上越・町家暮らし

主に新潟県・上越市の自然、文化、風土、そして町家暮らしについて書いていきます

津軽に斎藤真一の足跡を辿る (道中記2 映画・砂の器ロケ地)⑥

2019-11-11 00:01:05 | 津軽の斎藤真一

 

由利本荘市郊外の決して広くはない、国道101号線をのんびり走っていると(亀田)という案内板が目に飛び込んだ。それはまさしく飛び込んだ、と言わんばかりに視界に忽然と現れた。羽後亀田にいつかは機会があれば訪れたいと思っていた矢先であったから、車頭を映画「砂の器」のロケ地である亀田に向けた。

 なぜ今回の旅の計画の過程で、砂の器のロケ地が旅の過程にあることに気がつかなかったのだろうか。記憶のそこで眠っていた、(亀田)が声を揚げた瞬間だった。

 

 羽後亀田駅。ネットで調べた際、駅は当時とほとんど変わらないとあったが、本当だった。窓が木枠からサッシに交換されただけで、雰囲気はそのままである。う〜ん。この改札口から丹波哲郎演じる、今西刑事と、森田健作演じる、吉村刑事が汗を拭きふき出てくるのだ。

    羽後亀田の駅前タクシー会社 当事物

 それにしても名作映画のロケの聖地と呼ばれる場所にしては、素っ気なく、映画に関する看板、資料など皆無である。駅の周辺を一通り歩き、駅の切符売り場の方に聞くことにする。すると、切符売り場の窓口に、駅を写した「映画の聖地」と書かれた印刷物が、ひっそりと貼られているだけだった。売り場の男性に、何箇所かのロケ場所を教えていただいたのだが、必要以上に喧伝するより、この時間が止まったような佇まいがいいのだろうと、妙に納得して駅を後にした。

亀田地域に残る旧亀田藩の歴史を訪ねます。真田幸村の娘「お田の方」が建立した「妙慶寺」、亀田藩主岩城家の菩提寺の龍門寺、1398年建立の熊野神社、天鷺城、城下町の面影が残る亀田町内など見所がたくさん。また、松本清張原作「砂の器」のロケ地としても知られています。

 亀田周辺は整備され、のんびり歩くには最適の場所である。これで休日とは。道路奥に天鷺城が見える

今も残る白壁。この川辺が下記の映像。

衣川というらしいが、この川辺で作業をする女性に刑事二人は、不審者の情報を尋ねるのである。

龍門寺山門。ここで二人の刑事は、地元の刑事が持ってきたメロンを無造作に割って食べるのである。

 原作 松本清張 監督 野村芳太郎 脚本 橋本忍、山田洋次

出演 丹波哲郎 加藤剛 森田健作 島田陽子 山口果林 渥美清 

 「砂の器」は、松本の社会派としては良作だが、内容的には各所に陳腐なところが見られる。しかし映画がその原作を凌駕する出来上がりだと私は思っている。もし、原作通りの作りであったなら、これだけの名作にはならなかったとおもう。全国四季を通じてのロケと、美しい日本の四季にカメラ回した川又昂、音楽の芥川、そして何と言っても加藤嘉の熱演が、この映画のすべてと断言しても過言ではないように思う。リアルタイムで映画館で見た際は、加藤剛の大根役者ぶりが目についたが、改めてDVDを何度も見直しているうちに、これでよかった、なんて思えてくるから不思議である。

ウイキペディアから

エピソード

『砂の器』製作以前に、橋本忍脚本・野村芳太郎監督のコンビは、『張込み』『ゼロの焦点』の映画化で松本清張から高評価を得ていた。『砂の器』を連載するに当たって、清張は二人に映画化を依頼している。しかし、送られてくる新聞の切り抜きを読みながら、橋本は「まことに出来が悪い。つまらん」と映画化に困難を感じるようになり、半分ほどで読むのを止めてしまった。しかし清張自らの依頼を断るわけにもいかず、ともかくロケハンに亀嵩まで出かけて行った。そこで後述する山田洋次とのやりとりがあり、帰京した後、わずか三週間、宿に籠っただけで脚本を書き上げた。後に橋本は「父子の旅だけで一本作る。あとはどうでもいいと割り切っていたからね。手間のかからん楽な仕事だった」と述べている。 

