起きた。
やっぱり朝食は食べたくない。
とりあえず教会に行く。
ぅわ快晴や。
放射冷却の青空。
主日礼拝
黙祷
招詞 詩編47;1~4
讃美歌(21) 1 362
聖句唱和 イザヤ40;28
主の祈り
メノナイト信仰告白
祈り
讃美歌(21) 441
聖書朗読 マタイ25;31~40
証し
讃美歌(21) 469
献金 讃美歌(21) 64
祈り
頌栄 讃美歌(21) 28
祝祷
今日の礼拝メッセージは牧師だったが「説教」ではなく敢えて「証し」となっている。
詳しくはここに書かないが長年地元の教誨師をボランティアで務めて来られた事からの貴重な話だった。
しかし何処も彼処もボランティア頼みか。
午後はマルコを皆で読む日なので弁当を買いに行こうとしたら呼び止められ。
正月の餅がたくさんあるので昼食に雑煮と安倍川餅が用意されていた。
雑煮ウマい。
つみれ入りの汁が物凄くウマい。
ありがたや、教会家族の食卓。
安倍川餅の黄な粉が余ったので皆で分けて持ち帰る事になった。
マルコは本日3;7~12、病人を癒したイエスに群がる群衆の箇所。
いつもなら参加者が教会員だけでほそぼそとした会であるが
今日は初来会者や教会員の知人やボランティア関係の人などが飛び入り参加して
聖書を読んだ事の無い人や信仰者でない人からの感想や質問に皆で対応しながら読み進んだ。
教会仲間の一人がぽつりと言った言葉が残っている。
「私達は自分が救われて癒されさえすればいいと思って、
自分に都合の良い救世主像をイエスに要求しがちだよね」
その通りだと思う。
結局ゲッセマネからゴルゴタに至るまで付き添った者がこれらの群衆の中に何人いたかという事。
De Imitatione Christiの11章にある通りだと思う。
ご利益のために付いて行く人と信仰者との違い。
11.イエズスの十字架を愛する人は少ない
イエズスの天の国を愛する人は多いが、
その十字架をになおうとする人は少ない。
慰めを望む人は多いが、
苦しみをのぞむ人は少ない。
イエズスと共に食卓につきたい人は多いが、
イエズスと共に断食する人は少ない。
キリストと共に楽しむことをのぞむが、
キリストのために、何ごとかを忍ぼうとする人は、少ない。
多くの人はその奇跡に驚嘆する、しかし十字架のはずかしめ迄つき従う人は、少ない。
多くの人は不幸が来ない限りイエズスを愛し、慰めを受けている限り彼を祝する。
しかしイエズスが姿をかくし暫くの間でも彼らから離されると、不平をいい、ひどく落胆する。
しかし、イエズスから受ける慰めのためではなく、イエズスをイエズスとして愛している人は、
患難や苦しみのときにも、慰めのときと同様に、かれを賛美する。
そしてイエズスがいつまでも慰めを与えなくても、かれらはいつも、感謝と賛美を怠らない。
(『キリストにならう』バルバロ訳 ドン・ボスコ社 1967年より)
バス、まだ来ない。
バス停に立っていると空に妙な切れ目が入っている。
空一面を東西に横切っている。
何だこれは。
これ、一瞬のものではないみたいだ。
ずっと立って見上げているが全然消えない。
途中まで教会仲間と一緒のバスに乗った。
沿線に父が4年前寝たきりで収容されていた老人病院がある。
その建物の前をバスが通過する。
4年経ってもあの窓の下を通るとどうしても目が留まる。
あの窓の真ん中の列に父が寝ていた、と教会仲間に話した。
教会仲間は自分も同じだと言った。
若くして世を去った我が子が住んでいたマンションの前を通るとどうしても足が止まる、と。
私もそうだ。
バスから父がいたマンションが見えるとどうしても目が留まる。
話しているうちに私の目的の停留所に来た。
曇って来たな。
朝の快晴が嘘のようだ。
明日も休み。
ひたすら断捨離にいそしむ。
