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今朝は何を思考しているのか。日曜日はEテレの「こころの時代」を見ることにしてており今回はアフガニスタン出身の医師(ご本人は医療人と呼ぶ)レシャード・カレッドさんの「国境なき“針と糸”」でした。イスラム教信者の方ですが直観的に神と人との関わりの連続性を体得されている方で「手当」という言葉を最初に話されていましたが、知の医療ではなく情の医療を心の治癒も含め患者本人の精神性の安定は3分の2は患者、残りの1が医療人に残された手当だと語っておられたのが印象的でした。
亡くなられた実父の創作されたハサミと針と糸の話は、ハサミの剪断ではなく針と糸との関係を人と人との交わりの大切さの物語でした。人と面した時に印象のなかに性格とか人柄とかではなく「ひと・人・ニン」だけが見える時、「人が生(あ)るなぁ」と感じる時がありますがまさにその「人」でした。
人間が人間となるための生まれを通過しさらなる生まれに向っている人に見えました。
こう書きながら別ことがらが去来します。不思議なもので3年前の今頃、歴史好きのこともあるのですがどうしても古墳が見たくなり松本市の市街地から離れた美ヶ原のすそ野近くにある弘法山古墳に出かけました。
<3年前>
弘法山古墳・風景[2010年09月25日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/1c7973fa7b20c8834ab5af6b4a6b7777
そのように書くのは、昨日ふとこの古墳が見たくなり松本まで車を走らせ小高い丘になっている、この三世紀後半、卑弥呼の時代にできた古墳に出かけ、いつ頃のことだったか確認したところ、3年前の今頃だったというわけです。
法則性のくり返し、連続性の真っ只中にいる、そんな感じです。
小高い丘の麓にある駐車場に車を止め、ゆっくりと林の坂道を上って行きます。
木漏れ日が小径を照らし時々小鳥の声が聞こえます。5分と掛からずに昇りつくのですが、途中にある解説板などを読みゆっくり登ります。
最後の一歩で遠くの北アルプスが眼前に広がります。
眼下の町並みには3年前とはさほどの違いはなく全てがそのままにあり、走る車や歩く人々が見えます。
3世紀後半のこの地の大王は、それを崇める人々はこの拡がりの空間に何を見ていたのでしょう。古事記という日本最古の物語のできたのが8世紀のはじめ、その時代よりも300年ほど前の時代、現代からすれば江戸時代を見るようなものですがその感覚的な尺度では測れないものがあることは事実でしょう。
連続性にさほどの相違はないということです。
古事記の神代編の尺度ではないかなぁ・・・そんなことを思いながら一時(いっとき)を過ごしました。神も天帝も人々も連続性の中にいた。森羅万象が、山川草木が同じ次元にあった。10次元に足りない6次元もその次元にあったのかも知れません。