三ツ谷洋子のスポーツ21・ブログ

Jリーグ開幕前から理事として17年間かかわったスポーツビジネスコンサルタントの三ッ谷洋子が日々の話題を取り上げます。

Jクラブ 黒字経営の極意

2005年12月13日 | 2005年
前回のコラムから半年近くがたってしまいました。
定期的に読んでくださっていた方にはお詫びします。

このブログは12月に、私が代表を務めるスポーツ21エンタープライズの
ホームページ
の「コラム」欄から引っ越してきました。
ホームページの内容の再点検と修正・充実の作業にかなりの時間がかかり、
コラムも休眠状態でした。

これからは、皆さんのご意見やご感想もこのブログを通してうかがうことが出来ますので、
お気軽にコメントをお寄せください。さて、ブログ初のコラムです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Jクラブ 黒字経営の極意

「ウチはそんなに早くJ1に上がらなくたっていいんですよ」
いつもそんなことをいっていたJクラブの社長がいました。
「クラブが赤字なんて、信じられないよね。入ってくる金と出て行く金を計算すれば、
どうすればいいかなんて、小学生でもわかりますよ」。

赤字であえぐクラブの話題になると、「こんなに簡単なことがわからないのかね~」と、
会議の後でよく私に話しかけてきます。
ヴァンフォーレ社長の海野一幸さんです。

山梨日日新聞の政治記者時代は、金丸信の番記者という
花形の新聞記者の経験を持っています。
私も新聞記者出身ということもあり、また共通の友人がいるという気安さもあって、
そんな本音をよく語ってくれます。

その海野社長率いるヴァンフォーレが、10日の入れ替え戦2戦目で
ついにJ1昇格を決めました。
柏レイソルを相手に、アウエーでも堂々と戦って、6-2で圧勝。
「J1なんて、まだまだ」といっていた海野一幸社長の嬉しそうな表情が
目に浮かびます。

私の会社では、スポーツビジネスの様々なテーマを研究する企業対象セミナー、
「マーケティング研究会」を定期的に開催しています。
9月の例会で講師にお招きしたのが、海野社長でした。

私はJリーグの理事をしているので、理事会の監事である海野社長とは毎月1回、
顔を合わせています。

赤字だったクラブをどのように再建したのか。
そんな経営の舞台裏について講演をお願いしたところ、
快諾していただきました。

お話の中で最も印象に残ったのは、サポーターにまつわるエピソードです。
ヴァンフォーレはJ2入りしたものの、最下位の成績が続き、観客動員数も最低で低迷。
4年間の赤字は6億2千万円にもなりました。

そんなクラブを整理するために送り込まれたのが海野社長でした。
しかし、その社長はクラブの整理ではなく、再建に舵を切り直したのです。
そのきっかけは、サポーターが集めた3万人の署名でした。

「ヴァンフォーレがつぶれたら、甲府にプロは二度とできない」。
その重みを胸に倒産を回避すべく、知恵を絞り経費を抑え、
企業には「その会社ができることをしてもらう」という考え方で支援を取り付けました。

地元の小さな商店に150万円で看板を出してもらうのは難しい。
その代わり、クリーニング屋さんにはユニフォームの洗濯、美容院にはヘアカット、
ホテルには風呂の利用と、それぞれのサービスを無料提供してもらうのです。

金銭的な出費が伴わないのであれば、企業も協力しやすくなります。
こんな温かい地域のバックアップを、株主である山梨日日新聞が紙面で伝えます。
協力企業はパブリシティを通じて企業イメージを上げ、
メリットを得ることができるというわけです。

「ウチは身の丈経営。チームも一歩ずつ着実に強くなってくれればいいんですよ」。
大企業のない地方都市の小さなクラブが、着実な経営とチーム作りで
巨大企業が支援するクラブが割拠するJ1の仲間入り。
強豪ぞろいの大海にに漕ぎ出した小さな船の舵取りは、容易ではないと思われます。

「でも、この仕事は本当にやり甲斐があるんですよ。
手応えが直接、感じられる仕事なんてそうそうないですからね。
今は誰にもこの仕事を渡したくないですね」と海野社長。

赤字にあえぐJのクラブやJを目指す各地のアマチュアチームにとって、
ヴァンフォーレの経営は今や新たなJリーグのビジネスモデルとして注目され、
高く評価されています。

株式会社スポーツ21エンタープライズ  代表取締役 三ッ谷洋子
  スポーツビジネスコンサルタント
  スポーツプロデューサー
http://www.sports-21.com mitsuya@sports-21.com
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2005年6月30日 川淵さんの夢の原点

2005年12月07日 | 2005年
川淵さんの夢の原点

6月中旬、「Jリーグ役員ツアー」でコンフェデレーションズカップの応援と、
ブンデスリーガのクラブ視察にいってきました。

大会結果については皆さんご存知のように、日本代表はギリシャに勝ち、
ブラジルを同点にまで追い詰めて、確実に強くなっていることを証明してくれました。
仕事を放り出してでかけた意味もあろうというものです。

今回のツアーで、日本代表の応援に劣らず私が関心を持っていたのが、スポーツクラブ視察です。
訪問したのは「VfB シュトゥットガルト」と「ボルシア・メーヒェングラートバッハ」。
「シュトゥットガルト」はIBMヨーロッパの社長をしていたシュタウト氏を会長に迎え入れ、
経営基盤の強化に取り組んでいます。

「クラブはお金を生む"機械"でなければならない」というコメントが印象に残りました
同クラブ出身のブッフバルト(現浦和レッズ監督)が帰省中で、鈴木チェアマンほか、
J1、J2クラブの社長が訪れたということで、顔を見せてくれました。

もう1つの「ボルシア・メーヒェングラートバッハ」は、
1970年代にバイエルン・ミュンヘンと2強をなした栄光の歴史を持っています。
この6月から京セラが大口スポンサーになったとのことで、
スタジアム看板や選手のベンチなど、いたるところに京セラのロゴマークが貼り付いていました。

