ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

在宅介護について

2006-09-05 00:18:14 | 信仰
転職して
仕事はべらんめえな肉体労働になり、
爽快に大汗をかいた後、
父の家に寄って
雑用と翌朝の食事の用意と服薬の準備などをして、
いい加減睡魔が襲う頃になって自宅に戻る。
足の裏がじんじんしている。


以前このブログにも書いたので詳しく書かないが、
父親については
本人が「自分の居場所」と認識出来る場所で
最後まで暮させる事が出来たらと思う。
そのために苦労もあるにはあるし、
犠牲も払わなければならないが、
それもよしとする。
何故なら
「本人の安全+家族の安心」という道と
「本人の馴染みの生活空間」を最後まで確保し続ける道と
どちらの道を選ぶかで本人がこの世の生涯を
幸せに完走し終えるかどうかを左右してしまうのだと、
昔自分の受け持った患者さんから私は教えられたからだ。


先月(2006.8.29)、
父宅で在宅介護のカンファレンスがあった。
私の父という独居老人一人に対して関わる介護の
各方面の担当者達が父宅に集まった。
私達はこうして今後の方針を定期的に相談している。
在宅ケアプランを総合的に調整するケアマネージャー、
通所デイケアで利用している老人保健施設の介護福祉士、
デイケアの無い日に利用しているホームヘルパー責任者、
家族の中で父のキーパーソン役の私(准看護師)の4者で
父という1人の老人の介護方針を相談して決める。


施設や病院では
看護・介護する者1人に対し年寄り数人~10数人、
(夜勤は看護師1人+介護士3人に対し50~85人)
在宅では逆に
父のような高齢者1人に4つの各方面の担当者が要る。
在宅はそれだけ手間ひまがかかるが、
本人はマイペースでいられる。


週3回のデイケアでは
健康チェックを受け入浴して食事と仲間と囲碁に興じる。
父は将棋の段は持っているが、囲碁はド素人だ。
デイケアで知り合った仲間に囲碁を一から教えて貰って、
毎回コテンパンにやられて悔しがっていたが
最近は勝つようになってきて欲が出てきた。
もっと上手く強くなりたいらしい。
気に入らないお喋りなババアがいるとか、
温室のバナナが実を付けたとか、
昔は考えられなかった。
学校での出来事を親に報告する子供のように
生き生き楽しそうにしている。


デイケアの無い日はヘルパーが来る。
食事摂取と服薬を確認し、血圧を測って
杖と車椅子を併用しながら散歩に連れ出してくれる。
顔馴染みの喫茶店で店主やヘルパーとお喋りして、
ヘルパーが時間オーバーするほど話し込み、
声を出してよく笑う。
冗談をよく言い、
ボケたふりをしてヘルパーや私を騙す事もある。
昔は考えられなかった。
食事のメニューなんかも
いろいろと本人の好みを聞いて作って貰っている。
家の中も綺麗にして
日常あった事をヘルパーから私に報告が来る。


隔日で夕食は配食サービスの弁当を利用している。
食事の援助と言うよりも、安否確認が目的だ。
配達員とも顔見知りになって、
たまに小学生の子供を連れて来るのが
父には楽しみらしい。


私は仕事の帰りは父宅経由。
その日のヘルパーやデイケアからの報告と連絡を受け、
本人から一日の出来事を聞き、歩き方や食事の摂取量、
服薬確認と内服の整理、
日用品の不足が無いかチェックして買い物をし、
夕食後の洗い物をし、翌朝の食事を作ってセットする。
ヘルパーからのとデイケアからのと、
2冊の連絡ノートを読んで翌日のヘルパーに申し送る。


何かトラブルや予定変更があれば
ケアマネージャーに連絡し、相談する。


本人は息が切れたり昔機関車に轢かれた傷が痛んだり、
あちこち痛かったりするが、
自分の生活を当たり前に楽しんでいる。
この現状を何処まで続けられるかが鍵だと思う。
傍からは一人で暮らさせて可哀想とか
どうせ先が短い者に金も手間隙も無駄だもったいないなど
(離婚した母・妹の意見)
いろいろ言われるが、共倒れにならないように
現状維持しようとするうちに自然とこうなった。


しかし国からの助成はどんどん削られていく。
老人医療に関わった看護師を娘に持っていても
現実には難しい問題だらけだ。
一般的な職業ではもっと大変ではないだろうか。
老父母と同居を始めた友達も教会にいて
しんどい話を分かち合う事もある。
同居でなくても
介護の問題を抱える兄弟姉妹が教会に増えた。
同じ悩みを持つ事が
私達の精神的な結束を強めている事は間違いない。
親の介護の問題を抱えながら
仕事をして生活のいろいろな雑事をこなして
教会の奉仕もする。
そのための時間を
いかに無駄なく
いかに有効に
いかに貪欲に
いかに最大限活用出来るか
私達は闘っている。


昔、子供だった私は父親からずいぶん苛められてきた。
それでもなおこんな事をするのは、
イエス・キリストがやれというから。
親に親らしい事を何一つして貰えず
親族の間を盥回しで育ち、
家庭を知らないために自分自身の家庭を築く事に失敗し、
人知れず誰もいない部屋で死に掛けた事もある
そんな父という者に、
イエス・キリストが和解の手を差し出している。
不幸せにいじけて生まれ育った父が
人間不信のままこの世の生涯を終えないために
私に働けと。
私はいつもキリストに喧嘩を売り、
反発し、文句を言い、折れて妥協し、
結局は諦めて従ってきた。
最近はくたびれてきて、反発する気も起こらない。


それでも時間を
いかに無駄なく
いかに有効に
いかに貪欲に
いかに最大限活用出来るか
毎日闘っている。
そう。
闘っている。