ブログを開けてアレッ、と驚かれたかと思います。
同じデザインが長く続いたので、気分転換で変えてみました。
(ちょっとあっさりしすぎですが。)
今日は「日本サッカー文化を育てる会」の第6回準備会でした。
といっても、この「会」について知っている方は殆どいないと思います。
ここで紹介するのも、初めてです。
昨年5月以来、定期的に開催しています。
「サッカー」をサカナに楽しく語り合おうという会です。
今日の講師は坂田信久さん。
元日本テレビスポーツ局長、元東京ヴェルディ社長、現在は国士舘大学教授です。
「テレビは高校サッカーをどう変えたのか」がテーマ。
スポーツジャーナリストの白髭隆幸さんに「聞き手」をお願いしました。
白髭さんは、30年以上にわたって高校サッカーを取材されています。
私が坂田さんとに初めてお会いしたのは、1980年ごろだったかと思います。
いい加減な人が多いテレビの世界で、
坂田さんは誠意を持って仕事に取り組まれるテレビマンでした。
その後、ヴェルディの社長になられた時にはJリーグ理事も務められ
理事会でご一緒しました。
(現在はJリーグのマッチコミッショナー委員長でもあります。)
さて、お正月の「全国高校サッカー選手権」は、
坂田さんの奔走で現在のような確固たる大会になったのですが、
お話の中で印象に残ったエピソードの一つが、坂田さんの学生時代の体験談です。
1960年。東京教育大学(現筑波大学)サッカー部に在籍されていた時に、
クラマーさん(※)の指導を受られたそうです、
※サッカーに詳しい方には今更、説明する必要はないと思いますが、
旧西ドイツ出身で、日本サッカーの恩人ともいえる人です。
東京五輪の強化に取り組む日本代表を指導するために来日していたクラマーさんが
大学に指導にこられました。
サッカー部員といえども、学生のほとんどは卒業後は教員を目指しています。
そんな学生達にこんなことをいわれたそうです。
「教育者として子ども達を指導することも大切だが、報道も大切だ」。
そして、ミュンヘンの片田舎に生まれた“サッカーの天才少年”について話しました。
その天才少年が試合で活躍し、翌日の新聞にその様子が掲載され、
本人はとても喜びました。
「今は誰も知らないだろう」といって、天才少年の名前を書きました。
「フランツ・ベッケンバウアー」。
ベッケンバウアーはその後、ドイツを代表する選手・監督として実績を残し、
2年前のドイツのワールドカップでは責任者として大会を成功に導きました。
そんな彼の少年時代を励ましたのが、一つの新聞記事だったということです。
坂田さんが教職でなくテレビ局への就職を希望したのは、
クラマーさんのこの話がキッカケとなっています。
「日本の報道は遅れている」と指摘されたそうです。
坂田さんは日本テレビで高校サッカー、トヨタカップと、
サッカー中継番組の基礎を作りました。
偉大な指導者とは、何を基準に評価するのでしょうか。
スポーツでいえば、いくつタイトルを取ったか、
あるいは何人の優秀な選手を育てたかが、物差しとなるでしょう。
しかし、さらにもう一つの物差しがあると思います。
どれだけの人に影響を与えたか―。
その分野が多様であるほど、偉大な業績といえます。
日本のサッカーの礎を築いたクラマーさんが、
テレビの世界にも大きな影響を与えたことを、初めて知りました。
坂田さんは、クラマーさんに指導を受けている当時の写真を、披露してくれました。
「クラマーさんにあらためてサインをしてもらったんです」。
半分、恥ずかしそうに、半分、誇らしげに。
================================
【株式会社スポーツ21エンタープライズ】
代表取締役 三ッ谷洋子
スポーツビジネスコンサルタント
スポーツビジネスプロデューサー
地域づくりアドバイザー
http://www.sports-21.com
mail@sports-21.com
同じデザインが長く続いたので、気分転換で変えてみました。
(ちょっとあっさりしすぎですが。)
今日は「日本サッカー文化を育てる会」の第6回準備会でした。
といっても、この「会」について知っている方は殆どいないと思います。
ここで紹介するのも、初めてです。
昨年5月以来、定期的に開催しています。
「サッカー」をサカナに楽しく語り合おうという会です。
今日の講師は坂田信久さん。
元日本テレビスポーツ局長、元東京ヴェルディ社長、現在は国士舘大学教授です。
「テレビは高校サッカーをどう変えたのか」がテーマ。
スポーツジャーナリストの白髭隆幸さんに「聞き手」をお願いしました。
白髭さんは、30年以上にわたって高校サッカーを取材されています。
私が坂田さんとに初めてお会いしたのは、1980年ごろだったかと思います。
いい加減な人が多いテレビの世界で、
坂田さんは誠意を持って仕事に取り組まれるテレビマンでした。
その後、ヴェルディの社長になられた時にはJリーグ理事も務められ
理事会でご一緒しました。
(現在はJリーグのマッチコミッショナー委員長でもあります。)
さて、お正月の「全国高校サッカー選手権」は、
坂田さんの奔走で現在のような確固たる大会になったのですが、
お話の中で印象に残ったエピソードの一つが、坂田さんの学生時代の体験談です。
1960年。東京教育大学(現筑波大学)サッカー部に在籍されていた時に、
クラマーさん(※)の指導を受られたそうです、
※サッカーに詳しい方には今更、説明する必要はないと思いますが、
旧西ドイツ出身で、日本サッカーの恩人ともいえる人です。
東京五輪の強化に取り組む日本代表を指導するために来日していたクラマーさんが
大学に指導にこられました。
サッカー部員といえども、学生のほとんどは卒業後は教員を目指しています。
そんな学生達にこんなことをいわれたそうです。
「教育者として子ども達を指導することも大切だが、報道も大切だ」。
そして、ミュンヘンの片田舎に生まれた“サッカーの天才少年”について話しました。
その天才少年が試合で活躍し、翌日の新聞にその様子が掲載され、
本人はとても喜びました。
「今は誰も知らないだろう」といって、天才少年の名前を書きました。
「フランツ・ベッケンバウアー」。
ベッケンバウアーはその後、ドイツを代表する選手・監督として実績を残し、
2年前のドイツのワールドカップでは責任者として大会を成功に導きました。
そんな彼の少年時代を励ましたのが、一つの新聞記事だったということです。
坂田さんが教職でなくテレビ局への就職を希望したのは、
クラマーさんのこの話がキッカケとなっています。
「日本の報道は遅れている」と指摘されたそうです。
坂田さんは日本テレビで高校サッカー、トヨタカップと、
サッカー中継番組の基礎を作りました。
偉大な指導者とは、何を基準に評価するのでしょうか。
スポーツでいえば、いくつタイトルを取ったか、
あるいは何人の優秀な選手を育てたかが、物差しとなるでしょう。
しかし、さらにもう一つの物差しがあると思います。
どれだけの人に影響を与えたか―。
その分野が多様であるほど、偉大な業績といえます。
日本のサッカーの礎を築いたクラマーさんが、
テレビの世界にも大きな影響を与えたことを、初めて知りました。
坂田さんは、クラマーさんに指導を受けている当時の写真を、披露してくれました。
「クラマーさんにあらためてサインをしてもらったんです」。
半分、恥ずかしそうに、半分、誇らしげに。
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【株式会社スポーツ21エンタープライズ】
代表取締役 三ッ谷洋子
スポーツビジネスコンサルタント
スポーツビジネスプロデューサー
地域づくりアドバイザー
http://www.sports-21.com
mail@sports-21.com