授業中に他事をしている子どもに注意をして叱ると、「どうして、僕ばかり注意するの?」「他の子は?」などと返事がくることがある。確かに他にも注意しなければならない子もいる。だからと言って、すべての子どもを注意していては、授業は進まない。だから、教師が全体に向かって話すことは、一人のために言っていることではなく、どの子にも伝えたいことだから、「注意されていない子にもなぜ注意をするのかわかってほしい。」という思いで話していることが多い。だが、その事は子どもには伝わらない。直接叱られる子と直接叱られない子では、受け止め方に違いが出てくるからだ。だから、すべての子を同じように叱ることはできない。逆にそれならば、叱らなくてもよいかと言えば、そうではない。やはり叱らないといけない。
叱る側の姿勢がここで問われてくるのだ。まず、なぜ叱るのかということを見つめてみたい。
・他事をしていると授業を進める上で邪魔になるから。
・今、授業に参加しないと、しなければならないことが増えるから。
・授業を進めたいが揃わないと授業が進められないから。
・他事をしていることがみんなの迷惑になるから。
・授業に参加しないと今後あなたが困るだろうから。
・みんなで一緒に授業をしたいから。
・授業に参加しないと今後あなたが困るから。
・あなたも大事な一人で、放っておけないから。
いろいろな思いがあるだろう。これらの思いの違いが叱るときの教師の表情の違いとなって現れ、子どもが叱られた時に理由を勝手に解釈してしまう。
例えば、次のようにいろいろな子どもの思いを想像することできる。
「どうせ、先生の都合で僕を叱っているでしょ。」
「僕がいない方が本当はいいと思っているでしょ。」
「僕は馬鹿だから。わからなくてもいいんだ。」
「こうなったのは、教え方が悪い先生のせいなのになぜ叱られるのか。」
こんな思いでいるとしたら、教師の子どもを思う気持ちが伝わっていないことになる。叱ることが愛情の証だとは考えられないのだ。
「先生は、あなたのことが本当に心配だから、叱っているんだよ。」「あなたを嫌いだから叱るわけではないんだよ。」「よくなってほしいから叱るんだよ。」と、10回20回言っても叱られた時の嫌な思いがあるとすべて飛んでしまうのだ。
何度も他事をする子には叱ることで指導の効果を上げることはできないのかもしれない。なぜ授業中なのに他事をするのか、その理由を知り、いろいろと問いかけていくことが大事なように思えてくる。
そして、「それが、授業に参加しなくてもすむ理由になるのだろうか。」、「どうして、そんな理由で授業にい参加しない自分にしてしまうのだろうか。」「何か不満はないのだろうか。」、「人のせいに責任を転嫁して逃げていることはないのだろうか。」、「そうしてしまう自分に何か足りないものはないのだろうか。」「それを続けることがどんな意味があるのだろう。」などと次から次へと知りたい内容が出てくる。そして、この疑問に対する返答の中から授業に真剣に迎えない子どもの問題を発見することができる。それと向き合わなければ、子どもを理解できず、子どもを自分の授業を進めるための道具として子どもを扱っていると言わざるを得ない。
そして、この理解を通じて「あなたのことが本当に好きなんだよ。」という教師の子どもを思う気持ちを伝えることができるように思う。
叱る側の姿勢がここで問われてくるのだ。まず、なぜ叱るのかということを見つめてみたい。
・他事をしていると授業を進める上で邪魔になるから。
・今、授業に参加しないと、しなければならないことが増えるから。
・授業を進めたいが揃わないと授業が進められないから。
・他事をしていることがみんなの迷惑になるから。
・授業に参加しないと今後あなたが困るだろうから。
・みんなで一緒に授業をしたいから。
・授業に参加しないと今後あなたが困るから。
・あなたも大事な一人で、放っておけないから。
いろいろな思いがあるだろう。これらの思いの違いが叱るときの教師の表情の違いとなって現れ、子どもが叱られた時に理由を勝手に解釈してしまう。
例えば、次のようにいろいろな子どもの思いを想像することできる。
「どうせ、先生の都合で僕を叱っているでしょ。」
「僕がいない方が本当はいいと思っているでしょ。」
「僕は馬鹿だから。わからなくてもいいんだ。」
「こうなったのは、教え方が悪い先生のせいなのになぜ叱られるのか。」
こんな思いでいるとしたら、教師の子どもを思う気持ちが伝わっていないことになる。叱ることが愛情の証だとは考えられないのだ。
「先生は、あなたのことが本当に心配だから、叱っているんだよ。」「あなたを嫌いだから叱るわけではないんだよ。」「よくなってほしいから叱るんだよ。」と、10回20回言っても叱られた時の嫌な思いがあるとすべて飛んでしまうのだ。
何度も他事をする子には叱ることで指導の効果を上げることはできないのかもしれない。なぜ授業中なのに他事をするのか、その理由を知り、いろいろと問いかけていくことが大事なように思えてくる。
そして、「それが、授業に参加しなくてもすむ理由になるのだろうか。」、「どうして、そんな理由で授業にい参加しない自分にしてしまうのだろうか。」「何か不満はないのだろうか。」、「人のせいに責任を転嫁して逃げていることはないのだろうか。」、「そうしてしまう自分に何か足りないものはないのだろうか。」「それを続けることがどんな意味があるのだろう。」などと次から次へと知りたい内容が出てくる。そして、この疑問に対する返答の中から授業に真剣に迎えない子どもの問題を発見することができる。それと向き合わなければ、子どもを理解できず、子どもを自分の授業を進めるための道具として子どもを扱っていると言わざるを得ない。
そして、この理解を通じて「あなたのことが本当に好きなんだよ。」という教師の子どもを思う気持ちを伝えることができるように思う。