思考の部屋

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「100分de日本人論」(4-2)・霊性と霊魂

2015年02月07日 | 哲学

 1月に放送されたEテレ100分de日本人論について時々ブログアップしています。 第四章「日本の根源にあるもの」では人類学者の中沢新一さんが鈴木大拙先生の『日本的霊性』を紹介され久しぶりに大拙先生の思想を学ぶことになりました。

 最終的に「無分別の活用」の重要性が語られ、

第一章「日本の美学」編集工学研究所長 松岡正剛
    九鬼周造の『「いき」の構造』から見えてくる「日本人論」=日本数寄
    
第二章「日本人の感受性」作家(芥川賞)赤坂真理
    折口信夫の『死者の書』から見えてくる「日本人論」=モノとこいあう力

第三章「日本人の心のかたち」精神科医 斎藤 環
   河合隼雄の『中空構造日本の深層』から見えてくる日本人論=われらのウツホを直視せよ

のそれぞれの日本人論として見えてくるものとともに第四章の「無分別の活用」が加わりどのような日本人論が語られたのか。個人的に思うのは、語られたというよりも番組から逆に理解を問われたように感じます。

 この番組に対する反響をネット検索してみるのですが、番組自体に言及する人が少ないことに不思議を感じました。

 さて第四章の鈴木大拙先生の『日本的霊性』についてですが、「鈴木大拙」の名をネット検索すると2月28日(土)に学習院大学目白キャンパスで開催される松岡正剛さんの「矛盾を編集する力―西田幾多郎と鈴木大拙」と題する講演会を知らせるサイトがありました。

 100分de日本人論の第一章担当者の松岡正剛さんの講演会です。松岡正剛と言えば「松岡正剛の千夜千冊」、この887夜で鈴木大拙著・北川桃雄訳『禅と日本文化』(岩波新書)が語られています。

 松岡さんは高校時代にこの本に出逢われてようですが、私はなどはつい最近のことでまことに恥ずかしい限りです。

 私がこの本を読んだときにどこに興味をもったか。付箋の箇所を見ると次の文章に黄色のマーキングがされています。

 禅者にとってはいつも一即多、多即一である。二つのものはいつも同一性をもっていて、これが「一」、これが「多」と分けるべきではないのである。仏者の常套語でいえば、万物の姿は真如そのままである。真如とは無である。すなわち、万物は無のなかにある。無よりでて無にはいるのである。(同書p27)

 この部分は「分けるべきではない」の言葉からもわかるように「無分別智」にも重なる話で、大拙先生は「禅の人」そのものといった感じです。

 「西田幾多郎と鈴木大拙」は同級生を越えて生涯の友であったことは周知の事実で、西田先生は、

 「大拙君は高い山が雲の上へ頭を出して居る様な人である。そしてそこから世間を眺めて居る、否、自分自身をも眺めている。全く何もない所から、物事を見て居る様な人である。そう云う所が、時に奇抜ようにも聞こえることがあっても、それは君の自然から流れ出るのである。・・・・・」

と大拙先生の『文化と宗教』の序文に書かれています。

 「時に奇抜ようにも聞こえることがあっても」という語りの中に心底大拙先生を知悉しているから友人関係を突き破った関係性を感じます。ある種の魂のつながり霊性の働きのなかに二人はあったように思います。

 大拙先生の人物像ですが、親交のあった仏教学者の増谷文雄先生は、

 「この人は、いつも裸の立場から、仏陀を見、仏教を見、仏教の歴史を見ている・・・この思想家は、ただ一点を掘り下げ掘り下げして思想した人である。・・・・」

と語っています(現代思想体系8筑摩書房『鈴木大拙』p36から)。

この「一点を掘り下げ掘り下げして思想した人」という評にはそれほど大拙先生に詳しいわけではありませんが何となく共感します。

 私の個人的な考えでこの「一点を掘り下げ掘り下げして思想した人」という掘り下げ思考は、次のような表現で表せるかと思う。

 「何かあるぞ」という「こと」からそういう「もの」なのか、という体得

著『無心ということ』(角川ソフィア文庫)の中に次の話が書かれています。

「雁がもう出てくる季節になりますが、雁が天空を飛ぶと、その影が、地面の上にどこか---否、この目前に湛えられている、水の上にちゃんと映っているではないか。雁には自分の影を映そうという心持ちはないのだし、水にも雁の影を映そうという心がない。一方には跡をとめる心がなく、また片一方にはそれを映しておこうという心もないが、雁がとべば、その影が水にうつる。心なきところに働きが見える。・・・・・」(上記書p14から)

「心なきところに働きが見える。」

 『無心ということ』とは、「無心とは何か」という問いに「無心の表現」を語るものです。表現されているのは「心なきところに働きが見える。」で、「もの」の体得がそこにあります。ある人はこの言葉の意味するところを「さとり」であるといいます(志村武著『青春の鈴木大拙』佼成出版社p52)。

 増谷文雄先生は、大拙先生にとっては、「さとり」の問題のほかには、究極の関心事はなく、その生涯をかけて、この一点のみを掘り下げつづけたと言っています。

 「さとり」の体験のことを mystic institution (神秘的直観)とか mystic experience (神秘経験)と大拙先生は訳されているようです。

