絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

ローマ人の物語12 

2009-11-17 | 読書
今日読んだところの感想。

250年辺りを読んでいます。それによると、キリスト教の迫害は、150年間くらいは、ほとんどなかったとありました。殉教した人が12人くらいだということです。これがローマ側の記録なら疑いますが、キリスト教会側の記録だということですから、信じられるのかなと思います。

ただ、例外は、ネロの時です。ローマの大火の原因はキリスト教信者だったということで大量に虐殺したことがあったからです。

それ以外は、ただキリスト教の信者だからということで、迫害を受けた訳ではなく、国家の危険を感じるような活動をした場合のみで、ローマは、元々多神教であったから、一々他の宗教を弾圧はしなかったというのです。

へええと思いました。私は、ペテロやパウロが殉教したとか、ドニが自分の首を持って歩いたとか、そういうことばかり頭にあったので、それ以外にもものすごい弾圧が常にあったのかと思っていました。

よく読むと、その弾圧は250年のデキウス辺りかららしいのです。
日本では、踏み絵が行なわれました。それと似たようなことですが、自分はキリスト教の信者ではないという証明書をもらうということをやったようです。

キリスト教徒は、ローマの言うことより、神の言うことに従うわけですから、ローマにとっては、不都合な存在になるわけです。

よく考えると、そうですよね。「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」というからには、人を傷つけるような戦争をするわけがないと思いますがどうでしょうか。

一応、その時は、ローマに従って、自分はキリスト教徒ではないという証明書を受け取って、その場を逃れるように指示が出されて、事なきを得た人々もたくさんいたようです。また、信者であることを辞める人もいたようです。
しかし、指導者的な立場に居た人はそうはいきません。それで、殺された人もたくさんいたでしょう。

ここで、思ったのは、カタコンベはいつから作られたのだろうということです。調べてみたくなりました。キリスト教を私が思っていたように常に弾圧していたのなら、キリストが亡くなってからの、300年間はずっと地下に隠れていたと思いこんでいたので、すこし、違うかなと思い始めました。
313年のミラノ勅令でコンスタンチヌス帝がキリスト教を公認したので、それ以降キリスト教の教会が作られ始めたと生徒に教えて来ました。
確認してみます。

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百科事典で、調べると地下墳墓としか出て来ません。ただし、キリスト教徒だけのお墓ではありません。そして、別のものを見たら、今では、キリスト教徒が隠れて布教していた場所と考えている人はいないでしょうと書いてあるものもありました。
これは、ピラミッドがお墓ではないと聞いたときと同じくらいのビックリですが、どうなのでしょうか。

カタコンベがキリスト教徒の隠れ場であったと考えると、キリストの生まれた紀元元年から認められる313年までの迫害を受けていた時期に作られて、それまでは、表に出られなかったけれど、313年以降は堂々と外で活動ができて、キリスト教の教会も作られるようになったというのが、私が考えていたことでした。

しかし、そうではないとなると、カタコンベはいつから作られたのか、そして、313年以前からキリスト教の教会はあったのか、という問題の答えを探さなければなりません。だれか、ご存じの方は教えてください。







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