上記の橋本忍の記述を読むと、この映画での父子の旅の比重がよく分かる。名作の裏話は実に面白い。いかに原作が駄作であるか、「砂の器」ウイキペディアを一読していただきたい。

名作の舞台、日本海、漁村、小さな忘れられた山村、家屋、そしてその駅。それらの材料の活かし方、ということか。

 

 

 


津軽に斎藤真一の足跡を辿る (十三の砂山2)⑤

2019-11-10 00:13:44 | 津軽の斎藤真一

「十三の砂山」と題した斎藤の絵 津軽じょんがら画集より

 「十三の砂山」と題していくつかの作品があることをブログを見た方から教えていただいたので、池田敏章コレクション図録からの抜粋です。比べてみてください。ほとんど同じ構成、配置、人物となって入るが、表情と筆の力の違いがあるように見えると思います。

 

 十三湖大橋の中州の公園には「十三の砂山」と題した歌碑がある

 

歌碑には十三民謡とある

 

 

~青森県北津軽郡市浦村~

《十三の砂山》の歌われる市浦村十三(じゅうさん)は、津軽半島の西北部に位置し、東側にはシジミで有名な十三(じゅうさん)湖が広がります。十三とは、元禄13(1700)年に、津軽家5代藩主・津軽信寿が土佐守に任じられたことから、それをはばかって「十三」は「とさ」から「じゅうさん」に改めたといいます。ただし、十三湖は13の河川が流れ込んで出来た潟湖であって、どうも地名としては「じゅうさん」の方が古いようです。

この十三はかつて中世の港湾施設を持った湊町であったといい、鎌倉時代には十大貿易港として指定され、江戸時代には、三厩、深浦、鰺ヶ沢とともに「津軽四浦」の1つとして知られ、日本海を航行する北前船の「弁財衆」が集まって賑わったところといいます(弁財衆とは、船頭衆の責任頭のこと)。

この《十三の砂山》は盆踊り唄ですが、元々は《酒田節》と呼ばれる「舟唄」であったといいます。


○酒田興屋(こや)の浜 米ならよかろ 西の弁財衆に ただ積ましょ


という歌詞で歌われ、酒田から各地に伝えられたもののようです。この種の唄は、日本海沿岸では歌われており、新潟では「弁財衆」の転訛である《米大舟(べいだいしゅう)》という曲が伝承されています。

十三でもこの《酒田節》が伝えられて「舟唄」として歌われ、そして「返し」をつけて踊り唄にしました。それも独特で、第3句目を逆にしての後半4文字を繰り返していくスタイルをとります。
また元々は、太鼓だけの伴奏による素朴なものだったそうです。それを、津軽民謡の成田雲竹が、昭和26年の東京での「郷土芸能大会」へ出演する時に、高橋竹山による三味線の手付け、節回しを整えて、今日のような形になったそうです。

かつて繁栄した湊町・十三も大津波や洪水などによって、「砂山」が残るだけになってしまったイメージ、そして技巧的な節回しの津軽民謡の中で、大変美しく、哀愁に満ちたメロディは、人気があります。

上記「土佐砂山」の説明は線翔庵様  http://senshoan.main.jp/index.html  からの参考資料です。


津軽に斎藤真一の足跡を辿る(道中記1)④

2019-11-09 13:12:12 | 津軽の斎藤真一

 山形から秋田に入ると風景がガラリと変わる。いたるところに設えられた風力発電の風車が、顕著にみられ、秋田が風の国だと、つくづく感心させられる。

 

 

 

     秋田県由利本荘市西目にて

 

 

 

