ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

そこに、いる。

2007-07-17 14:11:24 | 信仰
ここしばらくずっと
ただ時間に追われて動いて
夜になったら疲れて電源が落ちるみたいに眠って
ものを考えなかった。
考えても優先順位をずっと後に下げて
何も考えていないように自分で意識下に埋めて
目を逸らしてきたものの幾つか。


その一つは、
自殺する事について。


単純な疑問。
自殺したら苦しみや悩みから解放されて
楽になれるものなのか?
誰がそれを体験して誰にどうやって証明したのだろう?


受洗する前に
三浦綾子さんの『道ありき』を読んだら
その中に自殺の罪は殺人の罪よりも重いと書いてあった。
意味をしばらく考えたのを憶えている。


キリスト者にとって自殺は
大罪の一つとされている。
キリスト者の生命観、
生命が誰のものかを考えると
自分のものでない生命を殺すのは
他殺だろうと自殺だろうと罪だ。
殺人を犯した者には
裁かれて罪を悔い改める道が残されているが
自殺した者は
道そのものまでも自らの手で抹消してしまうので
何も選択肢が残されていない。
だから自殺の罪は
殺人の罪よりも重いと言われるのではないだろうか。
自分なりにそう解釈して勝手に納得した。


『自殺は大罪』。
この考え方は
真面目な信仰者にとっては
自殺企図の抑止力を持つのかも知れない。
でも信仰を持たない人や
精神的に追い詰められたり
死にたい衝動にただ駆られる人にとってはどうだろう。


受洗よりももっと以前、
教会につながってもいなかったもっともっと昔、
信仰とは無縁だった頃に
私は自殺する事について考え込んだ事がある。
20歳代の頃に
たまたま救急車で搬送されるほどの心窩部痛を起こして
入院し手術した病院で
隣のベッドにいたおばあさんと私は仲良くなった。


そのおばあさんは
総胆管結石で今ひとつ経過が思わしくなくて落ち込んでいた。
私がそこに入院する前、
おばあさんは気分が毎日塞いで
よく最上階のデイルームで一人
ぼーっと過ごしていたと言った。


ある日、
いつものようにおばあさんが来ると、
普段は人気のない最上階のデイルームには先客がいた。
薄い紫のガウンを着た中年の女性がいて、
窓を開けて風に当たっていた。
おばあさんは誰とも喋りたくなかったので
壁の方を向いて座っていた。
背中越しに、
その女性が声をかけてきた。


「おばあさん、
 窓開けたら寒いかしら。」


おばあさんは振り向きもせずに答えた。


「いいや。
 寒くないですよ。」


少し間があって、
その女性はまた話しかけてきた。


「おばあさん、
 止めないでね。」


おばあさんが振り返った時、
その女性の体は既に窓の外にあって、
手だけが窓枠を掴んでいた。
風で薄紫のガウンがはためいたのを一瞬見たと思った、と
おばあさんは私に語った。
声を出す間もなく、
女性の手は窓枠を離した。


各階の窓に、皆が見たであろう。
何か大きな鳥のような影のような物体が一瞬、
上から下に真直ぐ通過したのを。
真下は国道に面した病院の正面玄関だった。
人通りの多い歩道のコンクリートの上に
その人は叩きつけられた。


ビルの10階からスイカを落としたような光景だったと
長く入院していた人達が話していた。
通行人が巻き添えにならなくてよかったと
話に加わった人々が言っていた。
その女性が
何の病気で精神的に追い詰められたかを
私は話に聞いたが、
ここには書きたくない。


やがて私は退院して
通院のために再びその病院に来た時、
玄関の前で足が止まった。


歩道のコンクリートに
うっすらとしみが残っていた。
あの女性は
死んで
逃れる事が出来たのだろうか。
肉体の苦しみから。
心の苦しみから。
闘病生活のあらゆる悩みから。


高い場所から飛び降りたら
確実に死ねるなどと
一体誰にわかるのだろう。
肉体は破壊されて滅び、消える。
でも
魂までが確実に死んで楽になれるなどと
一体誰が証明出来るのだろう。


死んだらああなるとかこうなるとか
宗教めいた迷信には全く興味ない。
光り輝く世界があるとか
川が流れて花が咲いてるとか
どうでもいい。
くだらない。
死んで自分の肉体が滅びると共に
苦しむ自分の魂も一緒に死んで
確実に消えて無くなるなら
私も迷わず実行に移す。
しかし魂まで確実に死ねると
どうしてわかるのだろう。


道路の“しみ”を見た時に、
その疑問が湧いてきた。
「死んだら楽になれる」という思いそのものが
迷信に過ぎないではないか。


道路のしみを見て以来、
私には
その女性がまだ死ねずにいる気がしてならない。
病苦と心の悩みを抱えたまま
コンクリートに激突し
肉体が破壊される最期の瞬間を味わったまま
そのままずっと
20年以上経った今も
地面に縛り付けられて動けずにいる気がして。

他人事ではないよ。

2007-07-17 08:28:13 | 日常
5、6年前の釧路の十勝沖地震は震度6だった。
震度5は何度も体験してるけど
あれ程までには大きくない。


あの時はまだ救急病院勤務だった。
職場で全員出動だったので多分震度6だったと思う。
(震度5ならば主任以上の役職者出動だった筈。)


その震度6の十勝沖地震の時も
10年以上前の釧路沖地震の時も
そのしばらく前には新潟付近で
大きな地震が起こっていた。


だから
この次に再び大きな地震が来るとしたら
大災害になるのは多分
今自分の住んでいる釧路であろう。


地震雲に気をつけよう。
避難グッズの中身を整理しなきゃ。


じじが非常食の
サトウのごはんやチョコを食べてしまうので
避難グッズをリュックに詰めて置くのは断念していた。
でも
そうも言っていられない。
災害時に自分やヘルパー達が
じじを連れて困らないように
また一式用意しておかなければ。

地震

2007-07-17 07:43:28 | 日常
5時半に目が覚めて
仕事休みなのに
まだベッドから出られない。
腰いた・・・


テレビ見たら
死者がさらに増えてる。
地震のために
避難所で一夜を明かした人達は
眠れない夜だった事だろうな。
昨夜何時に飲み物や夕食を
供給されたんだろうか。
倒壊した家屋の下で一晩明かし
今なお救出されずに
助けを待つ人が何処かにいるかも知れない。


主なる神、
救けて下さい。
憐れんで下さい。

草粥

2007-07-17 07:36:25 | 
これ、
じじの朝飯、草粥。
最近、じじが野菜を残すので
これまで虚しく捨てられ続けた
ほうれん草と白菜のおひたしを
刻んで
白い粥の中に混ぜた。
薄い塩味で
ほうれん草と白菜の他に
春菊、三ッ葉、青じそを
軽く湯がいて刻み、
合わせて混ぜる。
正月の後に食べる七草粥と
ちょっと似た風味だ。
見た目は緑色が強烈だけど
実は美味い。
お粥の苦手な私はこれで克服した。
じじの野菜嫌いをもクリアする。あまりドロドロに煮込み過ぎないで
さらっと雑炊っぽくして
湯がいた餅を
ひと口サイズに切って
入れるのもイケる。