スミダマンのほのぼの奮戦記

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京都文化博物館

2022-09-03 06:04:13 | 建物

https://www.bunpaku.or.jp/

この建物は1903年(明治36年)9月に着工され、1906年(明治39年)に竣工した。

日本銀行京都出張所は1894年(明治27年)4月に東洞院通御池上ルに開設されたが、

1906年7月にこの地に新築移転され、1911年(昭和40年)6月に出張所から支店に名称が変更になった。

その後、銀行は1965年(昭和40年)10月に河原町通二条に移転し、

翌年5月から平安博物館として開館した。

1969年(昭和44年)3月に国の重要文化財に指定。

1988年(昭和63年)10月に博物館別館として公開された。

京都文化博物館の模型。

赤いレンガ造の建物が旧日本銀行京都支店で白い建物が博物館本館。

別館は煉瓦造2階建、一部地下1階スレート(粘板岩)・銅板葺。

外観は三条通に面して左右対称で赤煉瓦に白い花崗岩を装飾的に配している。

19世紀後半のイギリス建築によく使われた様式だ。

建築面積は884.4㎡。

当初の工費は約18万円余り。

時代の貨幣価値の変化を感じます。

建物の外ではこのようなショップが並び、イベントをやっていました。

ところでこの素敵な建物の設計者は辰野金吾(1854~1919)と弟子の長野宇平治(1867~1937)。

辰野は肥前国唐津(佐賀県)出身で、日本銀行本店や東京駅など日本を代表する建造物を設計した

近代の建築家である。

長野は各地の銀行建築をよく手掛け、初代の日本建築士会会長も務めた。

建物の中に入ると天井高の高さに驚く。

丸い木材のエンタシス調の長い柱と細工が施された天井。

壁はおそらく漆喰壁だと思われる。

その茶と白の色の対比が素晴らしい。

客溜りには大理石が使われ、風除室はそれだけで存在感がある。

客溜りと営業室の元のシャンデリアとブラケットは戦時中の金属提供で撤去されていたが、

古写真に基づいて復元された。

昔の銀行は本当に重厚な造りだったのが一目見れば伝わってくる。

銀行時代の応接室。

所長室は今は雑貨・ファッションの売場として使われている。

中庭的なテラスから見た赤レンガ造りの別館。

やはり味があって重厚な建造物ですネー。

ところで建物の前を東西に延びる三条通りは

江戸時代は東海道の西の起点として賑わったところでしたが、

明治の終わりに四条通、烏丸通が拡幅されるとその賑わいはそちらに移った。

それがかえって多くの歴史的建造物を残すことになった。

そのことは先日アップした京都の街あれこれPART10を参照してください。

こちらは本館1階内部の光景。

2階は「THE MUSEUM OF KYOTO」になっている。

本館の一番奥は「ろうじてんぽ」と称してゴールデンカムイ展のイベントで賑わっていた。

今回もここで偶然、思わぬ出会いが待っていた。

まさにこれが旅の醍醐味だ。

それは別館旧営業室の演じられていた京都祇園祭の後祭でなんと193年ぶりに復活、

巡行に参加する「鷹山」の復活の物語と祇園囃子のお披露目イベントに立ち会えたことだ。

この先はその時の動画を撮ってきましたので是非拝見してください。

繰り返しになりますがなんと193年ぶりの復活です。

京都というところは本当にすごいところです。

京都文化博物館①

コンコンチキチン♪♪コンチキチン♪♪

京都文化博物館②

「鷹山」は応仁の乱以前から後祭に巡行していたお囃子付きの曳山でした。

応仁の乱、宝永大火、天明の大火により焼失するも、

不死鳥のごとく蘇り、復興してきました。

文政9年(1826年)の巡行で大雨により大きく損傷、翌年から加列しなくなりました。

その後、禁門の変で山自体が焼失し残された御神体をお飾りする居祭を町家等で続けてきた。

そして令和元年に唐櫃にて193年ぶりに巡行参加、

令和4年の今年に山を復興して本格巡行参加を成し遂げた。

ということで今年の祇園祭で最も注目され、スポットライトがあたった山鉾になった。

京都文化博物館③

一般の人に鉦を刻む体験をしてもらうコーナー。

なんとサービス精神の富んだことか。

この部屋の反響が素晴らしく良く、まるでコンサートホールみたいだ。

「コンコンチキチン、コンチキチン・・・」

耳から心に響き渡る祇園の音。

 


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