦。中外震駭。參政陳堯叟蜀人。請幸蜀。王欽若江南人。請幸江南。上以問宰相冦準。準問、誰畫此策。上曰、卿姑斷其可否。勿問也。準曰、臣欲得獻策之臣、斬以釁鼓、然後北伐耳。遂定親征之議。上駐蹕韋城、尋至衞南。契丹擁兵抵澶州、圍合三面。李繼隆等出禦之。契丹撻覽中弩死。大挫退卻、不敢動。

景元年、契丹の主、其の母蕭氏(しょうし)と大挙して入冦す。中外震駭(しんがい)す。参政の陳堯叟(ちんぎょうそう)は蜀の人なり。蜀に幸(みゆき)せんことを請う。王欽若は江南の人なり。江南に幸せんことを請う。上以って宰相冦準(こうじゅん)に問う「誰か此の策を画する」と。上曰く「卿姑(しばら)く其の可否を断ぜよ。問うこと勿れ」と。準曰く「臣、策を献ずるの臣を得て、斬って以って鼓(こ)に釁(ちぬ)り、然る後、北伐せんと欲するのみ」と。遂に親征の議を定む。上、蹕(ひつ)を韋城に駐(とど)め、尋(つ)いで衛南に至る。契丹、兵を擁して澶州(せんしゅう)に抵(いた)り、三面を囲合す。李継隆等出でて之を禦(ふせ)ぐ。契丹の撻覽(たつらん)、弩(ど)に中って死す。大いに挫(くじ)けて退卻(たいきゃく)し、敢て動かず。

契丹の主 隆緒、十二歳で明記の後を継いだ。 蹕を駐め 蹕は天子の車馬。 韋城 河北省の地名。 衛南 韋城近辺の地名。 澶州 河北省の地名。 

景徳元年(1004年)契丹の主が、その母蕭氏と共に大挙して攻め寄せて来た。朝廷はじめ国内は震えあがった。参政の陳堯叟は蜀の出身なので、帝を蜀に避難するよう勧め、同じく参政の王欽若は江南の人なので、江南に逃れるよう勧めた。真宗は宰相の冦準に下問したところ「いったい誰がこんな策を献じたのでございましょうか」と詰め寄った。帝は「冦準よ、とりあえず良いか悪いかを聞きたい。誰が献策したかは問わないでおこう」と言った。冦準は「私はこのような愚策を献じた者を切り捨ててその血を陣太鼓に塗りつけて、その上で北伐に向かうまででございます」と申し上げた。そこで天子自ら軍を指揮して契丹討伐に向かうことに決定した。帝は車を韋城県に駐め、ついで衛南に軍を進めた。契丹は大軍を澶州に進め、宋軍を三方から囲んで攻め立てた。宋の李継隆等は城を出てよく防戦した。その戦の最中契丹の大将の撻覽が弩(いしゆみ)に中って死ぬと契丹軍は戦意を失って退却し、動こうとしなかった。