ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

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教師らしさ

2009-02-20 | 育児
 教師という顔で子どもたちの前に立っている私たちであるが、教師としての自分(教師としてこうあるべきだ)を意識して毎日の生活を送っていることは意外と少ない。無意識のうちにいつもの自分が顔を出して、自分らしく子どもたちと接していることの方が多い。
・物事の捉え方
・行動の仕方
・物事の進め方
・物事の感じ方
・褒め方や叱り方
 すべていつもの自分が勝っている。
 しかし、子どもたちは違う。「うちの先生はこう言った。」「先生がこうしているから。」などと一挙手一投足を教師として丸ごと捉えている。
そして、これが教師だと信じて一生懸命に真似る。1年間を通じて真似続けるから担任と似てくる。
 無意識にしていることがどれ程多くの影響を子どもに与えているかを考えると恐ろしくなる。・廊下を歩いている時の自分は教師らしいだろうか。
・机に向かって仕事をしている自分は教師らしいだろうか。
・子どもと話をしている時の自分は教師らしいだろうか。
・子どもと一緒に食事をしている時の自分は、教師らしいだろうか。
・同僚と話をしている時の自分は教師らしいだろうか。
 このように一つ一つのことに「教師としてあるべき姿なのか。」を問い続けていたら、きっと息が詰まってしまう。しかし、保護者や地域の方々、社会も子どもと同様に捉えている。毎日の生活を教員のいる世界だけで過ごしているとなかなかその感覚が分からない。常に教師としての自分を見られている。
 教師である前に人間だと言いたくなるが、教員の不祥事として新聞記事でよく取り上げられるように、教師である以上、学校だけでなく、社会生活をしているどの場面でも教師という顔を外すことはできない。これも教師になった宿命である。教師になった時点から、全てが教師としての自分に見られてしまうのである。
 自分を磨くことは、この何気ない日頃の一挙手一投足に教師としての魂を入れることに他ならない。授業力をつけるだけが、教師の顔になるわけではない。趣味を増やすにせよ、人間関係を別の場面で作るにせよ、人間としての自分を高めていく営みは、教師としての顔を保ち続けるための努力にもなる。
 これを辛いことだと考えているか、これを生き甲斐として捉えるかは、一人一人の生き方になる。ただ、「あの人は、立派な人だ。やっぱり教師だ。」と言われることが多くなれば、教員の社会的地位がもっと向上する。「私も先生のような立派な教師になりたい。」と憧れをもつ子どもも増えてくる。教員の社会的責任が強調される時代ではあるが、それにつぶされることなく、私たち一人一人の生き方が教員の社会的地位向上に役立つことをもっと自覚し、自分を磨いていきたい。