   秋田県由利本荘市西目にて

 風の民を待つ無表情で寡黙な風車は、まるでモアイのように天を仰ぐ。羽の下でシャッターを押す僕の魂を、時々ヒュヒューと吐息を漏らして驚かせる。

 風車の下で耳をすませば、作り手のメーカによって、吐息に差異があるのが分かる筈だ。

 

 

 

 

 


津軽に斎藤真一の足跡を辿る (十三の砂山) ③

2019-11-08 23:48:12 | 津軽の斎藤真一

 1973年、津軽を舞台に斎藤耕一監督、江波杏子主演、織田アキラの映画。映画ポスターの絵は斎藤真一が描いでいる。

この映画は見た記憶があるのだが、よく覚えていないので、改めて見てみたいと思う。

 

 翌朝斎藤は「汽車で五所川原まで行き、小泊行きのバスに乗る。大きな森の中にバスが止まると、2、3人の女衆が乗ってきた。馬鹿でかいほどの大きな風呂敷荷を背負った女がそばにどっかりと荷を下ろし、通路が塞がった」と斎藤は書いている。しかも強そうで、腰の大きさに驚いたと同時に、喋っているわからない言葉に困惑し、異国に来た錯覚に襲われるのである。斎藤真一著・「瞽女=盲目の旅芸人」から。

 

 私も初めて青森を訪れた50年前、汽車の中での地元の人の会話が、韓国か中国の人と勘違いしたくらいである。また、大きな荷物をもった女性たちは、当時担ぎ屋と呼ばれ、田舎から都市に、生鮮物や米を運び、都市部から田舎へと、商品を運ぶことで生業にしていたのである。いわば人力の産地直送便である。昭和39年代〜40年代にかけて、東京に通っていた私も、汽車内の屈強のおばさんたちに驚いたものであった。

 

道の駅「十三湖」の展望台から

 

 十三村にはようやくお昼過ぎに着いた。さて、この村がどんなに私を、その後、ある一つのことがらに夢中にさせてしまったか。このたびの最初の感動が蟹田村にあるとすれば、十三村では日本の古い唄を聞いたような気がする。その歌とは、この村そのもの哀歌であるが、バスの停留所に降りた時から流れ聞こえた、唄は私の幻覚であり、また幻想であった。

 十三村は砂の村だ、バスを降りた途端、靴の中に砂が一杯入っていた。荒涼たる村だ。

  斎藤真一著・「瞽女=盲目の旅芸人」から。

 砂山から日本海を望む。

 

村は十三村(とさむら) 湖は十三湖(じゅうさんこ)と読む

十三湖はシジミが名産。車を止めると早速売り子がやってきて、一杯200円のシジミ汁を勧められた。その昔、ここには青森でも有数の大きな港があり、栄えていたというが、湖は浅くなり、大きな船の出入りが出来なくなって、今や、シジミくらいしか取れなくて、寂れてしまったのだという。


津軽に斎藤真一の足跡を辿る (竜飛岬) ②

2019-11-08 09:22:56 | 津軽の斎藤真一

 初めて訪れた東北。投宿した弘前の宿で、三味線の音色に心を奪われた斎藤は、宿の主人の勧めもあり、地元十三村の砂山唄に惹かれ、翌日宿を後にしたのである。

   番外編、その1

 

 さて、私ごとであるが斎藤が訪れた1961年から7年後の1968年、私は青森の友人宅を訪れている。ちょうど冬だったことから、津軽鉄道のストーブ列車や太宰治の斜陽館、十三湖にも足を運んだのだが、竜飛岬には行っていないことから、今回寄り道することとなりました。

  津軽半島の漁村

朝の出漁。北海道が目の前である

有名な?走れない、行き止まり、階段国道も灯台の下部にある

 夜の灯台

 龍飛岬灯台から北海道側

 

   下北半島側.陽は上がったものの、恥ずかしがり屋のお日様は、ご尊顔を見せてはくれなかった。

 この日も竜飛岬名物の強風が吹いていた。温度は5度ほどで手袋が欲しい。北海道では雪だよりだという。11月3日。