ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

主を捜す

2013-04-06 20:56:47 | 映画・DVD
嵐が来るというので今日は朝の晴れているうちに掃除と換気を済ませ、
買ったまま見ずに何年も放置したままのDVD10本をを片っ端から見る。
と言ってもまだ3本目。


1本目北野武『座頭市』
2本目蜷川幸雄『嗤う伊右エ門』
3本目ファブリッツィオ・コスタ『マザー・テレサ』


私は数年前にこの映画のDVDを買って、
自分で見る前に行きつけの珈琲店の奥さんに貸したのだった。
キリスト教とは無関係な奥さんからは手厳しく辛辣な感想が帰って来た。


「何だか綺麗事の映画だね。
 実際はもっと過酷な泥臭い現実があった筈。
 映画みたいなお綺麗事ではなかったんじゃないの。
 苦労して業績挙げて世を去ってから都合よく美化されて、
 組織の宣伝広告に利用されてるように思える。」


私はまだ自分では見ていなかったのでそうですかとしか言いようが無かった。
何年も経ってやっと今日見たのである。
確かに奥さんの言ったとおり、画面は色彩豊かであまり現実感が無い。
正直、偉人伝、美談としての作為的な演出に辟易しながら見た。
奥さんが言いたかった意味は分かる。
どうしても綺麗事の部分だけを貼り合わせた作りものっぽい感じがするのだ。
おそらく演出であろう。
しかし半分ぼさっと上の空で見ていても
板に開いた小さい穴から光が差し込むように鋭く入って来た二つのシーンがある。


一つめのシーン。
カルカッタの駅のホームでマザー・テレサが行き倒れの若者と遭遇する。
瀕死の人の口から出た言葉。


「わたしは渇く」


キリスト教の信仰者なら誰でもこの言葉にどきりとする筈だ。
十字架の上で苦しみ息を引き取る直前のイエス・キリストの言葉だからだ。
マザー・テレサがこの瀕死の人の中に主を見ている。
一人の修道女が十字架の上で苦しむキリストと至近距離で遭遇した瞬間だった。


二つめのシーン。
砂地に横たわる瀕死の老人とマザー・テレサとの会話。


「誰かを捜しているのかね?」


「そうです。」


「誰を?」


「(私の)主です。」


「仕えているのか?」


「ええ。主のしもべです。」


「あなたの仕事に主は喜んでいるか?」


「分かりません。」


「なぜ主に会いたい?」


「主がいないと空しいからです。」


「安心するがいい。
 良い雇い主は決して忘れない、彼のために働く者を。」


この言葉は真実である。
そしてこれは信仰者の言葉だ。
この老人が何の宗教の信者かは分からないが、
宗教、教派問わず信仰者が生きる上で信仰とはこのようなものだと私は思う。
おそらく過酷な現実の中で迷い苦悩する一人の修道女に、主なる神が
砂地に横たわる瀕死の老人の口を通して励ましと祝福を与えられた瞬間。
マザー・テレサは苦しむ人々の中に主イエス・キリストを捜していた。


日々の生活の中で遭遇する様々な局面で振り回されたり行き詰ったり試行錯誤する時、
自分が今、主と一緒に歩いていると思う時と、主を捜していると思う時とがある。
その事について少し考えた。