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エニート!ファイト!!

2009年08月04日 | 人生

以前、思い付きで「エニート」という言葉を使ったことがあります(「「エニート」の強みと誇り」参照)。この「エニート」というのは、「エリート」と「ニート」とを掛け合せた言葉ですが、最近まで、その言葉が結構あちこちで使われているということを知りませんでした。

この言葉について、私は私なりの使い方をしていましたが、一応、他の使い方についても調べてみました。すると、その中には、「一流大学を出たり、難易度の高い資格を持っている(エリート)であるにも関わらず、ろくな職にも就かずにプラプラしているような人(ニート)」という考え方があるようです。

考え方はいろいろですし、これはこれで、なかなかそれらしく聞こえます。しかしこれは、私が考える「エニート」とは、かなり違うように思います。

少なくとも私の場合、一流大学(とされるところ)を卒業したり、資格を持っていることで、その気になってしまっている人がいるとして、その人がとても「エリート」であるとは思いません。「エリート」というのは、誰もできないような難しい仕事を成し遂げる優秀な人々であり、既存の仕組みや概念が役に立たないような時代においては、それすらも超越した存在だと思うのです。学歴や資格というのは、既存の仕組みや概念が生きていた過去において、それなりの意味を持つものであり、それらが根底から変わっていくときの未来にかけては、ほとんど役に立つものではなく、それらを超越した存在である「エリート」の概念とは、一切関係ないような気がするのです(「私塾の時代」参照)。

もう少し、違った言い方をします。「エリート」を国語辞典で引くと、「社会や集団で、指導的、支配的役割を受け持つ層」と出てきます。つまり、「エリート」が「エリート」たり得るためには、社会においてきちんと指導的役割を果たしていなければなりません。一方で、「ニート」と呼ばれるような人々を大量に出てしまっているような社会において、「エリート」が、その本分を全うしているとは、到底言えないと思うのです(「ニートたちの言い分」参照)。もし仮に、国語辞典的な意味で、安易に「自分はエリートだ」という人がいるとするならば、私は大いにその人を責めなければなりませんし、またそれを否定しなければなりません。

こうした意味でも、現代において、「エリート」と呼ぶべき存在は、もはや消失しかけており、新しい時代に向かっていく中で、徐々に次の新しい「エリート候補」たちが、頭をもたげ始めているように思うのです。

そして私は、その「エリート候補」というのは、現在において「ニート」扱いされながら、苦労をしている人々の中に多数いるのではないかと考えます。そこには、古い「エリート」の概念と深く関係するような学歴や資格は、一切関係ありません。次の時代においては、そうした概念を超えて、「指導的、支配的役割」を担うだけの能力を持つ人々が、純粋に「エリート」と呼ばれるようになると思うのです。

私の場合、あくまでも「エニート」という言葉には、そうした「ニート」たちが、次の時代を担う「エリート」になっていくという意味を込めておきたいと思います。今は、「ニート」たちにとって、飛躍のための充電期間に過ぎません。

そういう意味で、エニート!ファイト!!なのです。

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