しかし今回、最も深く印象に残ったのは、ツアーから離れて列車で出かけたデュイスブルクです。
10年以上も前、当社主催のマーケティング研究会「第88回例会」で、
講師をお願いした川淵三郎チェアマン(当時)の話に出てきた地名です。

1960年。川淵さんは現役の選手で、4年後の東京五輪に向けて日本代表として
デュイスブルクの"スポーツシューレ"で合宿をしました。
「そこは天然芝のグラウンドが何面もあって、トップ選手だけでなく、
近所のお年寄りと子供が楽しそうにサッカーをしていました」

"スポーツシューレ"とは、ドイツ語では「シュポルトシューレ」。
「シューレ」は「スクール」の意味ですが、「シュポルトシューレ」はスポーツ指導者の研修センターで、
宿泊施設もありトップチームの合宿施設としても使われています。

当時の日本は、トップ選手の練習場でさえ小石がころがっている土のグラウンド。
それが西ドイツでは、一般の人たちも芝のグラウンドで楽しそうに遊んでいる・・・。
川淵さんは日記に「ここで約1週間練習するのかと思うと、興奮してなかなか眠れなかった」と
記したそうです。

そんな夢のような環境を実現する機会が訪れました。Jリーグの創設です。
各地のクラブの施設には、芝生のグラウンドで老若男女がスポーツを楽しんでいる・・・。
Jリーグを通して日本に実現しようとした川淵さんの「夢」の原点が、
このデュイスブルクなのです。

Jリーグの創設から理事としてかかわってきた私としても、
かねてから川淵さんの夢の原点を自分の目で確かめたいと思っていました。

デュイスブルクの駅からタクシーで10分ほど。
「スポーツシューレ」の建物の中に入って「中を見せていただけますか」と事務所の女性に声をかけると
「10人のグループなら、施設を案内しますよ」とのこと。
残念ながら私は、あるJクラブの社長と2人だけだったので、案内なしに見学だけさせてもらいました。

事務所棟から施設内に入ると、目の前にはサッカー6面、ホッケー1面の芝のグラウンド。
土の練習場しかなかった45年前の川淵さんの感動をなぞるように想像しながら、ゆっくりと見て回りました。

Jリーグ開幕前。日本には芝の練習場はありませんでした。
現在では各クラブのほか、2002年のワールドカップの際に外国チームの合宿招致をした自治体、
サッカー合宿を目玉にしているホテルや旅館などをあわせると、芝のサッカーグラウンドは
少なくとも100以上はあるのではないでしょうか。(申し訳ないのですが、調べきれていません。)

45年前、たった1人の人間が抱いた「夢」が実現して、社会が大きく変わる。
それを、改めて実感した訪問でした。

私たちがデュイスグルクを訪れた翌日、川淵さんがここを再訪したと共同通信は伝えています。
ご無沙汰している川淵さんに「私も行ってきました」と、久しぶりに手紙を書いてみようと思います。

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2005年5月21日 ディナモ・キエフ

2005年12月07日 | 2005年
ディナモ・キエフ

「ディナモ ナチスに消されたフットボーラー」(アンディー・ドゥーガン著)というタイトルの
ノンフィクション小説が昨年、出版されました。
最近、いくつかの新聞や雑誌の書評欄で取り上げられています。

話の舞台は旧ソ連・ウクライナの首都キエフ。
私はまだ読んでいないのですが、紹介記事によるとこんな内容です。

1942年にキエフを占領していたナチス・ドイツ軍が、
「ディナモ・キエフ」のサッカーチームと試合をすることになりました。
結果は1-5でディナモ・キエフの勝ち。
これではサッカー先進国であり、占領軍であるドイツの面子が立ちません。
ドイツは再試合を申し入れます。

他のドイツ軍宿営地から選手を補強し、レフェリーも味方につけ、
圧倒的に有利な条件を整えました。しかし、またも3-5で敗れてしまいます。
そして、勝利したディナモの選手たちはドイツ軍に逮捕され、
強制収容所送りになってしいます。

勝ったチームの選手が、負けた国に逮捕されるなどということが起こるのも、
戦争という異常事態だからでしょう。

このあらすじを読んで、ソ連という国がまだ健在だったころのことを思い出しました。
もう27年も前のことです。1980年の「モスクワオリンピック」を控え、
開催準備に取り組んでいるソ連の取材に出かけました。

当時のソ連は、米国と並ぶスポーツ大国。
オリンピックのたびに大量のメダルをさらい、
国際試合では日本の前にはソ連が立ちはだかっていました。

ソ連はなぜ、そんなに強いのか。
「選手たちが、国家に生活を保障されたステートアマだから」というのが
当時の新聞記事に見られる一般的な分析でした。
では、企業に生活を保障されている日本の選手は、恵まれていないのでしょうか。

ソ連のステートアマの実態を知りたいという、素朴な好奇心もありました。
訪れてみて分かったことの1つは、スポーツが他の文化や芸術活動と同列の位置付けにあり、
プロパガンダの役割を担っているということでした。

だからこそ国際舞台で活躍した選手は、社会主義国の優位性を世界にアピールしたとして
高く評価されたのです。

12月中旬。初めてのソ連は凍りつき、カメラを持つ手が寒さで固まりました。
10日ほどの取材日程は全てソ連のノーボスチ通信社が準備したもので、
私はモスクワからレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)を経由して、
キエフに着きました。

オリンピックがらみの取材といっても、大会は2年後なので施設はまだ建設の途中。
ソ連のスポーツは、エリート選手の世界だけでなく、
社会主義を推進する労働者のスポーツクラブも充実していました。
その代表的なクラブの1つとして訪れたのが「ディナモ・キエフ」でした。

クラブハウスの周りには、サッカー場やテニスコートが並んでいたように記憶しています。
施設を見学したあと、出口付近にある1つの石碑が目に入りました。
3~4人のサッカー選手がボールを蹴っている姿が、レリーフになっています。
「これは何の記念碑ですか」。同行のロシア人記者は私の質問に対して、
1つのエピソードを話してくれました。
それが、まさに文頭で紹介した本の内容と同じものでした。

