思考の部屋

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西洋的因果律と仏教的縁起

2010年11月05日 | 哲学

                    (写真:8月の北アルプスのとある尾根、人生は尾根を歩くのに似ています)

 日本に儒教(教部分はほとんど除かれる)や仏教が日本に渡来し今日まで日本人の精神的な背景的要素に希薄になりるるありますが、存続している事実、日本型共同体や昔流の生き方を求める考え方が再起していることに日本人のア・プリオな道徳律、哲学的要素を考えています。

 さらに源基を求めれば「ときめき」という情動的(人をそう足らしめる、惹起するという意味)なものに至ると考えますが、その後の大陸との交流の中で培われる、育成される過程の中に日本的な源基を考察し想定しています。

 あくまでも個人的な趣味の範囲であり失笑ものでありますが、「ときめき」というものはどうしようもないもので、衰えることを知らない情動です。

 さて今朝は、分析心理学のユングの「偶然は偶然ではない」という言葉に重なり、西欧的な哲学的因果律、そして日本の仏教的縁起に焦点を置いて、最近日本人の本心・本性を性善説の良心(善・悪た良・悪の相対性を置くものとしてではなく)と想定するとき、意識的行為や過失的行為も含めそこに繰り広げられる心の展開は、ア・プリオな本心・本性(良心)がその後の生活環境等による道徳的発育段階を経てこれら本心・本性(良心)が善し悪しに覆われて現れる結果ではないかと、現時点で思考を続けています。

 そのような中で、関西外国語大学国際関係学部教授の野内良三先生の『偶然を生きる思想』(NHKブックス)に出会い第二章「分けるという方法」の中に次の「西洋的因果律と仏教的縁起」の考え方に出会いました。

 その中に上記の「覆われに」重なる部分があり、この言葉に関してだけ私とは全く逆の思考となっていることに驚きました。誤り的な批判意識は全くなく然りの、そのとおりなのです。

 野内先生は、仏教的な無我論という<我>は、西洋哲学の<実体>あるいは<本質>に対応している、といいます。ここも納得するところですが、さらに次のように展開して行きます。

<引用>

 デカルトによれば実体とは「存在するために他のいかなるものをも必要とせずに存在するもの」である(井上庄七・水野和久訳『哲学の原理』)。つまり、<実体>とはイデアとか形相とか本質とかといった絶対的なもの(必然的なもの)のことであり、現象の背後にあり、他と関係なく自体的に存在する真実在を指す(デカルトは神のことを考えていたが)。
 
 ここでとくに強調しておかなければならないことは、仏教の空観は存在の無や、有の否定や、世界の非在を主張しているわけではないということだ。つまり(大乗)仏教は無宇宙論的ニヒリズムではない (これは小乗仏教的立場だ。多くの西洋人は分かりやすいこちらを本来の仏教だと勘違いしているけれども)。仏教は感覚的世界の存在は認めるが、その実相は空であると裁定するのだ。モノはむなしい在り方でしか存在しない。問題になっているのは存在の無ではなくて存在意味(存在価値)の無である。
<引用終わりp52~53>

ここで語られる、

>モノはむなしい在り方でしか存在しない。<

非常に観照した考え方で私もそのように思っています。ここで足踏みをしてしまいますがさらに、次のように語っているのです。


<引用>

西洋的因果律と仏教的縁起

 ここで注意を喚起しておきたいことは、西洋的因果律と仏教的縁起の差違をしっかり見きわめることだ。この両者はややもするとおなじように見えるかも知れないが似て非なるものだ。その違いをはっきりさせるために以下、図を援用しながら説明することにする。

 西洋的因果律を図示すれば図2のようになる。

                    

 Aが原因でBが結果である。AはBを生起させる原因であり、その存在を正当化する根拠であり、その性質を規定する本質である。AがあればかならずBが生起する。AとBのあいだには必然性が存在する。因果待とは原因と結果の必然的な関係にほかならない。
 
 言い換えれば、因果律の支配する世界ではおのおのの事物が固有の「本質」(根拠)をもっている。その因果の必然的な連鎖をたどれば、究極的実在責体)に行き着く。だからこそギリシア以来、西洋哲学は存在に対して「それは何であるか」(本質・根拠)という問いを投げつづけてきたのだ。
 
 ここで「真理」を表すギリシア語、アレーティア(letheia)が「覆われてないこと」であることはヨーロッパの存在観をよく示している。真理(本質・根拠)の追求とは存在を覆っているベールを剥ぎ取ることなのである。覆われてない存在の姿こそ「真理」である。つまり問題は認識対象の側にある。
 
 では次に縁起観を俎上に載せよう。
 縁起とは「縁りて起こること」という意味である。縁起観の根本形式は「これある時は彼あり、これ生ずる時は彼生ず。これなき時は彼なく、これ滅するより彼滅す」である。因果律の想定する一方向的な原因=結果関係というよりは条件的生起、双方向的相互依存関係と解すべきである。因果律にならって図示すれば、図3のようになる。

                    
 
 縁起観によれば、たとえば自分が今ここにいるという単純な事実は自分のこれまでの人生の履歴はもとより、父親と母親、そのまた親たちなどさまざまな∧緑)の気の遠くなるような錯綜した連鎖の結果なのだ。この世のすべての存在はこうした連鎖の織りなす関係的依存的存在でしかない。
 
 この関係の網の日から独立した自立的存在(我=実体)を考えることが迷いなのである。この世界そのものは、われわれの迷いや悟りに関係なく相依相関の縁起の法に従って生成変化しているだけだ。 
 つまり、「覆われていること」の原因は認識対象の側ではなくて、認識する主体の側(心の闇)の問題である。
 
 縁起観の提起する存在観の要諦は他者依存性にあり、そこから「無常」という事態も結果する。いずれ第四、五章で詳論することになるが、偶然の本質もまた他者依存性にある。アリストテレスによれば偶然的存在とは「他なる物事のゆえに生起し存在した」ものであり、ヘーゲルによれば「根拠を、自分自身のうちにではなく、他のもののうちに持っているもの」である。いずれにしても偶然性とはみずからの存在の根拠を他者に依存するありかたである。
 
<引用終わりp53~p55>

 ここに「真理」という言葉とともに先に言いました「覆われる」という言葉が登場します。くり返しますが私は素人ですが個人的に同意の考えをもちました。何が「覆われる」を逆思考にさせるのか・・・ここは個人的になったくしていることで、他者から見れば分かりづらい戯言のように見えますが・・・非常に考えさせられます。

 いまのところ「真理」という言葉に何を想定するのか一元的な思考によるものか、二元的に善・悪の相対的な思考をおいて理解するのかにあるように思えます。

 野内良三先生の「偶然」の考察は実に興味深いところがあります。『偶然を生きる思想』のあとに『「偶然」から読み説く日本文化』(大修館書店)を書かれています。昨夕ようやくこの本が届きましたが、興味は尽きません。

 この話も全てハーバード白熱教室の影響下にあるような気がします。縁とは不思議で、無駄なことや経験、体験はないとつくづく思います。

 いつも記事名に失敗するのですが、『ハーバード白熱教室では語られなかった「良心」』の流れにおいて考えているところでその(6)としたいところですが長い記事名になりそうなので単純に「西洋的因果律と仏教的縁起」としました。


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