平成28年11月22日に北斎とゆかりの深い地に開館した
「すみだ北斎美術館」(JR総武線両国駅下車徒歩9分)に
ようやく行く事ができた。世界的な芸術家として評価の高い
葛飾北斎にも興味があったが、それと同時にこの美術館の
建物も是非見たいと前々から思っていたからだ。
この美術館の建築設計コンセプトは「街に開き、地域住民の
方々に親しまれる美術館。」設計者は金沢21世紀美術館などを
設計した妹島和世だ。彼女は昭和31年茨城県日立市に生まれ
日本女子大学を卒業後、伊東豊雄建築設計事務所に入所。
プリッカー賞、日本建築学会賞、吉岡賞など多数受賞して
今注目の女流設計家だ。緑町公園と隣接して1254.1㎡(380坪)の
敷地にRC(一部S造)、B1F 4F、建築面積699.7㎡(212坪)
延床面積3278.9㎡(993.6坪)で大林組が施工した。
この土地は江戸時代に弘前藩津軽家の大名屋敷があった所で
藩主からの依頼により、北斎は屏風に馬の絵を描いて
帰ったというエピソードが残されている。
訪ねる人が気軽に立ち寄ることができる、公園や地域と
一体となった設計になっている。大きな1棟ではなく、
スリットによりゆるやかに分割された外観とすることで、
周辺の下町市街地のスケールとの調和を図っている。
建物全体をゆるやかに分割するスリットは、地上階部分では
アプローチの空間となっており、外部通路で結ばれている。
建物全体に裏をつくらず、周辺地域のどこからでも
アクセスすることができる。浮世絵作品の保存展示を考慮し、
建物全体として閉じながらも、スリット部分から館内の様子が伺え、
地域の人々にとってすみだ北斎美術館が身近に感じられるものとなっている。
建物の外壁は、淡い鏡面のアルミパネルを使っている。
建物外壁にやわらかく下町の風景が映り込み、
周辺地域の風景に溶け込む様に考えている。
この日は残念ながら曇っていたが、晴れた日には鋭い
アルミパネルの稜線が青空を切り裂いているのではないか。
もう一度晴れた日に来てみたいものだ。ゆるやかに変化する
ヴォリームは風景の映り込みを緩やかに変化させ、
見る角度によって表情が変化する外観となっている。
エントランスホールに入ると一角にミュージアムショップがある。
北斎の額入りの作品特に赤い富士のアダチ版復刻浮世絵が
目に止まった。27600円。他にも北斎の作品を使った
種々なグッズが並べられており、外国人が幾人も手に取って見ていた。
一階エレベーター前。このスリットは、内部でも
多様な空間を形成する。ある階では、各ヴォリュームが
独立して部屋になり、ある階では他のヴォリュームと
結びついて大きなワンルームを作る。
1Fエレベーターに乗って、4F常設展示室へ。北斎とすみだとの
関わりや北斎の生涯をタッチパネル式情報末端で楽しみながら
理解を深めることができる。葛飾北斎(1760年~1849年)は
本所割下水(現在の墨田区亀沢)付近で生まれ、
90年の生涯のほとんどを区内で過ごした。
ここ数年インバウンド客が急増しているが、ここ北斎美術館も
国外に向けて情報発信をしているためか、多くの外国人が
真剣に北斎と向かい合っていたのが印象的だ。
ここは4階の展望ラウンジ・ホワイエ。展望ラウンジからは
公園や周辺地域を眺めることができ、東京スカイスリーといった
角田の特色も眺めることができる。
直線の多い美術館の中で4階から3階へ降りられる螺旋階段の
描く曲線はとても新鮮な空間に見えた。尚3階の
企画展示室は次の準備の為、閉館となっていた。
展示室に入ったすぐの所の壁に葛飾北斎の5代に渡っての
家系が直に書かれてこれが実に洒落ていた。
北斎の母方の曽祖父小林平八郎は、赤穂浪士討ち入りの際、
吉良上野介を守り討れた家老だと本人が言って自慢していたという。
常設展示室は7つのエリアで構成されている。北斎とゆかりの地
「すみだ」とのつながりから始まり主な画号により
6つに分けたエリアは、各期の代表作(実物大高精細レプリカ)と
エピソードを交えて北斎の生涯を辿ることができる。
北斎の作品は、現在でも数多くのアイテムやグッズなどに
取り入れられている。又様々な北斎の作品が
記念切手にも使用されている。富士山を世界遺産にというテーマで
2012年に作られたテディーベアをモチーフとした
フィギュア「ペアブリック」には「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の
図柄が用いられている。
展示作品の作品ではタッチパネルでこの時代の北斎、
年表、トピックスが、日本語、英語、韓国語、中国語で
表示される様になっている。これを見ても美術館にも
国際化の波が来ているのが分かる。
新板浮世絵浅草金龍山之図、1809頃 これは世界に誇る
ピーター・モース・コレクションの1つ。世界有数の
北斎作品収集家であり、また研究家でもあった故ピーター・モース氏
(1935~1993年)の急逝後、そのコレクションの散逸を
惜しまれた遺族が墨田区の美術館計画に理解を示し
総数600点に近い北斎作品等を一括引き渡した。
百物語 さらやしき 天保2~3(1831~32)頃
富嶽三十六景、御厩川岸より両国橋夕陽見 天保2年(1831)頃
両国橋、厩橋、関屋の里、木母寺、隅田川神社
白髭神社、新柳橋、駒止石・・・。北斎は隅田川の
様々な光景や人々の姿をいきいきと描き出している。
富嶽三十六景山下白雨 1998年にはアメリカの雑誌「ライフ」で
この100年で最も重要な功績を残した世界の人物100人の
中で日本人で唯一北斎が選らばれている。
かの有名な富嶽三十六景 神奈川沖浪裏
北斎の作品は海を渡り、ゴッホやモネなどをはじめ多くの
芸術家たちに影響を与えたと言われている。作曲家の
ドビュッシーはこの絵の影響を受け1905年に交響詩「海」を作曲した。
伝神開手 北斎漫画 文化11年 この時期に門人が増え、
また北斎の絵を学ぶ人も全国にいたため、北斎は絵手本の
作成に情熱を注いだ。現在「ホクサイ・スケッチ」の名で
世界的に知られる北斎漫画の製作もこの時期に始められた。
北斎は84才の頃、区内の榛馬場に娘の阿栄とともに住んでいた。
その様子を門人の露木為一が絵に残している。
本アトリエは、それを元に再現した模型。北斎を訪ねたひとの話では
ゴミが散らかっていても父娘は意に介さず、その中で
平然と絵を描いていたと伝わっている。ここでも
外国人が物珍しそうにカメラに収めていた。
常設展示場から出口へ。正面に見える絵が近くに
住んでいた牛嶋神社に奉納した大絵馬「須佐之男命尼神退治の図」
この大絵馬は関東大震災で焼失してしまった。
展示してあるのは推定復元絵馬。
外からは建物が一体に見えるが別室になっている図書館。
同じく隣にある講座室。1階に3つある室をスリットでつなげている。