ただ1つだけ違いがあります。
「勝ったディナモの選手たちは全員、殺されてしまったのです」
返す言葉がみつかりませんでした。

「しかし、その結末は旧ソ連のプロパガンダ。本当は何人かが生き残っていた」
この事実が今回、新たにノンフィクション小説で明らかにされているそうです。
「真実とは何か」。しばらく忘れていた言葉が、私の中によみがえりました。

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2005年4月15日 「2度目の人生」を支援する

2005年12月07日 | 2005年
「2度目の人生」を支援する

年度が改まり、新たな環境で生活を始めた方もいらっしゃることでしょう。
スポーツ選手にとって、現役引退は人生最大の転機です。
それまでかかわっていたスポーツの世界で、
指導者などとして残れる人は限られています。

運良く残れたとしても、一般の会社に就職するのとは異なり、
単年度契約が多く、長期的な生活を安定させることは
なかなか難しいのが現状です。

「広岡だって大変なんだよ」。20年ほど前のこと、
ある会社の副社長がこう話していました。
広岡とは現プロ野球解説者、広岡達朗さんのことです。

ヤクルトの監督を辞めて、テレビの解説をされていた頃です。
「テレビ解説の仕事だって、将来を保障されているわけではないんだから。
三ッ谷さんの会社で、辞めた選手や監督のマネジメントをしてみたら?
仕事になるはずだよ」

その副社長は、広岡さんの親戚に当たる人です。
紹介をもらって連絡をとりましたが、結局、
こちらの対応が物足りないと思われたのか
仕事として具体化することはできませんでした。

最近では、サッカーの中田英寿選手などを抱える
サニーサイドアップのようなマネジメント会社が出てきて、
本格的なマネジメント業が成立しているようですが、
そんな会社と契約できる選手は、実際にはごく少数です。

ほとんどの選手は自分で第2の人生を切り開かねばなりません。
選手寿命の短いサッカーでは、将来そんな環境に直面する選手のために、
Jリーグが現役選手を対象にした「インターンシップ」(職場体験)を、
毎年、実施しています。

Jリーグキャリアサポートセンターが窓口となり、
受入れ企業と選手の間を取り持っています。
1年目の2002年には応募選手はゼロでしたが、
今年は13人が普段のユニフォームを脱いで、職場体験をしました。

「サッカースクールの指導」「プロダクションマネジャー」
「フレンチレストランのサービス・キッチン業務」などのほか、
「農業」を体験した選手もいました。

水戸ホーリーホックの小椋祥平選手(19歳)です。
「パプリカの収穫・出荷作業」「サツマイモの加工・干しイモ作業」で
3日間を過ごしました。

高校の時から農業に興味があり、若いうちからいろいろな経験を
したかったそうです。「オフの貴重な時間を使うけれど
無駄にならないし、いい経験ができた」と語っています。

「そんな時間があったら、ボールでも蹴ってろ」と
昔風の指導者なら叱っていたかもしれません。
しかし、現役選手として、さらにはいつか引退する選手として
こうした経験は大きな財産になるはずです。

Jリーグのこの取り組みは、広く他の日本のスポーツでも
真似してほしい事業だと思っています。

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2005年3月15日 ケネディ大統領とウオーキング

2005年12月07日 | 2005年
ケネディ大統領とウオーキング

「何かスポーツをされていますか」と、よく聞かれます。
「いえ、口だけです」。つまり日常的にはスポーツを語るばかりで、
実践とは程遠い毎日を過ごしているのです。

そんな私ですが、年に数回、友人に誘われて15キロとか20キロの
ウオーキングに出かけています。
秋は、東松山市で開催されるスリーデーマーチに「ただ乗り」し、
登録参加者のような顔をして沿道に設けられたサービステントで、
梨やお汁粉に舌鼓を打ちながら、仲間と楽しく歩いています。

この大会を主催している社団法人日本ウオーキング協会が昨年、
満40年を迎えました。以前は「日本歩け歩け協会」という名称でした。
3月に開催した小社の「マーケティング研究会:実戦ゼミ」で、
同協会専務理事の木谷道宣さんに、活動の歴史をうかがいました。

ここで詳しい内容をご紹介するスペースはないのですが、
1つだけ印象に残ったことをお伝えします。
団体設立のキッカケとなったエピソードです。

1963年のこと。早稲田大学の学生5人が米国大陸6千キロを
徒歩で横断しました。小田実の「何でも見てやろう」という本が出て、
若者たちが著者のように、少ない資金で海外旅行をすることに憧れた時代でした。

彼らは司法長官だったロバート・ケネディに面会し、
兄のジョン・F.ケネディ大統領が、国民の体力増進のために
「50マイル運動」を提唱していたことを知りました。

ケネディ大統領はその3年前に、米国のスポーツ・イラストレイテッド誌に
"Soft Amerian"(軟弱なアメリカ人)という論評を発表していました。
その背景には1957年の"スプートニク・ショック"があります。

ソ連が人類史上初の人工衛星スプートニク打ち上げに成功したことで
先を越された米国では、それまでの自国の教育を見直す動きが出てきました。
宇宙開発競争でソ連に敗れた原因は、「中学や高校の科学や数学の教育が不備であり
体育やスポーツのような活動は、大幅に削減すべきだ」という主張です。

カリフォルニア州では、小学校から大学2年生まで必修となっていた体育を
全面的に縮小させる方向にありました。
その動きにストップをかけたのが、ケネディ大統領のこの論評でした。
米国の若者の体力低下を何とかして食い止めなければという意図がありました。

学生たちがそんなケネディ大統領の話を聞いて帰国した翌年の1964年、
10月に東京でオリンピックが開催されました。
大会開催中の10月17日、早稲田の学生の呼びかけに応じて
200人が神宮外苑の絵画館前に集まり、都心を歩きました。

