ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

寒くて外に出たくない

2018-05-11 22:11:13 | 日常
今日一日仕事休み。
朝から薄暗く曇って気温は6℃程度だ。




薄暗く空気が凍てついても花は咲く。


5/13が勤務なので母の日を今日に繰り上げた。
気張って母の日仕様の赤飯を炊いて母に届けた。
小豆でなく白花豆の赤飯。
もち米には微かに塩味がつけてあるが、豆は薄っすら甘いので胡麻塩を振って和菓子感覚で食べる。


室内の清掃をして植物に水やりして、さてPCを開いてみたら寒くて震えが来るほどの低温。
Twitterを眺めていたらTLにとんでもなく素敵な歌を発見した。

何にでも牛乳を注ぐ女『びじゅチューン!』(ようつべで検索してね)

ぎゃははははははは....♪((o_ _)ノ彡☆!!凄い中毒性の歌!!!
いるわいるわこういう味覚の人。
昆布や鰹だしの効いた醤油ベースのめんつゆやたれに牛乳を混ぜるとか
味噌汁に牛乳とかマイルドとかそういう問題ではないの。
マヨネーズも同様で、何にでもマヨネーズかけて“マイルドに”する人いるよ。
納豆にマヨネーズとか醤油ラーメンにマヨネーズとか。

斎藤工監督の映画『Blank13』またTLに出ている。
よさげな映画だったんだけど、縁が無かったなぁ。。
洋画はハリウッド、アニメはディズニーかジブリくらいしかこんなド僻地までは来ないし
『Blank13』の監督は映画館文化の衰退に危機感を持ってDVD化はしないと宣言されたらしいので
私がこの映画を見る可能性は100%無くなった。
お江戸や札幌の知人にはお薦めしたが誰か見に行ってくれただろうか。

TLに同じ記事について怒りの呟きがたくさん登場している。
子を産まないと人の税金で介護施設に入る事になるなどと婚礼の場で妄言を吐き撤回した老人は
多くの老人達の一般的な考えを代弁したものであろう。
産み育てる事が自分の身に無関係と思っているから撤回しなければならないような愚かな妄言を吐くのだ。
苦労が他人事であるからこそ好き勝手な事が言える。
若い人の立場になってみれば、こんな老人達の食い物にされるために子供を設ける道理は無く、
子を産み育てるに相応しい環境すら無いではないか。

・・・・・

台所の収納庫から何に使うつもりだったかラーメンスープの空き缶が出て来た。
北海道人のソウルフード「成吉思汗のたれ」のベル食品のラーメンスープだ。
確か成吉思汗のたれよりも歴史が古いと記憶する。
何かに使おうと洗って保管しておいたは筈だが何に使うつもりだったか忘れてしまった。


・・・・・

外に出る事さえ億劫なほど空気が冷え込んでいる。
出掛けるのはやめた。
室内にいるとどうしても暖房を使うので眼と鼻が乾くし燃料がもったいない。
それで布団に包まって本を読む。

一日中同じCDを延々再生し聞き流している。
G.グールドのバッハ平均律、4枚組の2枚目BWV858から869だけを繰り返している。
せっかくの4枚組CD、なかなか3、4枚目に進まず。

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夕方になって晴れて来た。




布団から顔や手を出すと冷たくてダメだ。
取り寄せた中島葵の著作2冊が密林から届いたので布団に包まって読んでいた。
紙の本を買って読んだのは久しぶりだ。

中島葵の遺したメモの断片や文章から映画や舞台芸術に拘わる人々の生(なま)の熱が伝わって来る。
文字で読んでいるのに立体的で匂いを放ち、血を流しながら迫って来る。

例えば好きな映画がある時、今は恵まれた時代と言える。
もう姿を見る事の叶わない昔の大俳優の出ている映画であっても
今の時代はその映像をDVDでもネットの動画でも簡単に検索して見る事が出来る。
最近の映画やドラマをオンデマンドで見る事も出来る。
自分が眼にする事の出来る今の時代の映画やドラマは技術の進歩によって映像が綺麗だ。
人々の容姿も、端役やエキストラに至るまで小奇麗に整っている。
整っていると言うよりも整えられているのか。
顔の整形や画像の修正という技術によって隅々まで整って小奇麗だ。
しかし水を加えた酒や珈琲のように癖も灰汁も無く匂いが無い。
今の時代のものをそれなりに楽しんで見てはいるが、繰り返し見続ける事は殆ど出来ない。
ウマく言い表す事は難しいが。

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Twitterのお仲間がブログを更新したので読んだ。
子供の時に如何にして死を認識したかについて書かれている。
人間は、死ぬ。
死んでいるのに死んだという自覚無い人々とも遭遇した事はあったが、話は別だ。
彼らにはもう肉体が無いからどうする事も出来ない。

自分が人の死を認識したのはいつだったか。
思い返すと私は5歳になる前に死を意識していた。
貧しい両親と私の間借り部屋を飛び出し失踪した父の父親が心不全と肺癌末期のため
苦痛と孤独と死の恐怖のうちにに発狂し都会の精神病院で私が2歳の時に死んでいた。
その人が私達の生活空間にいるのを私は感じていた。
私は彼が既に死んでいる事を知っていた。
今は、自分も間もなくかつての受け持ち患者さん達と同じように
この肉体が滅び精神が破綻してこの世から消えるんだろうなと思っている。
誰もがそのようにこの世を去る現実を日常的に見てその有り様を知ったので、
自分が一体どうなってしまうのだろうという「わからない事の不安」はあまり無い。
死よりもむしろその過程にある苦痛に恐怖を感じる。
鎮痛剤の無効な激痛や鬱血性心不全で胸水が溜まるなどして呼吸苦が24時間続く事を思うと
眼で見てどんなものかを知っているだけにその苦痛に対して私は往生際が悪い。

寺本松野さんという人が書き残した言葉がある。

 「生きることが死ぬことよりも辛く苦しい日々を、ひたすら生きつづけた人達こそ、
  人間として尊厳の中で死ぬことができる。」
             (『きょう一日を』寺本松野著・日本看護協会出版会)


20年以上大勢の患者さん達を見送り自分の父親も見送ってみて思う。
寺本さんの言葉は真実だ。
最後の瞬間まで苦しんで、苦しみを終えて天に凱旋して行った、誰も皆。
「凱旋」と感じたのは、長距離走者がゴールのテープを切り晴れ晴れと完走した瞬間に見えたからだ。
実際惨たらしい病状に苦しみ、家族から見放され孤独に戦わねばならない人であっても
苦痛には必ず終わりがある。
私は苦痛が無限に続かない事を知っており、最後まで苦しみ抜き地上の苦しみを全部終えた人を前にして
自然と頭が下がる。
最後までよく頑張りました、お疲れ様でした、と思わず言葉が出そうになる。
天に凱旋して行くとはそのような意味だ。
寺本さんの言う「尊厳の中で死ぬ」とは実際そういう事かも知れない。

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あんまり寒いから、いつもは勤務中に飲む牛乳入り紅茶を飲んで暖を取っている。
オレオという薄型の黒いビスケットがあって割と好きだ。
でもクリーム無しのがあったらいいな。
クリームを削り落とすとビスケットが割れてしまう。


明日は土曜日か。
もう月半ば。
早いなぁ。
暦に付いて行けなくなりつつある。