 したがって「禅」は神秘主義というイメージが強くなります。増谷先生はこの言葉は誤解を招くのではないかと大拙先生に尋ねたことがあるそうで、その時大拙先生は、

 「ミスティシズムというのは、なにかパラサイコロジカル(parasychology・疑似心理学---純正な心理学の領域外の心霊現象を扱うもの)な現象をいうように考えていたらしい。」

 「キリスト教の人はレヴェレーション(revelation・神の啓示)ということを説いて、内からの自覚ということをやかましく言わんから、それで自然にミスティシズムをよくいわんようですけれどもね。」

 「それで禅宗の話でもすると、テレパシー(telephathy・精神感応)とか、ポルター・ガイスト(porter-geist・だれでも手をかけないでも室内のものが動くといったような現象)とか、禅宗もやはり一種のそういうものではないかととる人もあるようです。」

と答えたそうです(上記思想体系p32)。

そういうこともあったかどうか、大拙先生は翻訳家でもあり38歳の時(1908年)にロンドンのスヴェーデンボルグ協会の招きで渡英しその後スヴェーデンボルグの著書の翻訳を行ないます。スヴェーデンボルグと言う人はどのような人なのか。

 スヴェーデンボルグはという人は、スエーデン生まれの神秘学者で1773-4年ころ、神秘的な霊視の体験を得て、以来、神的霊界の存在を確信し、心霊研究に没頭して、おおくの著作を遺した人。カントは『カント「視霊者の夢」』(金森誠也訳・講談社学術文庫)で彼を批判しているのは有名な話です。

 私は霊界通信の人と書きましたが、ネットを見るとそれがよくわかります。ネット検索の続きですが、実におもしろい話なのですが大拙先生を検索すると、未だに大拙先生の語りを聞くことができます。それは視霊者を介在しての話で既に大拙先生は亡くなられています。

 上記にスヴェーデンボルグの著書の翻訳を行っていることを書きました。これが大きな誤解を招くわけです。 

 『日本的霊性』における「霊性」は当然に霊界通信のような霊の話ではなく、決して自分を離れてはいない話なわけです。上記に書いたように最近では交霊とか霊界通信とか称して大拙先生が語っている話しをネットに見ますが、それは自己を離れた話になるわけです。

 増谷先生は、この大きな誤解を招く懸念から大拙先生にその訳を聞いたところ次のよう語ってくれたそうです。 

【鈴木大拙】 それは、つまりこういう訳ですね。わしがアメリカにいた時、今から50年ほど前になりますかな。あすこ(ポール・ケーラスのところ)にいた時に、アルバート・エドマンという人と知り合いになりましてな。その人は、イギリスの山の中のウェールス、あそこの人で、クェーカー(Quaker・フレンド協会の会員)で、そしてスヴェーデンボルジアン(Swedenborgian)で、パーリ語(Pali)の学者なんだ。

それとパーリ仏教の関係で近づきになった。その人がわしにスヴェーデンボルグの話を聞かせてくれた。それで読んでみろというのです。『Heaven and Hell・天国と地獄』というのがある。それを読んでみた。そうすると、別に感興ということはないけれども、面白いと思った点もあるんですね。それがどうして伝わったか。イギリスにスヴェーデンボルジアン・ソサイティ(The Swedenborgian Society・スヴェーデンボルグ協会)というものがある。そこで聞き出して、わしがイギリスへ行った時に、私のところを調べて、そして、わしにあれを日本語に訳してくれんか、わしよりほかに訳す者はいない、こういうのです。そこえ、わしはラテン語は知らんというたら、それは英語の訳もあるし、フランス語の訳もあるし、ドイツ語の訳もあるのだから、そういうものを調べて、そして解らんところはわしに聞けという牧師がいたのです。それは学者でラテン語を知っている。それで相談をして『Heaven and Hell』を、イギリスのロンドンで、ちょうど、冬の寒い、霧のふかい、クリスマスのころ訳したのです。とにかく、いる間にやれというて、正味二ヶ月ついやして、朝から晩まであれにかかった。そういう因縁です。それが済んだら、またあとやってくれというので、やったものです。

以上は増谷さんが大拙先生にズバリ聞いて速記した実話です(体系p20から)から、視霊者を介しての話しではなく実話です。

 私も大拙先生がスヴェーデンボルグの著書を訳しているということを知り、大いなる誤解をしたことが過去にありますが実際は上記な理由があるわけです。

 ということで『日本的霊性』だけではありませんが大拙先生の語る「霊性」は「霊魂」を語る類のものではないということです。

 「それでは、無知な人とはいかなる人をいうのであろうか。この世の事物のはかなさに気づかず、それを終局の実在であるかに思いこんで、がむしゃらにそれに執着する人。自分自身の愚かさがもたらした不幸を避けんとして、夢中にもがく人。キリスト教者をしていわしめるならば、神の意志に反して自我に無闇にしがみついている人。個々のものをそれぞれ究極の存在と考えて、一切の個物の根底にひそむ唯一の普遍的実在を無視する人。自分のものと他人のものとの間に鉄壁の障害を建てている人。これを要するに、自我とか霊魂というようなものは存在せず、あらゆる個的存在は法身に統合されるのだということがわからない人を、無知な人というのである。」(志村武編著『青春の鈴木大拙』(佼成出版社)p83から)

 番組「Eテレ100分de日本人論」から大きく離れた話をしているのですが、『日本的霊性』で語られる「霊性」とはくり返しになりますが、そういう「こと」です。


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