その後、毎日曜日に「歩く会」が行なわれ、
14年後の1978年には、第1回のスリーデーマーチがスタートしました。
参加者1800人。2002年の第25回大会では、第1回の60倍にもなる
11万の人々が、ウオーキングを楽しみました。

ケネディ大統領の先見性と学生たちの行動力が、
現在の日本のウオーキング隆盛につながったのです。

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2005年2月15日 スポーツ博物館が伝えるもの

2005年12月07日 | 2005年
スポーツ博物館が伝えるもの

昨年、アテネオリンピックの視察の際に、滞在していたギリシャのテッサロニキで、
「スポーツ博物館」を見学しました。

「スポーツ博物館」は、私が興味を持っているテーマの1つです。
海外で初めてスポーツ博物館を見学したのは、1978年のことです。
モスクワオリンピックの2年前のことで、
「社会主義で行なわれる初めてのオリンピック」の準備状況を取材した時に、
モスクワのルージニキー・スタジアムでたまたま見つけました。

大時代的な展示スタイルは、国際舞台で活躍したスポーツマンを
国家をあげて称えているという印象でした。
社会主義国・ソ連にとって、スポーツは強力なプロパガンダの1つであり、
スポーツ博物館は市民にそれを強くアピールする場でした。

モスクワオリンピックの次のロサンゼルスオリンピックでは
「アフロアメリカン・ミュージアム」に足を運び、
「白人文化でないもう1つのアメリカ」の存在を強く感じました。

黒人文化を伝えるミュージアムのテーマは、
開会中のオリンピックに連動させた「スポーツ」でした。

オリンピックの歴史コーナーには、ベルリン大会(1936年)の陸上競技で
4つの金メダルを獲得して英雄となったジェシー・オーエンス、
ローマ大会(1960年)のボクシング・ライトヘビー級で優勝し、
後にプロとして活躍したカシアス・クレイことモハメッド・アリ。
米国のスポーツを牽引してきた黒人選手たちがキラ星のように並ぶ様子は、壮観でした。

さて、オリンピック発祥の地ギリシャのテッサロニキ・スポーツ博物館はどうでしょうか。
大会直前にオープンしたばかり。ワクワクしながら入口をくぐりました。
市民にはまだあまり知られていないようで、入館者はまばらでした。

天井が高く明るい部屋には、ギリシャ・サッカーリーグの各クラブのウエアが
カラフルに並んでいます。そして、ひときわ目立つ位置に、
オリンピック直前に終わったヨーロッパ選手権の優勝杯と
ギリシャ代表チームのウエアが誇らしげに飾られていました。

その他の展示は、ナショナルチームの歴史を写真などで紹介したもの。
それほど古いものはありませんでした。。
ギリシャといえば、古代オリンピックという人類の遺産を持つ国。
無意識に「壷に描かれた選手の像」などを期待していたのですが、
展示物はここ1世紀以内のものばかりでした。

でも、よく考えてみると当たり前なのです。
サッカーというスポーツは、古代オリンピックでは行なわれていませんでした。
中世のヨーロッパでは、村ぐるみでボールを奪い合うスポーツがありましたが、
今のようなサッカーは19世紀半ばに生まれたのです。

肩透かしを食ったような気分で出口に向かうと、
チケット売り場の若いスタッフが、「サッカー展」のポスターをくれました。
歴史の重みをあまり感じられなかったせいか、
折角くれたポスターにも興味が湧かず、今は本棚の上でホコリをかぶっています。

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2004年12月31日 スポーツで食べていく

2005年12月07日 | 2004年
スポーツで食べていく

2005年は社会に出て35年目、会社を設立して25年目を迎えます。
私は新聞記者として仕事をスタートし、
フリーランスのスポーツジャーナリストとなり、
現在はスポーツビジネスのコンサルティングを業務とする
「スポーツ21」を経営しています。

新聞社を退社した後も私がスポーツに拘ったのは、
ほとんどライバルがいない分野だったからです。
当時、「スポーツライター」はいませんでした。

新聞社を辞めて執筆業をしていても、肩書きは皆「フリーライター」。
スポーツのテーマだけでは食べられなかったからです。
スポーツ総合誌ナンバーも出ていない頃のことです。

当時もスポーツ雑誌は出版されていました。
しかし、記事は新聞社の記者がアルバイトで書くのが一般的で、
原稿料もそれ相応のアルバイト料金でした。

これでは食べていけません。
私はペンだけで何とか食べていくために
「人がやらないこと」を目指しました。

当時、ソ連、東ドイツといった社会主義国が健在でした。
折りしも1980年のモスクワオリンピック前ということで、
オリンピックのたびに大量のメダリストを輩出する
社会主義国のスポーツ制度に注目しました。

それらの国にとって、スポーツは社会主義の宣伝手段です。
トップ選手は国の広告塔。
今の選手がスポンサー企業にとっての広告塔ですから、
それの国家版と考えれば分かりやすいでしょう。

ソ連と東ドイツにはモスクワオリンピックを含めて5~6回、行きました。
そして、私は社会主義国のスポーツについて
日本で最も詳しいジャーナリストになりました。

しかし、モスクワオリンピックでは、日本はアメリカに同調して
参加を見送ったこともあり、
社会主義国のスポーツという話題へのニーズは、
そう長くは続きませんでした。

仕事のテーマをスポーツビジネスに絞り込んだのは
こんな経験があったからです。
「スポーツと企業のかかわりは、21世紀には一層、緊密になるはずだ」
これが私の考えでした。

キーワードは「21世紀のスポーツビジネス」。
会社を作った25年前、21世紀は遠い先のことであり、
「スポーツビジネス」という言葉は日本では使われていませんでした。

会社として目指したのは、
スポーツ界とスポーツに関心を持つ企業の橋渡しをする役割です。
他の誰もがやっていないことでした。

近年、スポーツマーケティングや
スポーツマネジメントを専業とする企業が次々と誕生しています。
昨年は、早稲田大学にスポーツビジネス学科ができました。

「スポーツビジネス」という言葉が一般に定着した今、
「スポーツでどのように食べていくのか」は、
相変わらず私にとって大きな課題です。

株式会社スポーツ21エンタープライズ  代表取締役 三ッ谷洋子
  スポーツビジネスコンサルタント
  スポーツプロデューサー
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2004年11月30日 懲りない埼玉