やっぱり朝食は食べたくない。
とりあえず教会に行く。
ぅわ快晴や。
放射冷却の青空。
主日礼拝
黙祷
招詞 詩編47;1~4
讃美歌(21) 1 362
聖句唱和 イザヤ40;28
主の祈り
メノナイト信仰告白
祈り
讃美歌(21) 441
聖書朗読 マタイ25;31~40
証し
讃美歌(21) 469
献金 讃美歌(21) 64
祈り
頌栄 讃美歌(21) 28
祝祷
今日の礼拝メッセージは牧師だったが「説教」ではなく敢えて「証し」となっている。
詳しくはここに書かないが長年地元の教誨師をボランティアで務めて来られた事からの貴重な話だった。
しかし何処も彼処もボランティア頼みか。
午後はマルコを皆で読む日なので弁当を買いに行こうとしたら呼び止められ。
正月の餅がたくさんあるので昼食に雑煮と安倍川餅が用意されていた。
雑煮ウマい。
つみれ入りの汁が物凄くウマい。
ありがたや、教会家族の食卓。
安倍川餅の黄な粉が余ったので皆で分けて持ち帰る事になった。
マルコは本日3;7~12、病人を癒したイエスに群がる群衆の箇所。
いつもなら参加者が教会員だけでほそぼそとした会であるが
今日は初来会者や教会員の知人やボランティア関係の人などが飛び入り参加して
聖書を読んだ事の無い人や信仰者でない人からの感想や質問に皆で対応しながら読み進んだ。
教会仲間の一人がぽつりと言った言葉が残っている。
「私達は自分が救われて癒されさえすればいいと思って、
自分に都合の良い救世主像をイエスに要求しがちだよね」
その通りだと思う。
結局ゲッセマネからゴルゴタに至るまで付き添った者がこれらの群衆の中に何人いたかという事。
De Imitatione Christiの11章にある通りだと思う。
ご利益のために付いて行く人と信仰者との違い。
11.イエズスの十字架を愛する人は少ない
イエズスの天の国を愛する人は多いが、
その十字架をになおうとする人は少ない。
慰めを望む人は多いが、
苦しみをのぞむ人は少ない。
イエズスと共に食卓につきたい人は多いが、
イエズスと共に断食する人は少ない。
キリストと共に楽しむことをのぞむが、
キリストのために、何ごとかを忍ぼうとする人は、少ない。
多くの人はその奇跡に驚嘆する、しかし十字架のはずかしめ迄つき従う人は、少ない。
多くの人は不幸が来ない限りイエズスを愛し、慰めを受けている限り彼を祝する。
しかしイエズスが姿をかくし暫くの間でも彼らから離されると、不平をいい、ひどく落胆する。
しかし、イエズスから受ける慰めのためではなく、イエズスをイエズスとして愛している人は、
患難や苦しみのときにも、慰めのときと同様に、かれを賛美する。
そしてイエズスがいつまでも慰めを与えなくても、かれらはいつも、感謝と賛美を怠らない。
(『キリストにならう』バルバロ訳 ドン・ボスコ社 1967年より)
バス、まだ来ない。
バス停に立っていると空に妙な切れ目が入っている。
空一面を東西に横切っている。
何だこれは。
これ、一瞬のものではないみたいだ。
ずっと立って見上げているが全然消えない。
途中まで教会仲間と一緒のバスに乗った。
沿線に父が4年前寝たきりで収容されていた老人病院がある。
その建物の前をバスが通過する。
4年経ってもあの窓の下を通るとどうしても目が留まる。
あの窓の真ん中の列に父が寝ていた、と教会仲間に話した。
教会仲間は自分も同じだと言った。
若くして世を去った我が子が住んでいたマンションの前を通るとどうしても足が止まる、と。
私もそうだ。
バスから父がいたマンションが見えるとどうしても目が留まる。
話しているうちに私の目的の停留所に来た。
曇って来たな。
朝の快晴が嘘のようだ。
明日も休み。
ひたすら断捨離にいそしむ。