2005年12月07日 | 2004年
懲りない埼玉

日本最大のサッカー専用スタジアムは、
63,700人収容の「埼玉スタジアム2002」。
東京の国立競技用より一回り大きい施設です。

2年前のワールドカップの時は、
日本の緒戦となったベルギー戦ほか4試合が行われました。
最寄駅は徒歩で15分ほどの埼玉高速鉄道の浦和美園駅で、
東京都心からの地下鉄南北線に接続しています。

私も埼玉の試合ではこれを使いますが、試合当日は大変な混雑ぶりです。
この埼玉高速鉄道は目下、大赤字だそうです。
浦和美園駅の周りは店もなく、試合日を除けば閑古鳥。
採算を取るのが難しそうだということは、素人でも想像がつきます。

先日テレビで、経営再建にまつわる話題が取り上げられていました。
番組では製作スタッフが「一体、赤字の責任は誰が取るのか」と、
関係者を手当たり次第に聞き回るのですが、
「計画当時の責任者はいない」「私は後からきた」等という返事ばかりで、
責任ある回答はどこからも得られません。

結局、行政システムの欠陥だけが浮き彫りになる結論でした。
埼玉県には大型スポーツ施設として前述の「埼玉スタジアム2002」と、
「さいたまスーパーアリーナ」があります。

バブルの時代に計画された豪華施設で、「アリーナ」というよりは
「スタジアム」を屋根で覆った巨大屋内施設。
スタジアムサイズで、サッカーもアメフトもできます。
しかも、壁を内側に70メートル移動させるという特殊装置付きです。

最大37,000人、最小6,000人のイベント対応ができます。
バレーボールやバスケットボールなどにも最適サイズにするために
このような設計になりました。

この2つの巨大スポーツ施設の建設費を合わせると、何と1千億円。
建設費の高さで物議を醸した新宿の都庁舎も、1千億円でした。
「スーパーアリーナ」では、平成15年度からの3ヵ年計画で
県の委託料を貰わないで済むような経営方針を打ち出しています。

しかし、「スポーツ大国・アメリカ」の施設運営を見ても明らかなように、
巨大スポーツ施設を黒字運営にすることは、至難の業なのです。
私は「赤字施設を壊して、駐車場にして収益を上げろ」などという
文化不毛の意見に組するつもりは全くありません。

しかし最近、埼玉県が「第2東京タワー」の誘致を
熱心に推進しているということを知り、疑問を持ちました。
「パリにはエッフェル塔、東京には東京タワー」ならば埼玉にも。
これが上田知事の考えだそうです。

知事が代替わりしても、相変わらずのハコモノ行政が続いているようです。
東京にも無いような大型サッカー専用スタジアムと巨大アリーナを持つ埼玉県。
これでも、まだ足りないのでしょうか。

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2004年10月20日 「スポーツ界の黒幕」の進退

2005年12月07日 | 2004年
「スポーツ界の黒幕」の進退

この前まではプロ野球1リーグ制の推進で、
現在は西武鉄道の経営の不透明さで注目されている堤義明氏。
彼が「スポーツ界の黒幕」であることは周知の事実です。

あまり"暴露記事"的な言葉は使いたくないのですが、
いわゆるアマチュアスポーツ界と呼ばれる世界で、
堤さんの存在はまさに「黒幕」。
影響力の大きさからずっと注目してきました。

「黒幕」でも結構なのですが、問題は堤さんが自らの事業拡大のために
スポーツを最大限に利用し、スポーツの健全な発展を阻害してきたことです。
15年前、私は雑誌「財界」で6ページにわたって
彼の姿勢を糾弾する記事を書きました。

「日本のアマ・スポーツを制覇する堤義明の野望」というタイトルです。
(編集部がつけたこのタイトルは、三流週刊誌のようで好きではないのですが・・・。)

この記事を書くにあたり直接、話を聞こうとインタビューを申し入れたのですが
断られ、私は過去の新聞記事や関連書籍に目を通し、
堤さんの関連企業で仕事をした人たちに取材しました。

そこで得た堤さんのイメージは「スポーツに何の愛情も持っていない
19世紀の資本家のような事業家」というものでした。
もともとスポーツ団体とは接点がなかった堤さんですが、
昭和45年、日本スケート連盟の「副会長」というスポーツ界の肩書きを、
初めて手に入れました。

当時の日本スケート連盟の会長は竹田恒徳氏です。
竹田さんは昭和天皇の従兄弟で、海外では「プリンス・タケダ」と呼ばれ、
IOC(国際オリンピック委員会)委員なども歴任し、
内外のスポーツ界に多大な貢献をした方です。

現在のJOC(日本オリンピック委員会)会長である竹田恒和氏は
ご子息です。高輪プリンスホテルは竹田家の土地に建っており、
プリンスホテルは堤さんのグループ企業の1つです。

私がここで指摘したいのは、ビジネスがらみの人脈でスポーツ界に
乗り込んできたという手法ではなく、
自らのビジネスのためにスポーツを私物化してきたことです。

たとえば、長野の冬季五輪招致にかかわる疑惑は、まだ解明されていません。
「五輪招致で儲かったのは堤さんの会社だけ」という"噂"は
説得力があります。

4年前、JOCの理事会で疑惑を取り上げた理事は、解任されてしまいました。
私は当時、JOCの事業部会の委員でした。
会議で「JOCはこの疑惑についてきちんと説明すべきだ」と発言したところ、
翌年の委員改選でクビになりました。

スポーツに愛情の片鱗も示したことの無い事業家に、
いつまでもすがりつく日本のスポーツ界の人を見ると情けなくなります。
プロ野球と同様、会議にはほとんど出席しないにもかかわらず
JOCの人事については大きな影響力を発揮してきました。

株式会社スポーツ21エンタープライズ  代表取締役 三ッ谷洋子
  スポーツビジネスコンサルタント
  スポーツプロデューサー
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現在のJOCの肩書きは、文字どうりの名誉職であるべき「名誉会長」。
これをいつ、どのように返上するのか、シッカリ見届けたいと思っています。
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2004年8月31日 アテネオリンピックで見たスポーツマン像

2005年12月07日 | 2004年

アテネオリンピックで見たスポーツマン像

オリンピックが終わって、テレビが面白くないですね。
私は「Jリーグ役員アテネオリンピック視察」に参加して、
8月10日から10日間、ギリシャに行ってきました。

「うわ~、うらやましい~。開会式はアトランタやシドニーに
比べて断然よかったよね。それに柔道の柔チャンも水泳の北島も
凄かった。体操も復活したし、女子レスリングに女子マラソン・・・」
だれもが、今回の日本選手の活躍を自分の身内の手柄のように喜んで
会話が弾みます。

Jリーグの理事として参加したツアーの滞在地は、
アテネから飛行機で1時間弱のテッサロニキという
エーゲ海に面した美しい町でした。

ギリシャ第2の都市とはいうものの、300ページの旅行ガイドでも
たったの4ページという扱いで日本人には馴染みがなく、
試合の日以外は日本人観光客にほとんど会いませんでした。

直接、会場に足を運んで応援したのは、
サッカーの男子3試合、女子2試合。
そのうち3試合の会場は、
テッサロニキから215キロも離れたヴォロスという町でした。

試合開始は早いときで夕方6時、遅い試合では8時半です。
バスで往復すると6時間以上かかり、ホテルにもどるのは夜中という
こともありました。

テッサロニキでのオリンピックの試合はサッカーだけ。
ほかの競技は部屋のテレビを見るしかありません。
英語で放送しているユーロチャンネルのニュースで、
「水泳・北島金メダル」のシーンを少しだけ見られた程度です。

日本のテレビではないので優勝後のインタビューもなく、
「チョー気持ちいい~」などという若者らしいコメントを発したことは
帰国してから知りました。

サッカーの男女の結果は皆さんご存知の通りで
男子は予選敗退、女子はベスト8でした。
世界のレベルの高さを痛感させられたわけですが、
アジア予選の劇的な試合ぶりが、実力以上の期待を
抱かせてしまったかも知れません。

「視察報告」が長くなってしまいました。
今、オリンピックを振り返ってみて、
最も印象深い出来事を1つ挙げるとすると何かを、
ここ数日ずっと考えていました。

その結論は「ハンマー投げの室伏選手」。
金メダリストのアヌシュ選手がドーピングでひっかかり、
銀の室伏選手が繰り上げで優勝となりました。

IOC(国際オリンピック委員会)からこの結果を聞いた後の記者会見で、
室伏選手は記者たちに1枚の紙を配りました。
古代ギリシャの詩人、ピンダロスの詩を日本語に翻訳したもので、
銀メダルの裏に書かれていたそうです。

真実は神が知っているという内容の詩でした。
新聞に掲載された写真には、室伏選手直筆の詩の翻訳が載っていました。
力強く整った文字は、精神力の強さと真実を求める真摯な姿勢が感じられ、
私の目はその詩に吸い付けられ、何度も文字の上を行き来しました。

現役のトップ選手で、古代ギリシャの詩を持ち出した選手は、
恐らく外国選手を含めて、室伏選手だけではないでしょうか。

現代スポーツの恥部であるドーピングという問題を通して、
室伏選手に気高いスポーツマン像を見出すことができたことは、
私にとってアテネオリンピックの大きな収穫でした。

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2004年7月30日 10年前の感動

2005年12月07日 | 2004年
10年前の感動

1994年7月。
私はサッカー・ワールドカップ観戦のため、アメリカに滞在していました。
Jリーグが、爆発的な人気を呼んでスタートしたのは、この前年のことです。

日本サッカー協会が2002年のワールドカップ招致を決め、
Jリーグは、日本代表選手を輩出する各クラブにもワールドカップを
理解してもらおうと、役員ツアーを実施しました。

私は理事として川淵チェアマン(当時)や各クラブの社長とともに、
準々決勝から決勝までを観戦し、
初めて「オリンピックより凄いワールドカップ」を体験しました。

スタジアムでは、サポーターとは少し様子の違う、
いくつかの日本人の団体に会いました。
その多くは、2002年の大会会場地として立候補している
自治体関係者や地元の議員だということでした。

大会を通して、何百人もの関係者が訪れたことが想像されました。
日本の役所というところは、担当者がその持ち場を
2年ほどで異動するのが通例となっています。

8年先の大会時に、この中の何人が残っているのだろうか。
あの人たちは、本当に日本のサッカーの発展を考えているのだろうか。
Jリーグ人気の尻馬に乗って、公費で楽しみに来ているだけではないのだろうか。
私は、そんな疑惑の混じった冷たい目でその人たちを見ていました。

決勝は、9万人の観客で埋まった満員のローズボウル・スタジアム。
ブラジル対イタリアの決勝で、世界一の大会の素晴らしさに感動していたのは、
そんな日本人ばかりではありませんでした。

神社の宮司であり、学校法人の経営者でもある池田弘さんは、
日本でもスタジアムを満員にしてこんな雰囲気が作れれば、
多くの人がサッカーを見に来てくれるだろうと、確信しました。

それから2年後、アルビレックス新潟が設立され、
池田さんは社長になりました。
今シーズン、チームはJ2からJ1に昇格しました。

ファーストステージの成績は振るいませんでしたが、
J2だった昨年と同様、ホームでは毎回4万人の観客を集め、
Jリーグ最高の数字を誇る「モデルクラブ」となっています。

プロスポーツ不毛の地とも呼ばれていた新潟で、子供たちからお年寄りまで
熱狂的な人気を集めているアルビレックス新潟。
10年前のアメリカでの1人の感動体験が、
今、新潟で何十万もの人々の感動につながり、心を捉えています。

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2004年6月30日 スポーツとまちづくり

2005年12月07日 | 2004年
スポーツとまちづくり

このサイトを見ていただいた方にはお分かりかと思いますが、
私は、「スポーツ施設はまちづくりの視点から考えるべきだ」と
言いつづけてきました。

人間の日々の生活や行動は、本能や習慣に大きく左右されています。
たまたま空いている土地に施設を造っても、そこが地域の人たちにとって
日常生活圏の中になければ、なかなか足が向かないものです。

これまでの日本の公共スポーツ施設を見ると、
場所の選定については、それほど神経を使っているとは思えません。
施設計画で一番大切なのは「どこに造るか」です。

ところが地方自治体が建設するケースで首長が最も関心を示すのは、
施設の規模なのです。
2002年のサッカー・ワールドカップの決勝会場となった
横浜国際総合競技場は7万人収容。

1千万都市・東京のど真ん中にある国立競技場より大きいのです。
「では、ウチは10万人スタジアムだ」といっていたのが、かつての川崎市長。
隣の横浜市には負けたくないという意地が、この「10万人」に現れています。

場所は羽田空港の隣に位置する扇島でした。
東京湾横断道路のインターチェンジのところになるのですが、
「こんな場所に10万人ものサッカーファンが集まるのか?」

誰が考えても、無茶なアイディアでした。
結局、スタジアム建設計画は見送られましたが、
これは川崎市民にとっては幸いなことだったと思います。

スポーツ振興に役立てようと思うなら、その地域の身の丈にあった規模で
日常生活圏に建設することが大切なのです。
そして「仏」(ハード)の価値を高めるには、
「魂」(ソフト)を忘れずに入れることです。

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2004年5月31日 アイドルはバレーの救世主

2005年12月07日 | 2004年
アイドルはバレーの救世主

バレーボールのオリンピック予選、見ましたか?
出場権を獲得した女子の頑張りはすごかったですね。
チームを引っ張るキャプテン吉原の凛々しい表情は、とてもチャーミングでした。

男子は残念ながら、またもや五輪切符を手に入れることはできませんでした。
とはいえテレビ視聴率は男子でも平均17%で、
大会の裏番組となったプロ野球巨人戦の14%を上回る数字です。

人気を呼んだ理由の1つは、ジャニーズ事務所の
若手アイドルグループ・NEWSが「スペシャル・サポーター」に
起用されたことのようです。

10年ほど前、バレーボール人気はドン底の状態にありました。
視聴率を何とか上げようと工夫した結果が、アイドルグループの起用でした。

1991年、ワールドカップを独占放映しているフジテレビが
初めてジャニーズ事務所のV6を使って大会を盛り上げました。
その後、オリンピックなどの国際大会の中継に、
何も分かっていないようなタレントがぞろぞろと出てくるようになりました。

「何でスポーツ番組に、タレントやアイドルが出てくるの?」と
文句の1つもいいたくなる人は、少なくないでしょう。
「でも、好きかどうかは別にして、タレント起用がバレー人気の
起爆剤になったんですよ」と説明するのは、
ミュンヘン五輪の男子バレー監督だった松平康隆さん
(現日本バレーボール協会名誉会長)です。

5月のマーケティング研究会第167回例会は、
「アイドル起用のテレビ番組は、スポーツ振興に役立っているのか」のテーマで
松平さんを講師に招きました。

バレー人気が落ち込み、競技人口も減少していたバレーを救ったのが、
テレビ局のアイドル起用路線。
とにかく、より多くの人に見てもらうことが重要だとのこと。

「アイドルを見るついでにバレー、というのでもでもいい。
その中からファンが1人でも2人でも育ってくれれば」という考えです。

研究会の後、私は会員と一緒に久しぶりに生の試合を見ました。
今回の五輪予選はチケットの売れ行きもよく、会場の外にはダフ屋が出ています。
そして観客席を埋めていたのは、アイドル目当ての女の子ばかり。
まるで女子校に紛れ込んだような感じです。

私の右隣の席は女子高生の2人連れでした。
1つの双眼鏡をやり取りしながら「あっ、NWESがいる!」
「キャー、加藤選手だ!」とはしゃぎっ放しです。

応援グッズの使い方を聞いたりして、この2人と打ち解けたのですが、
第2セットが終わって私が席を立つと、
「えーっ、試合はこれからですよ。もう、帰っちゃうんですか」と、驚きの表情。

観戦していたのは、男子の日本対イラン戦。日本が2セットを先行されていました。
私としては「サッカーなら分かるけれど、なぜバレーでこんなスコアなの?」という
不甲斐ない気持ちでした。

しかし、それ以上に私を席から追い立てたのは、
スポーツ観戦にそぐわないティーンエージャーの女の子の異常な熱気と、
ロックコンサートばりの耳をつんざく大音量の音楽でした。

ミュンヘンの金メダリストを育てた松平さんは、
実感を込めて「期待される実感が、選手を育てるんですよ」といっていました。

途中で会場に空席を作ってしまったオバサンより、
どんなやり方にしても、最後まで観客席で歓声を上げていた女子高生のほうが、
選手を鼓舞していたことは確かです。

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2004年4月28日 Jリーグ理事の仕事

2005年12月07日 | 2004年
Jリーグ理事の仕事

「ジーコ、どうなの?」サッカー日本代表の苦戦が続くと、
こんな質問をしてくる友人・知人がどっと増えます。

「やっぱり監督実績のないジーコでは無理じゃない?
他の監督にしたらどうなの」と、言いたいようです。
私の答えはいつも同じです。
「Jリーグの理事には、日本代表の監督をうんぬんする権限はないの」

私は、1991年11月にJリーグ(正式には社団法人日本プロサッカーリーグ)が
設立されたときからの理事ですが、日本代表チームを管轄しているのは
Jリーグの上部団体である財団法人日本サッカー協会なのです。

子会社の役員が親会社のプロジェクトについて意見する権限がないように、
Jリーグ理事が日本代表の監督について公式に意見を述べる機会はありません。
では、いったいJリーグ理事はどんな仕事をしているんだ、と言われそうなので、
今回はその具体的な内容についてご説明しましょう。

メインの仕事は毎月1回開催される理事会に出席することです。
私の仕事は「スポーツビジネスコンサルタント」ですから、
その道のプロとして意見がないということは、あり得ません。

私は理事を引受けて以来、理事会では必ず質問や意見を述べることを
自分のノルマとしてきました。
川淵さん(現日本サッカー協会会長)がJリーグのチェアマンとして
最後の理事会に出席されたときは、
「三ッ谷さんのお陰で、スポーツ団体には珍しく
活発な意見の出る理事会を運営できた」と誉めてくれました。

今月(4月)の理事会では、大きな審議事項が2つありました。
「ジェフユナイテッド市原チーム名・呼称変更の件」と
「サガン鳥栖に対する経営支援の件」です。

このうち大半の時間が費やされたのは、ジェフ呼称の件でした。
「ジェフ市原」から「ジェフ千葉」に変更したいというのがクラブ側の提案です。
マスコミの注目度も高く、市原市長からは前日「チームから何の相談もなく、
憤りを感じている」という電話をもらいました。

理事会ではジェフの岡社長が理事でもあることから、
これまでの経緯についての詳細な説明がありました。
「ジェフはこれまで3年をかけて準備してきた」とのことで、
市長の話とは食い違っていました。

Jリーグ理事会としては、両者がもう少し時間をかけて
話し合う必要があるのではないか、ということで、
ジェフの要望を了承するまでには至りませんでした。

これはJリーグの理念にもかかわる問題でもあり、
議論は1時間40分にもわたるものでした。
続いて株主の問題でもめている鳥栖の案件などについて審議し、
最後に私が2つの提案をしました。

「Jリーガーは社会からの注目度も高く、子供たちへの影響も大きいので、
話し方や立ち居振舞いも含めて、社会人として最低限のマナーを
身に付けるような研修をして欲しい」ということが1つ目。

2つ目は、引退した選手への精神面でのサポートの必要性についてです。
Jリーグは、選手を対象に引退後の就職相談にのったり、
就職先を紹介するキャリアサポート・センターを持っています。

Jリーガーに限ったことではありませんが、
所属クラブから「必要ない」といわれた場合、
選手は自分の全てを否定されたような失望感や、
将来への不安感などに襲われ、
一般の人間以上に精神的に厳しい状況に陥ります。

引退した選手がスムーズに、選手としてではなく
1人の人間としてアイデンティティーを確立し、
新たな人生に踏み出せるようにサポートすることも
Jリーグとして見過ごしてはいけない大切な仕事だと思うのです。

一時期でもJリーグに身を置いた若者に対して、
引退後は勝手に生きていけというのでは、
あまりにも無責任で寂しいものがあると言わざるを得ません。
そんな彼らへのメンタル面でのサポートもすべきだと、
意見を述べました。

Jリーグが設立されて12年余。
まだまだ日本は、プロサッカーを取り巻く環境が十分とはいえません。
私は最古参理事ですが、マンネリ化しないよう常に問題意識を持って、
サッカー界の向上に貢献したいと思っています。

問題を1つづつ解決していくという地道な努力の積み重ねが、
将来への大きな発展につながるのです。
Jリーグについて何かご提案、ご意見等がありましたら、
遠慮なく下記にメールをお送りください。お待ちしています。

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2004年3月28日 宮里藍は前園に?

2005年12月07日 | 2004年
宮里藍は前園に?

宮里藍は前園になってしまうのか
3月22日の日本経済新聞に、アイドルのような宮里藍の写真で埋め尽くされた
一面広告が載っていました。ご覧になりましたか?

襟元を大きくカットしたレモンイエローのシャツは
彼女のさわやかさと愛らしさを一層引き立てていました。
写真集の広告かと思って社名を探してみると、何と「スカパー」です。

写真と写真の小さなスペースに、こんなコピーが書かれていました。
「ありがとうございます。今日、スカパーは東証1部に上場します」
史上最年少、プロ最短優勝を果たした宮里の出現は、
女子プロゴルフへの注目度を一気に高めました。

実力はもちろんのこと、そのチャーミングなルックスが
大きな要因であることは、誰も否定しないでしょう。
しかし、この広告を見て、私は一抹の不安を感じました。

Jリーグが始まったころ、アイドルのように持てはやされ、
その後、実力が伸び悩んでJリーグに活躍の場を見出せなくなった
前園真聖をふと思い出したからです。

前途を期待された前園がなぜ、そんなことになってしまったのか。
たまたま今月の「スポーツ21・マーケティング研究会」のテーマは
スポーツマネジメントでした。

前園をマネジメントしていたのはサニーサイドアップという
中田英寿のマネジメントで有名になった会社です。
スポーツ選手のマネジメントは初めてだったこともあり、
前園をファッションショーに出演させたりしました。

この日の講師だったジャック坂崎さん(J・坂崎マーケティング社長)によれば、
「現役のスポーツ選手をファッションショーなんかに出すべきではない」といいます。
選手としていかに大成するかを最大目標にすべきで、
「ファッションショーに出したと聞いて、これじゃダメだと思った」そうです。

前園の苦い経験から、
「中田については慎重に対応しているようだ」というのが、
坂崎さんの見方でした。

ちょうど宮里の広告が掲載された日に、
あるパーティーでゴルフ評論家の川田太三さんに会いました。
「どうなんでしょう、宮里はこの先、大丈夫でしょうか」と質問してみました。

「日本の選手はジュニアでは世界でトップなんですよ。
でもその上の年齢になると伸びない。
日本の選手は少しでも活躍すると、
周りがチヤホヤして甘やかす。これがよくないんです」

川田さんのこの話を聞いて、一層、宮里の前途が心配になりました。
まだ18歳。ゴルフに専念できる環境をいかに作っていくかが、
周りの大人たちの大切な仕事です。

10年後の宮里藍はどうなっているでしょうか。
大きく成長していてくれることを願うばかりです。

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